第三十五話 夫婦の理





俺たちは、夫婦だ。この時代では、「めおと」と言う。そして、男女の付き合いにつきものの現象が、夫婦生活にはある。


夜、ごはんを食べたあとで布団を敷き、二人でそこに横になって灯りを消し…。


これはちょっと子供にはあまり聞かせられない話なので、詳細は省く。立ってお聞きになりたいという方がいらっしゃれば、後から楽屋の方へ…いやいや、落語家の三笑亭可楽さんしょうていからくの真似をしている場合ではない。


大変だ。大変なことになった。俺は、彼女の婚礼の儀を上げてからちょうど丸五カ月経った頃、大変なことを告げられたのだ。






最近、彼女の様子がちょっと変だな、とは思っていた。


時々、一人で首を傾げては少しおなかをさすったり、時には「いらない」と言ってごはんを食べなかったり。


「大丈夫なのかい。食べないと、おなかがすいちまう」


俺がそう声を掛けると、彼女は首を振って「なんともないよ」と言ったけど、その表情は不安げで、俺は彼女をよく見ていて、何かの病だとしたらすぐに医者に見せないと、と考えていた。


そして、その日がやってきた。


その晩、俺たちはいつもの通りに冷や飯を食べて布団に包まり、新しく損料屋で借り直した大きな布団の中で、手を握り合っていた。


おかねは…ここで一つまたことわっておこう。


俺は最近、彼女に対してあんまり照れなくなった。


結婚する前までは、「おかねさん」と口にするだけでも顔が熱くなったものだけど、婚礼の次の晩に、また詳細は省くが、彼女が意地を張る分、照れ屋だと知って少し安心したのだ。


“どうしたんだい、早くおいでな”


そう言いながらも、決して顔を上げずに俺の腕を引く、真っ赤な頬を、ちょっと思い出した。


俺ばかり彼女を想っているわけではない。それに彼女は、年下娘を引き倒してしまうくらいのやきもちやきだし。このへんは、今のところ気を付けているし、大家さんのお説教も効いたのか、何も起きていない。


だから俺はいつでも彼女のことを「おかね」と呼んで愛しみ、彼女は今まで通りに、「あんた」とか、「お前さん」と呼んでくれた。「秋兵衛」と呼ぶときは、大抵おかねは、怒っている。



「おかね」


俺は彼女の手を布団の中で握って、体を引き寄せようとした。すると、今晩に限っておかねはそっぽを向きながら、俺の胸を押し返したのだ。


「どうしたんだい。体の具合でもよくないのかい」


俺がそう心配すると、彼女はちょっと言い淀んで、きっと睨むほど俺を見つめる。そしてそのあとで、ほろりと涙を流した。


「なんだい、どうしたんだい」


本当に心配になったけど、どうやら彼女は悲しくて泣いているのではないらしく、小さな手で涙を拭いながら、微笑んでいた。


「お前さん…しばらくね…お客が来ないんだよ。もう一月になる…」


「えっ…!」


“お客”。それは女性の月に一度の生理現象を言う。この時代はそう呼ぶものなのだ。


それが、来ない。


俺はもちろん成人男性だから、そのことがどういう意味を持つのかは、もうわかっていた。


「ってことは…おかね、もしかして…!」


「そうさ!授かりものだよ!うちに、赤ん坊が生まれるんだ!」


その時の俺の喜びようたるや、大したものだった。


俺は布団から飛び上がって戸を開け、外に駆け出し木戸にぶつかって、あっという間に表通りへと走り出た。


嬉しくて嬉しくて、「やったー!」と何度も叫び、それから呆れながらあとをついてきていたおかねに抱き着いて、「ありがとう!ありがとう!」と彼女を抱きしめた。


「ちょっと、苦しいじゃないかさ。それに、ご近所が起きちまうよ。まったく、まだ産まれてもいないのに…」


「そうだね、でも…本当にうれしいなあ。明日は何かご馳走を買ってくるよ。俺は大家さんのおかみさんにでも、話を聞きに行こう。お産は大変と聞くし」


「はいはい、わかったから。もう寝るよ」


「うん」



俺はその晩、やっぱり眠れなかったので、ずっと赤ん坊の名前を考えていた。








つづく

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