第五十二話 二十五年





俺は、目眩の中をたゆたいながら、段々と大勢の人が歩く音へと近づいていくような気がした。


香の香りは途中で途切れ、目を覚ました時には、背中に石のような硬い感触を感じ、目を開けると、ビルの窓ガラスがそびえ立つ、東京に戻っていた。


視界に飛び込んできていたビルは、どこの物か分からない。でも、足早な雑踏は誰も俺に構わず、なんとなく東京だろうと思えた。


俺は思い出を引きずる暇もなく、自分の居場所を探さなければならなくなった。




「すみません、聞きたい事があるのですが…」


俺がまず向かったのは、付近にある交番だった。それは道行く人に場所を聞いたのだが、俺が道を聞こうとすると、その人は酷く怯えて、おどおどとしていた。


途中で気づいて元結をやぶり、俺は元の“山賊”の髪型へと戻る。頭頂部を剃り落とすのはお武家だけだから、町人はほどけばいいだけだ。




交番に着くと、下駄履きに古い着物姿の俺を見た警察官さん達はどよめき、俺は訝しがられながらも、暖かく迎えられた。


「それで、お帰りになるお金がないと」


「え、ええ…財布を失くしてしまいまして」


俺は、江戸時代にタイムスリップした時と同じように、事情を伏せて、警察の人からお金を借りようとした。


しかし、「一応、住所氏名を控えさせて下さい」と言われた時、はたと困ったのだ。


“俺の住所、まだあるかな?”


そこで、確かめようと思って、俺は、目の前に居る警察官さんにこう聞いた。


「あの…今は何年でしょう?」


「はあ、令和の二十七年ですが」


“なんだって!?”



俺はもちろん、“元居た時間にきっちり戻って来れるだろう”なんて自信があった訳じゃない。でも、自分が江戸で過ごした二十五年程の年月が現世でも流れ去っていたなんて、予想をしていなかった。


俺は驚いて叫ばないようにぐっと堪えたが、警察の人は、俺が酷く驚いている事に気づいたようだった。


「どうしました」


「あ、いえ…その、もう一つ、相談したい事があるのですが…」


俺の頭の中は混乱でいっぱいだったが、必死に今やるべき事にたどり着くまで、考えた。


多分、俺が住んでいたアパートには、既に俺の居場所は無いだろう。


家族は捜索願を出してくれたかもしれないが、二十五年が経ってもまだ探しているなんて事はあるだろうか?しかし、確かめない事には分からない…


そこで俺は、警察官さんにこう言った。


「あの…実は、現住所がないんです…」


「はあ」


警察官さんは、ますますこちらを疑うような目で、軽くため息を吐く。でも、俺にとっては大きな問題だ。だって、もし居場所が全く残されていないとしたら、俺はホームレスにならなきゃいけなくなるかもしれない。


「長いこと、家出をしていたもので…それで、捜索願が出されているのか、確認したいのですが…」


「家出?ご家族の方に報せないでですか?」


「え、ええ…」


あまり納得していないようだったが、俺の言い出した事は人を騙すために使われる手口でもないし、警察官さんはもう一度俺に当時住んでいた住所を書き出すように言った。



「ええ…矢島昭さんです。はい、そうです…」


俺は、当時の現住所と氏名、年齢を書き出し、同じ人物の捜索願が出されていないか、調べてもらっていた。その間に俺は、別の警察官さんから、コーヒーを出してもらった。


“コーヒー、久しぶりだな…”


江戸時代には手の届かなかった、現代文化。それを目前にすると、自分が本当に現代に帰ってきたのだと分かり、どこか詫びしく思った。


俺が二口ほどコーヒーに口を付けた時、電話をしていた警察官さんがこう叫んだ。


「えっ!ある!?あったんですか!?本当に!?」


“やっぱり…”


多分、俺の親か誰かが、俺の捜索願は出していたのだろう。


“でも、途中で諦めてしまって、俺は死んだ事にされてやしないか…”


やがて電話が終わり、俺を調べていた警察官さんは戻ってくる。


「出ていたそうですよ。捜索願。それで、あなたは二十五年前に家出を?」


「は、はい」


「そうですか…でもねえ、捜索願というのは、三ヶ月で期限切れになるもので、事件性が無い場合は更新はされないんです」


「そうなんですか…あの、家族と連絡を取りたいのですが、私は、スマホも持っていなくて…電話を貸して頂けないでしょうか?」


「ええ、どうぞ」



俺は、半分ほど諦めながら、実家の固定電話に電話を掛けた。それは俺が小さい頃から変わっていない番号だったし、よく覚えていた。


“まだ繋がればいいけど…もしかしたら…”


その先の事を考えまいとしながら、俺はコール音が鳴るのを待った。


ル…ルルルルル…


“鳴った!番号はあった!”


電話番号はまだ存在していると分かり、俺は少し気持ちが上向いた。しかし、ここで全く違う、移住してきた住民が出たりしたらと思うと、まだ安心できなかった。


三回、四回と繰り返す内に緊張が高まったが、やがてガチャッと音がする。


“……はい?”


やや遠慮がちに、警戒しているようなその声は、間違いなく俺の父親だった。もうほとんど覚えていないと思ったし、歳も取っているはずなのに、“ああ、父さんだ”と分かった。


でも、俺は何から言えばいいのか一瞬迷い、やっぱりこう言った。


「…父さん、久しぶり。昭だよ」


すると、電話の向こうからは息を飲む気配が流れ、ややあってからして、また父が話し始めた。


“昭…?本当に昭なのか?”


「うん、そうだよ。帰ってきたよ」


そう返すと、やっぱり父は怒った。


“…お前、こんなに長く、一体どこに居たんだ!”


「訳は今は話せない。実は、交番で電話を借りてるんだ」



その後、なかなか電話を切りたがらなかった父だけど、お金も身分証も無いと話すと、「迎えに行くから」と言われ、父の車で俺は帰る事になった。



俺は、交番の警察官とはほとんど話さずに、ある事を考えていた。


“俺は、もう“秋兵衛”じゃないのかもしれない”


“これからは、矢島昭として、生きていかなくちゃいけない…”


この現代では、俺を“秋兵衛”と呼ぶ人は一人も居ないだろう。でもそれでは、俺が江戸時代に居た頃の子供達や、おかね、大家さんに籠屋の二人…それらの人達が、まるで元から居なかったかのようで、寂しかった。




再会した父はすっかり白髪になっていたけど、まだ元気そうで、日焼けした顔で、しゃっきりしていた。そして、俺に突然こう言った。


「家に帰ったら、話したい事が二つある」





つづく

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