第四十三話 おりん





おりんが六つになった頃、おりんも手習指南所に通い始めたけど、その前からおりんは読み書きを知っていた。


俺は、「空風秋兵衛」として、書き物をしている。出来上がった本を受け取ってくると、おりんはそれを読んでもらいたがり、俺の膝によく乗ってきた。


中には子供に向かない読み物もあったけど、大体は、なんてことのない日々が過ぎて行くだけの戯作だ。


俺がゆっくりと読んでやると、おりんは面白がって、口元を両手で押さえながら、くすくす笑っていた。それからおりんは、いつも決まって、「もういっぺん読んで」とねだるのだった。


指南所でどうしているかとおかねが聞くと、おりんは、「先生にほめられた」と言う事が多かった。七つの時におりんが書いた物を持ち帰って来た時、いつの間にか楷書を書けるようになっていて、俺達はびっくりしてしまった。



楷書は、武士階級が読み書きに使うものだ。だから庶民は普通は習わない。でも、おりんは先生に「やってみたい」と願い出て、教わったのだと言った。


俺達はおりんの頭を撫でて、「すごいじゃねえか」、「えらいねえお前さんは」と、ほめた。するとおりんは、「来週から、そろばんもやるんだ」と言ったので、ますます驚いた。



だけど、おりんも結局、指南所は二年でやめてしまった。原因に心当たりはある。




ある日、おりんが持ち帰ってきた宿題を終わらせ、俺が見てやっていた時、俺の後ろには、十四になった秋夫が、煙管をプカプカやっていた。


「おりん、こりゃあ綺麗な字だな。難しいのも書けるようになってきたなぁ」


俺がそう言うと、おりんはにこにこして俺を見上げた。その時、後ろからおりんの宿題に影が差して、振り向くと秋夫も宿題の紙を覗き込んでおり、ぽつっととこう言った。


「はん、俺にゃさっぱり読めねえ」


「そりゃおめえは習ってねえからさ。習えば読める」


俺がそう言っても、秋夫は、「めんどくせぇよ」と言って唇をすぼめ、ふーっと細長く煙を吐いた。


俺がおりんの方に顔を戻すと、おりんはなぜかがっくりと俯いており、顔を真っ赤にしていた。


「どうした、おりん」


そう聞いても、おりんは黙って首を振るだけで、そこから二三日してから、急に「もうやめる」と言ったのだ。



「やめる?どうしてさ。そろばんがわかんなくなっちまったのかい?」


夕食の席に、秋夫は居なかった。でも、おりんは指南所に行きたくない理由は言わずに、最後に膳を重ねて食器を洗いに立った時にも、一言だけ「やめる」と言った。


俺達夫婦は、おりんに強く言い聞かせて、これ以上何かを望む気持ちにはなれなかった。


相変わらず着た切りの、紺が褪せた丈の短い着物からは細い素足がにゅうっと出て、おりんは洗い場に向かい少し咳をしながら、三つ重ねた膳を持って立っていた。その痛々しい姿を見ていると、無理に何かを言う事は出来なかった。


俺は、「そうか。でも行きたくなったら、またいつでも行けるからな」とだけ言い、おりんはそれに、「うん」と返した。



しばらく俺は、おりんが指南所をやめたがった理由が分からなかった。でも、ある時、珍しく家で秋夫と向かい合って煙草を吸っていて、理由を思い出したのだ。



その日の昼、秋夫は家に帰って来て、まずは一服煙草を吸った。刻みを気障な喧嘩煙管にちょいちょいと詰めて、火鉢へ近づけ、はあっと煙を吐く。そして、表の戸をちょっと振り返った。


「なぁ。なんであいつぁ出かけてねえんだ?」


おりんは、その時井戸端に洗濯をしに行っていた。それを、帰ってきた時に秋夫は見たんだろう。不思議そうに聞いてきた秋夫に、俺はこう答えた。


「わからねえ。急に指南所を「やめる」って言ってな、それっきり行かねえよ」


「もったいねえなぁ。俺よか出来がいいんだからよ」


そう言って秋夫は笑った。その時の秋夫の、「俺よか出来がいい」という言葉を聴いて、俺は初めて、“もしや”と思った。


“おりんは秋夫に気を遣ったのか…?いや、まさか…”


そして、おりんの宿題を俺がほめていた時、おりんが顔を真っ赤にして俯いていたのを思い出した。あの時、おりんはもしかしたら、“兄に恥をかかせた”と思い込んだのかもしれない。そうだ。ほかに考えようがない。


おりんは、優しい。優しすぎるほどだ。だから多分、兄より優秀にはなりたくなかった。


でも、それはおりんにとって良い事ではないし、秋夫に何か良い事が起こるわけでもない。


俺は、目の前でのんびりと煙草をふかす秋夫にそんな事は言えなかった。かと言って、おりんに問い質した所で訳は話してもらえないだろう。俺はどうしたらいいのか分からないまま、時折ぽっと灰の舞い上がる長火鉢を覗き込んでいた。





つづく

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