第4話

「はぁ……」


 聖女が来てからさらに数ヵ月が経った頃、魔王は本を読む手を止めてため息をついていた。原因は可愛がっている聖女のことだった。この半年で確実に実力は上がり、魔王が死ぬのも夢ではなく、現実に近づいてきている。聖女の驚異的な成長の速さに歓喜したのも束の間、向けられる殺意は日に日に薄れ、魔法の行使中に心の乱れが見受けられるようになっていた。聖女のため息の分だけ、魔王も同じ数のため息を溢す。



――何を憂いているのだろうか。彼女にあの顔は似合わん



 人族の生態を記録した書物に目を通してみるが人族の女性の気持ちへの理解は進まない。魔族の女性に相談してみたものの、夜な夜なの下世話なアドバイスしか貰えず即却下した。魔王は黒い爪の生えた手を光にかざす。



「我は何故魔王なのか…………」



 空を掴んだ後に手をおろし、ズキリと痛む胸に当てた。だが止まっているわけにはいかない。すぐさま気持ちを切り替え、腹心を呼ぶ。



「フレミー、お前は聖女を元気付けるには何をしたらいいと思う? 過去の文献によると両手にリボンを持って狂ったような舞を披露したり、大量の虫で部屋を埋め尽くす手法があるようなのだが、どうだ? どっちが良いと思う?」



 ワクワクとした気持ちで候補を書いたノートをフレミーに広げ見せると、過去最大の渋面を向けられた。



「コホン……魔王様、大変失礼ながらその文献は古すぎるようです。その手法は好きな子の気を引きたくてあえて行う『悪事』であり、近代では禁忌とされています。聖女様は激しい嫌悪を示し、ため息どころか吐き気を誘発するやもしれません」

「禁忌とな! 実行する前にお前に聞いて良かった。して、近代ならどのような手法があるか心当たりはないか?」



 少年のような眼差しで魔王は助言を待つ。フレミーは羽根の間から一冊の本を取り出した。彼の羽根は異次元空間かと思うほど収納力が高い。



「これは現代において人族で流行っている男女のお伽噺です。この登場人物の男の行動に女は単純に毎度のごとく胸を高鳴らせ、精神の回復に成功しております。まずは真似されるのが宜しいかと」

「ふむ……」



 魔王は期待に胸を膨らませ早速読み始める。そしてすぐに立ち上がり、聖女の元へと飛んだ。



 聖女は廊下の窓から黄昏れ、外の景色を儚げな瞳で眺めていた。魔王が現れると、微笑みを顔に張り付け淑女の礼をとった。



「魔王様、何がご用でしょうか?」



 魔王はその一線引かれた態度がどこか寂しい。若葉色の瞳を覗き込みながら身体を寄せれば聖女は後退るので、そのまま壁際まで追い込む。



「ま、魔王様?」



 聖女が視線を泳がせ戸惑う態度を確認し、小説の通りに魔王は聖女を挟んで壁に両手を叩きつけた。


ドゴォォォォン


 爆発音と共に聖女の背後にあった城壁が吹き飛び、外の景色の見通しが良くなる。城下からは「奇襲だ!」だの「侵入者か!?」など慌てふためく眷属たちの声が聞こえてくる。



――ん? 少々強すぎたか



 と首を傾けながら魔王は聖女を見下ろす。聖女の瞳は落ちそうなほど見開かれ、次第に涙で潤み流れ出そうだった。感動してくれたかと勘違いしたのは一瞬で、小刻みに震える肩を見て魔王は距離を取った。



「すまない! 間違えたようだ」



 そして私室へと舞い戻り、また小説を手にとって必死にページを捲る。該当箇所で手を止めて、反省し、シチュエーションを練り直し、半刻もしないうちにまた私室から目的の場所へ転移した。




 一方その頃、聖女は三人の眷属たちと大穴が空いた城壁を地上から見上げていた。


「聖女様……本当にこれは魔王様が?」

「はい、申し訳ありません。私も突然のことで理由は分からないのです。急に近づいてきたと思ったら、背中の壁が無くなっていて…………」



 聖女が深々と頭を下げれば、眷属たちは優しく肩を叩き慰めた。畏怖の対象である魔王に迫られれば、同類の魔族だって怖い。聖女が常日頃キレて「早く死んで」と魔王に言い放ってしまうのも納得で、彼女に同情したのだ。魔王の予想通り彼らは夫婦喧嘩としか見ていなかった。



「今度また新しい武器を送ります。一矢報いられると良いですね」

「我らは聖女様を応援しておりますよ。魔王様と喧嘩ができるのは聖女様のみですから、楽しみに見守らせてもらいます」

「でも……」



 一人の眷属が言葉を一度切り、皆に顔を寄せるよう手招きして声を潜めた。



「聖女様が来てから、我らの親愛なる魔王様はとても楽しそうです。ありがとうございます。だからあのお方をお嫌いにならないで下さい」

「確かに。聖女様が大切で仕方ないのだろうな。あんなにはしゃぐ姿は百年ほど仕えているが見たことがない。あのような明るい性格だとは──」

「うんうん。我々は人族が嫌いですが、聖女様は好きですよ。これからも魔王様をお願いします」



 三人の眷属の言葉に聖女はパチリと目を瞬き、胸元のブローチをぎゅっと握った。救ってきた民と変わらぬ純粋な好意が胸に刺さる。



「――え?」



 言葉を詰まらせていると突然世界が雲に覆われたように地上に影が落ち、風が巻き起こる。舞い上がった城壁の瓦礫の塵が入らぬよう目を細め、空を見上げ――全員が言葉を失った。

 逆光のシルエットからでも白金の鱗が輝き、水晶のように美しく光を透す飛膜、城の大きさと変わらぬ巨体が舞い降りてきた。その正体は歴史上の伝説の存在、銀翼のドラゴンだった。聖女も、魔族でさえも、誰もが美しさと気高さに釘付けになっていた。



「聖女よ!銀翼のドラゴンブランジュに乗って少し出掛けないか?」



 神聖な雰囲気を壊すような、軽い陽気な声が銀翼のドラゴンの上から聞こえてくる。逆光に慣れ見えてくるのは先刻城壁を破壊した犯人だ。その犯人は満面の笑顔で手を振っている。眷属たちは既に姿を消し、残された聖女は顔を引きつらせた。



「魔王様、私ったら疲れているのでしょうか? ブランジュ様……神の化身に乗ると聞こえたのですが」

「あぁ、間違いないぞ?親友のブランジュも快諾済みだ」

「……左様でございますか」



 歴代最強の魔王様と言えど、規格外にも程がある。神の化身と人族が崇める銀翼のドラゴンが実在していたと判明しただけで驚愕の事実だというのに、魔王と懇意などアルムテイル神聖国に知られたら卒倒ものだ。

 だがコテンと首を傾ける見慣れた魔王の姿に、聖女は早々にツッコミを諦めた。



「偉大なる銀翼のブランジュ様、本当にお背中にこの身を乗せる所業をお許しいただけるのでしょうか?」



 頭を垂れると、歓迎するような音が頭の中で響く。龍語の念話だと気付いた瞬間に体が宙へと引っ張られた。ブランジュが聖女の服を咥えて背へと放り投げたのだった。すぐに理解した聖女は風を纏い、ふわりとブランジュの背へと着地した。因みに、格好よく受け止めようと両手を広げていた魔王のことは目に入っていない。



「……見事な着地だな」

「魔王様殺しで鍛えておりますから」

「そうだったな……ブランジュ、例の場所まで頼む」



 ブランジュが銀翼を広げて大地に風を叩きつけた刹那、世界が青く染まった。天には雲ひとつ無く、恐る恐る下を覗けば広大な緑と手のひらサイズの魔王城。

 ブランジュは一瞬で空の世界へと羽ばたいていた。森を挟んで遥か遠くは緑が途切れ、アルムテイル神聖国が霞んで見える。聖女は故郷の姿に目を細めた。



「帰りたいだろう? もう少し待ってくれ」

「え? でも魔王様が死んだら……」

「もちろん我のことは殺してもらう。だが我を殺したあと、そなたが死なぬよう手配すると約束しよう。だから悩むな」

「私は悩んでなど――」



 魔王は視線を逸らそうとする聖女の顔を両手で包み込んだ。いつも鋭く伸びていた爪は短く、壊れ物に触れるようにそっと、そっと優しく触れた。鮮血色の瞳と若葉色の瞳が交わる。



「偽るな。我は人族の女の事がさっぱり分からず、先程から聖女を困らせてばかり……だからどうしたら良い? 我には何が出来る?」



 魔王はまるで泣いてしまいそうな子供のようだった。最強と呼ばれ、初日は冷徹な無表情の男が弱さをさらけ出していた。何が魔王を追い詰めているのか……聖女は視線を逸らさず、真似するように魔王の頬に両手を滑らせた。



「では教えて下さい。魔王様が死にたい理由を」

「……っ」

「誰にも負けぬ力を得て、魔族や魔獣に慕われ慕い六百年も生き、これからも生きていけるのに何故死のうと? 殺戮を行っていたはずなのに魔王様からは快楽も、人族への恨みも感じません。生き残りが出るように調整して人族を襲い、あえて恨みを集めるようなやり方は何なのですか……それも殺してもらうための戦略なのですか?」



 容赦ない追及に、魔王は表情を強張らせた。



「知らなくてもよい。そなたは聖女として魔王の討伐を行えば――」

「今はもう理由も分からず私は魔王様を殺すことはできません。こんなにも一緒に楽しい時を過ごしておいて、私が悩まずに殺すことができるとお思いで?」



 聖女は魔王の瞳に自分の瞳を映したまま、譲る気のない意思を示した。



 どれくらい見つめあっただろうか。魔王が諦めたようにため息を付き、力無く腕を降ろした。いつもの尊大なオーラは完全に消え、出会った当初に見た儚げな微笑みを作った。そのまま消えてしまいそうで、聖女は魔王の顔から手を離せない。


「少し長くなる。座ろう」


 手首を掴まれ両手を降ろされる。魔王がブランジュの背に腰を下ろすと、隣を叩いて座ることを促した。聖女は魔王に寄り添うように座った。


 魔王の口から語られたのは、魔王の存在意義だった。多くの人族を守るために、少数の人族を傷つけ、恨みを集め、最後は人族のために死ぬことが決まっている『生け贄』であると――魔王は生まれた時からそれをと。


 人族のために大切な眷属の死を数えきれないほど見送ってきた。一番の古参フレミーも百五十歳程で、それ以前の側近や眷属は全て寿命を迎える前に死んでいった。運命に抵抗すればそれだけ己ではなく仲間が消えていき、仕方のないことだと抵抗を諦めてから人族を恨むことも止めた。終わらない『義務』を請け負うことに、もう疲れ果てたのだと魔王は告白する。



「何故かマキナ神は我だけに死は与えてくれなかった。我は生き方も死に方も選べないのかと天に問うたが、ただの駒には答えてくれなかった。しかし遂にそなたが現れた」



 聖女の手に魔王の手が重ねられる。


「そして今『死』を感じ、数百年ぶりに『生』が楽しい。我は死ぬ瞬間はそなたの笑顔を見て死にたいのだ。楽しいままで死にたい。聖女が元気でいてくれないと困るのだ」

「――死が魔王様の救いになるのですか?」

「そうだ。積年の願いは聖女にしか叶えられぬ。頼めるか?」



 聖女は瞼を固く閉じて奥歯を噛み締める。今まで信じていた正義と生死の概念が揺らいでいた。たった数ヵ月の営みが魔王の言葉に真実味を増させていた。



――人族と魔族は相容れぬはずなのに、こうやって彼と私は隣に座っている。誰もが生を渇望しているのに、彼の話を聞けば死が救いにも思える。でも神よ、私は、私は、本当は……



 聖女はぐっと口角をあげて、妖艶な笑みを隣に向けた。


「では褒美の前払いをしっかりとなさってください。今までのでは全く足りませんわ。満足させていただかないと、殺しませんことよ?」

「ふっ──はははは! これは随分と強欲な聖女だ。魔王にたかるとは面白い! 我はもっとおもてなし術を学ばなければならぬな」



 魔王は破顔し腹を抱えて笑い出し、もう儚げな姿は微塵もない。ひとしきり笑い終えると、魔王は身体をずらし聖女の成長の正面に片膝を付いた。


「そなたは救世主だ。我の命は聖女レティシアに捧げよう」


 そして長い指先で聖女の右手を掬い上げ、手の甲に唇を落とした。聖女は何度も何度も瞬きを繰り返す。顔に熱が急激に集まるのを感じる。


「な、何を!」

「フレミーにもらった本によると、人族の女はこうすると喜ぶらしいのだが……我はまた間違えたか?」

「また、ですって?もしかして、今日の奇行は」

「奇行か……壁ドンと白馬でお迎えとやらを試してみたのだ。白馬はいなかったから白っぽいドラゴンにしてみたんだが」



 魔王は聖女の右手から顔へと視線を移し、言葉を途切れさせた。熟れた果実のように頬を赤く染め、強い意思を乗せた宝石のような瞳、不器用に笑顔で気丈に振る舞おうとする聖女に目を奪われる。



――あぁ、なんと……




 一方聖女も目を逸らせずにいた。運命を表したような闇より深い黒い髪、それでも腐ることのなかった真っ直ぐで透けるような赤い瞳、元気付けようと不器用に握られた黒爪の手を下から包み込む。



――――私はこの方が……



二人が想う気持ちも重なる。



『愛しい』



 純粋な気持ちの芽生えは甘く、痛みが伴った。禁忌に等しい意味を言葉にすることは容易ではない。視線を交わらせては、外し、また目線を重ねること繰り返す。暫くの沈黙の後、会話を再開させたのは魔王からだった。



「あぁ、目的の場所に着いたようだ。次こそ喜んでくれると良いのだが」



 魔王が視線を向ける先の景色を聖女も瞳に映した。空の青色は一際濃く茜色が沈み、太陽は最後の灯火のように強く燃え、それを海が受け止め光のレッドカーペットが揺れた。

 聖女が初めて見る、太陽が海で眠りにつく瞬間だった。『今日』が死を迎える瞬間だというのに、悲壮感はない。



「魔王様、最高のおもてなしですね。ありがとうございます」

「それは良かった。毎回ブランジュに頼むことは出来ないが、他のドラゴンに乗って見に来よう」

「はい。お願いします」



 出来れば何年も先も――その言葉を飲み込み、聖女は頭を魔王の肩に預け、空の散歩を味わった。


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