第二十六話 命

俺はおかねさんが咳をしているのを見て慌てて起き上がり、とにかく水を汲みに井戸へと駆けて行った。


そして彼女に水を飲ませてから、「何か欲しいものはないですか」と聞く。すると彼女はこう言った。


「いいよ、なんにもしなくて」


「なんにもって…」


俺はその時、頭を過った想念をかき消した。でも、彼女は水の残った湯飲みを押し返して、苦しそうに寝返りを打ち、こう言った。


「これできっと…さ…」


そう言っておかねさんは無理に笑い、また咳をし始めた。







高熱と、発疹。そして、皮膚に後遺症として残る痘痕。これらは、俺が居た現代ではもう根絶された、「天然痘てんねんとう」によるものだ。多分俺たちが罹ったのは、それだったんだろうと思う。


俺はもちろんワクチン接種など受けていないし、この江戸時代にワクチンなんてものがあるはずもなく、ウイルスに対抗するための抗生物質もない。


“どうしよう。おかねさんが死んじゃったら。俺が持ち込んだせいだ”


俺はそう思って昼夜悩みながら、必死に彼女に頼んでなんとか食事を食べさせ、水を飲ませた。


“まともな免疫力があれば、おそらく致死率はぐんと下がる。彼女を死なせはしない!”


そう思うのに、おかねさんはやっぱり食事をしようとはしてくれなかった。ある時彼女は、俺が食べやすいだろうと思って用意したおかゆの椀を手で突っ返し、こう叫んだ。


「いいんだよ!あたしゃもう死ぬんだから、ほっといとくれ!」


彼女の涙声は、喉の炎症によってしゃがれてしまっていた。


彼女はこう言いたかったのだ。


“これでついに恋人に会えるんだから、邪魔をしないでほしい”


それはなんと悲しい希望だろう。


俺は床にこぼれたおかゆが冷めてしまうまで、こちらに背を向けて咳をする彼女を見ていることもできず、ただ涙を流した。そして泣き終わった俺は、彼女の背中を睨む。


“もういい。たとえ憎まれてでも、食べさせて、生き残らせてやる!”


そう思ったことで、俺はもう一度泣いていた。それは悲しみに打たれる中で、それを突き抜けようとする、ある種怒りにも似た、希望への執念だった。







「おかねさん、おかゆと、葱を刻んで、それからお豆腐を崩してみましたから。おかねさんの好きな、かつおぶしのたっぷりかかったものですよ」


おかねさんはある晩も、俺の持ってきた膳をちろりと見ただけで、ぷいと横を向いた。


「少しでも、食べて元気をつけてください」


すると彼女は布団を頭からかぶり、こう言った。


「お前さんのその文句には飽きたよ。馬鹿の一つおぼえみたいに「元気」、「元気」ってさ。そんなものいらないよ」


俺はそれを聞き、“だったらもう、こう言おう”と思った。


なるべく優しい口調になるように俺は喉の調子を整えて、少しだけおかねさんの枕元にすり寄る。


「師匠を飢えさせたり、死なせたりしては、主人思いどころの話ではありませんから」


俺がそう言えば、もしかしたらおかねさんは、「春風師匠」として、「下男」が出した物を食べてくれるんじゃないか。そんな望みを託して、俺はそう言ったのだ。


思った通り、おかねさんは大儀たいぎそうにこちらを振り向くと、少しだけ膳の中身に興味があるような顔をして中を覗いてから、起き上がってくれた。すかさず俺は、彼女のすぐそばに膳を持っていく。


「起き上がれましたね。さあ、少しでいいので、食べてください」


「お前さんもしつこいね…」


そう言った時のおかねさんは少し残念そうな、あきれたような顔をしていたけど、三口ほどおかゆを食べ、刻み葱を掛けた豆腐も、好物だったからか、半分食べてくれた。俺はその残りを食べながら、久しぶりによく眠り込んでいる彼女を見ていた。







それから彼女は、「申し訳に仕方なく食べるのだ」という顔をしながらでも、食事をしてくれるようになった。


俺は、おかねさんがいつの間にかまた貯めていたへそくりで、お米やおかず、氷砂糖なども買いに行った。彼女は氷砂糖まではいらないと言ったけど、日持ちするものだし、何より素早いエネルギー補給になる。かなり高価ではあったけど、命には代えられないだろう。





一度おかねさんの熱は下がったけど、またある晩、それは酷い高熱になった。


俺は「天然痘」という病気をよく知っているわけではなかったし、本当にそれだったのかもわからない。でも、俺が一度インターネットで調べた時には、確かウェブの記事で、「再度高熱になり、下がれば治るが、そのまま脳炎などを合併する危険も高い」と読んだ。


だからとにかく、俺はその晩眠ることなどできるはずもなく、自分まで逃げ場のない場所でずっといたぶられ続けているような思いで、苦しみ続けるおかねさんの看病をした。


おかねさんは熱でもうろうとしながら、ずっと誰かを呼んでいた。


ぜんさん…善さん…」


それは恋人の名前だったんだろう。俺は、それを聴いていると胸が痛くてたまらなかった。


「おかねさん、しっかりしてください、おかねさん…」


俺は彼女の呼ぶ人ではない。でも、それでも誰かが呼ばなかったら、彼女はそのまま逝ってしまうのではないかと思って、怖くて堪らなかった。



俺は一晩中彼女を呼び、彼女の体の汗を拭き、苦しみながら時折涙を流す彼女に、水を飲ませた。







夜明けには、家は静かになった。そしてその代わりに近所から、雨戸を開ける音や、挨拶を交わす声、商売に出て行くために家族に声を掛けている、人々の生活が聴こえてきた。


気が付くとおかねさんの呼吸はなだらかになっていたので、俺はようやく胸をなでおろし、自分も水を飲んでごはんを食べた。




その日の昼に彼女は起き上がって自分ではばかりへ行き、帰ってくると布団に包まって、夜更けまで眠り込んでいた。


これでおかねさんは病を抜けたかもしれないと思った俺は、朝ではなかったけどお米を四合ほど炊いて、彼女の好きな葱を添えた冷奴と、あとは日本橋の漬物屋で、たくあんを買ってきた。



そして俺が戻るとおかねさんは床の上で起き上がっていて、なんと彼女は煙管をくわえてくつろいでいたのだ。


「おかねさん!いけませんよ!」


俺は思わず戸口でそう叫び、草履を脱ぎ捨て慌てて中へ入る。


「何がいけないのさ」


彼女はけろりとしてそう言ったけど、俺は膝立ちで彼女に近寄り、彼女の手から煙管をそっと取り上げた。


「今はがまんしてください。毒ですから」


おかねさんが怒りやしないか心配だったけど、彼女は「そうかねえ」なんて言って俺を見て、にんまりと笑った。


「しょうがない人だねえ。じゃあお前さんもがまんしとくれ」


「わかっています。それから、お食事の支度がもうできますが、食べられそうですか?」


そんな会話をしている間、彼女はずっと、噴き出しそうなのを堪えているような顔をしていた。


「もちろんさ。時分どきだからね」





俺は自分のいつもの場所である土間近くに膳を並べようとしたけど、おかねさんは「前にお置きな。そこだと話も遠いじゃないの」と言った。




俺は初めて彼女と膳を突き合わせて、目の前で食事をしている。彼女は好物を喜んで、旺盛な食欲も出たと見えて食事を楽しんでいた。


でも、その途中に彼女は箸を置く。俺が「もういいのですか」と聞く前に、彼女の方が口を開いた。


「お前さんは、命の恩人だよ…」


その先を彼女は続けたそうに唇を薄く開けて、前のめりに首を振るような仕草をしたけど、ためらったままだった。


よくなったばかりの彼女を悩ませたくなどなかったし、俺も傷つきたくなかったのかもしれない。


「わかっています」


おかねさんは俺の顔を見ようとしたけど、俺は目を上げなかった。




俺は何をわかっていたと言うのだろう。彼女がその時考えていることなど、何一つ知らなかったのに。








つづく

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