第三十三話 婚礼





大家さんのお説教があらかた済んでおかねさんも泣き止むと、大家さんはこう言った。


「実は今、源さんを私の家に呼びにやっていたんだ。だからお前さんたちも来なさい。しっかり詫びをするんだよ」


おかねさんはもうすっかり素直になっていたので、少し怖がっていたが、俺が「私も一緒に謝りますから」と言うと、「すまないね」と言って、俺たち三人は大家さんの家に向かった。






着いてみると、源さんは大家さんのおかみさんとお茶を飲みながら笑い話をしているようだった。そして、俺たち二人が立っているのを見ると、少し不服そうではあったけど、あちらも申し訳なさそうに、少し頭を下げて迎えてくれた。


源さんはもう長いこと左官さかんの職人として生きてきた人で、やもめだった。でも昔のように喧嘩はせずに、年相応の落ち着きがあり、かなり小柄ではあったけど、笑顔の優しい人だった。


おかねさんは、「このたびは本当に申し訳ないことをしました」と言って深く頭を下げたし、俺は何も言わなかったけど、それに倣った。


そして、話の要点は隠しながらも、大家さんが、なぜおかねさんがあれほどに怒ったのかの説明を源さんにした。すると途端に源さんは申し訳なさそうに俺たちに頭を下げて、擦り切れた甚平姿で何度も俺たちに謝った。


「すみません…そうでしたか…それは本当にすみませんでした。あたくしも帰ってお糸を叱らなければいけないところですが、実はこれから仕事がありまして、もうだいぶ待ってもらっているので、行かなければいけないのです…重ね重ね、失礼を致しまして、申し訳ない…」


そう言って今にも泣きそうな顔をしている源さんに、俺たちは「もう大丈夫です」と何度も声を掛けた。


「さあ、じゃあ源さんも仕事の相手に待ってもらっていることだし、これでこの件はもう恨みっこなしでお願いするよ。あたしも誰かをここから追い出すなんて嫌だからね」


大家さんがそう言うと、全員それに頷き、源さんはまた頭を下げてから、仕事へ出かけて行った。




俺たちはそのあとも大家さんに引き止められて、おかねさんの稽古が始まる少し前まで、三人で話をしていた。そして、やっぱり大家さんはこう言った。


「それで、お前さんたちのことだけどね。やっぱりもう早くに祝言しゅうげんをあげた方がいいんじゃないのかい。これ以上ことがややこしくなる前にやっておけば、お互いに気持ちのけじめもついていいだろう」


するとおかねさんは急に不安そうな顔になって、おろおろとし始める。


「でも、でも大家さん…あたしはあんなことをしてしまったんですから、今すぐにはそんなことはできません。それに、祝言を上げることだけで、周りからなんと言われるか…」


彼女はもう突っ張って意固地になることもなかったので、今度は“そんなことを今すぐにすれば、他人様からどう言われるか”が気になって仕方ないようだった。それは俺も同じだ。


「大家さん、もう少し時を待ってからではいけないのですか。このままそんなことをすれば、私たちは長屋に居場所がなくなってしまいます」


大家さんは、「フーム」とうつむいて考え込んでいるようだった。


「では、もう少し経ってほとぼりが冷めたら、あたしが間に立つから、お前さんたちはそのつもりでいなさい」


「え、ええ、それなら…」


おかねさんはまだ不安なようだったけど、俺たちは話もそこそこに、お稽古に間に合わせるため、家に帰った。







ところで、ここで「栄さん」と「六助さん」の話をしておかなければいけない。



俺たちが祝言をあげるまでの少しの間、その二人が働きかけてきたことがあった。


栄さんは俺に文句を言いながらも「うまくやりゃあがって。たわけものぉ」と笑いながら俺の頭を小突き、六助さんの方は話を聞くとすっかり意気消沈してしまった。


「俺がいちゃあ、お前さんたちはやりづらいだろい」


「あたくしは、お師匠の元へもう通うことはできません。申し訳ございません」


そう言って二人とも、おかねさんのお教室をやめてしまった。


ほかにも幾人か男のお弟子が下がり、通ってきていた娘さんの母親たちも、「下男とそんなことになっていたなんて」と呆れてしまい、娘さんも何人かは下がっていってしまった。


ただ、ここで良かったことも一つある。


それは、おかねさんの腕を見込んで本気で通っていたお弟子ばかりが残ったことで、“春風師匠”は稽古に手加減やお世辞を使う必要もなくなって、お弟子はみんなぐんぐん腕が上がった。


そうすると、今度はその評判を聞きつけて、師匠の暮らしなどはどうでもよい、三味線が好きでたまらないお弟子が、何人か新しく入るようになったのだ。



俺の「写し物」の稼ぎは相変わらず少なかったけど、ある時、俺に一件の仕事が舞い込んだ。


「おめえさんは、どうも話をよく理解できるようで、写したものの感想を聞いてもなかなかだ。それに、元々は書き物の練習もしていたって言うじゃないか。一つ、青本でも書く気はねえかい」


そのころはもう俺が仕事を受け取りに行っていた本屋でそんな話が出て、俺はもう長いこと江戸に居て、様々な文化に通じていたので、その話を受けることにした。


まずは思いついたままに書き始めることから始め、そしてその中の一本を、ご店主が気に入ってくれたのだ。


そして俺は、「空風秋兵衛からかぜあきべえ」として、一冊の青色の草双紙くさぞうしを出した。







「まあまあお前さん!すごいじゃないかねえ!売れるといいねえ!」


おかねさんは出来上がって挿絵もたっぷり入った俺の本をすっかり気に入り、何度も読み返しては、「お前さんは才があるよ」と褒めてくれた。もちろんそれは初めて出した本だから売れ行きも何もあったものではなかったけど、俺はいつか遠い時代に描いていた、「小説家になる」という夢が叶ったような気がして、心底嬉しかった。








そして、冬のある日、俺たちは大家さんに仲人をしてもらい、自宅で婚礼の儀を執り行った。


もちろん俺たちには身内もあるはずがなく、「持参金じさんきん」や「道具入れ」も必要なかったので、俺は大家さんから袴を借り、おかねさんも白無垢を着て、綿帽子をかぶった。




その日は、冷たい北風が吹くすっきりとした青い空が広がり、俺たちの長屋は隙間風が吹き込んだけど、俺はそれでかえって気が引き締まり、神聖な儀式にはうってつけの日と思えた。


おかねさんは、冬の寒い中で何枚も着物を重ね着して、胸元まで白粉を塗り重ね、真っ白な帽子で目元までを隠している。


その下に覗いている鼻と、紅を乗せた唇は、一目で彼女とわかるように少しだけ尖っているのに、本当にあのおかねさんなのか、どうしても俺は確かめたくなってしまうのだった。



そして長屋の人たちが俺たちの家に来て挨拶をしていき、俺たちは祝儀しゅうぎを受け取ったりお酒をもらったりして、二人で並んで、その人たち一人一人に頭を下げた。


やがて三々九度のお盃を交わすと「じゃああたしはこれで。仲良くやるんだよ」と言い残し、大家さんは席を立つ。


「このたびは誠にお世話になりまして、有難うございました」


「有難うございました」


「いやいや、じゃあ失礼するよ」








もちろん、祝言をあげた晩は、いわゆる「おとこ入り」となる。でも、俺たちの場合、そうはいかなかった。


俺は元々おかねさんの元で下男として一年も働いてきたのだし、おかねさんだってまだまだ俺に甘えたりするような気になれるはずもない。


俺たちは夜遅くまで行灯の火を消さずに、出会った日のこと、今まで一緒に乗り越えてきたことを、一つ一つ拾い集めて眺めるように、語り明かした。


幸せだった。何にも代えがたいものを手にした俺たちは、静かに微笑みながら、時を噛みしめるように夜を過ごしたのだ。


暗闇に浮かび上がる彼女の白い肌は行灯のあたたかい光で玉子色になり、彼女がうつむき加減になるたびに、まつ毛の影が頬に落ちた。光の曖昧な彼女の眼差しは、俺を優しく見つめていた。







翌朝俺が目を覚ますと、かなり夜更かしをしてしまったからか、木戸の隙間から漏れてくる灯りはもうかなり柔らかい昼間のものとなっていて、それに、頭上からも光が降り注いでいた。


見てみると、へっついの上の天窓が開いていて、部屋の中にはお米が炊けるいい匂いがしていた。それがわかると俺は慌てて起き上がり、ついいつもの癖で「すみません!おはようございます!」と叫ぶ。


すると、へっついの前で竈の火を見ていたおかねさんが振り返った。


「起きたかい、お前さん」


「すみません、すっかり眠ってしまって…私がやりますから、おかねさんはお稽古の準備を…」


へっついのそばに俺も座ると、おかねさんはくすくすと笑って、こう言った。


「いやだねえお前さん。今日から亭主だって言うのに、「おかねさん」だなんて。よしとくれな。」


そう言われて俺は思わず顔が熱くなり、“そうか、自分たちは昨晩夫婦になったのだ”と、改めて自覚をした。


「じゃあ…」


俺はドキドキとして、一晩のうちに恋が叶って夫婦となったことがまだ信じられず、舌がひきつりそうになった。


「お、おかね…」


呼び捨てにしてしまうと、今まで下男として生きてきたものだから、気恥ずかしさより、申し訳ない気持ちが勝ってしまったけど、彼女の名前を改めて口にした時、俺は体がかっと熱くなり、どこか頭がぼーっとするような高揚感に包まれた。


「あいよ、あんた」









つづく

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