第二十四話 恋の終わり





俺は、おかねさんに恋をし続けている。


日本橋で倒れていた俺を助けてくれて、それから「行くところがない」と言っただけで、「じゃあうちの下男になっておくれ」と、住むところまで与えてくれた。


それに、日々俺のためにも買い物をしてくれたり、美味しいものを食べようと思った時には、俺のことも忘れないでいてくれる。


まったくの江戸っ子かと思いきやけっこうなしっかり者で、誇り高く気丈夫な彼女。


そんな彼女にも、悲しみがある。それは、過去に亡くした想い人との、幸せな記憶を忘れられないこと。


でも、それすら彼女は平気な振りをして振舞う。



俺が、“そんな彼女の支えになりたい”と思うのは、そんなにおかしな話だろうか。






江戸の季節は騒がしく流れ、やがて夏のやってくる匂いがし始めていた。俺は袷の布から裏地を外し、一重の帷子かたびらにして着たし、おかねさんは夏物の浴衣に着替えて、「秋兵衛さん、お前さんにも夏物を買おうか。もう少し涼やかな色がいいねえ」なんて言っていた。


俺は今、「写し物」の仕事を終わらせて一息つき、「おかずを見てくるよ」と言ったおかねさんを家で待っている。


“洗濯物をもう取り込まないとな”。そう考えているうちに、おかねさんは帰ってきた。


「おかえりなさい。暑かったでしょう。お水を汲みますよ」


おかねさんは胸の上でおかずの包みを抱えて、袖口で汗を拭き拭き土間から上がった。


「ああ。そうしとくれな。もう暑くってたまらないよ。今日は夕の前に湯屋に行ってくるから、お前さんおなかがすいてたら先に食べておくれ」


「いえ、私はおなかはまだすきませんから。それと、今日は湯屋には行かないので、お待ちします」


「そうかい、すまないねえ」


そう言って俺に微笑み、手拭いと湯銭を持って後ろを向いて出て行く彼女の背中が、悲しいのだ。


日に日に、彼女の笑顔は俺に悲しみを与えて、胸が痛む。時間が癒した傷を差し引いても、「この世の末まで、亭主と決めた人と逢える日を待ち続けよう」。その決意は、彼女の身を引き裂くのに十分ではないのだろうか。



俺が救うことなどできないというのはわかっている。でも、言葉にしなければ、彼女の辛さを知っている人が居ることなど、彼女は知りもせず、耐えなければいけないのだ。


“今日こそ言おう。拒否されるのはわかっている。でも、もう黙って見ていては、俺も耐えられないんだ…”







「ああ、いいお湯だった。お前さんどうしたんだい。風邪でも引いちまったんじゃないだろうね」


「ええ、大丈夫です。それと、おかねさん、ごはんを頂いたら、お話があるので、お願いできませんか」


「なんだい急に。まあいいけどさ」


「はい」


俺は、その時すでに心は決まっていた。たとえここを追い出されることになっても、彼女に伝えると。


だから、お米はお茶碗に綺麗に盛り付けて、おかねさんが買ってきたおかずも美味しそうにと気にしてお皿に移し、“彼女との最後の食事になるかもしれない”と考えていた。



やっこも暑くなればごちそうだね。お前さんどうしたんだい、もっとお食べな」


「はい」


俺は、豆腐屋さんの美味しい豆腐を前にして、やっぱり食が進まなかった。だってこのあとは一世一代の台詞を言おうとしているのだから。



「はあ、食った食った。じゃあ洗い物は頼むよ。話があるならお茶はあたしが煎れるからさ」


「はい。ありがとうございます」



“断られるだろうな。おかねさんの気性なら、俺はぴしゃりとやられてもおかしくない”



俺はいつもの通りに食器をたわしでこすり、使い終わった水を流しにあけて、食器を伏せた。おかねさんは湯飲みにお茶を注いで、食事に満足した様子で和やかな横顔を見せていた。


俺はそれを見ていて、自分のしようとしていることをもう一度思いとどまるべきなんじゃないかと思った。


“本当に言うのか?それで、この幸せが一瞬で崩れ去るかもしれないのに?”


そんなふうに俺が立ち尽くして黙っていたので、おかねさんは俺を気遣うように微笑む。


「どうしたのさ。早くお座りよ」


彼女の顔は、まるでなんの悩みもないように、優しい微笑みに彩られ、いつか見せた涙が嘘のようだった。


その裏で彼女は傷ついているかもしれない。亡き恋人によく似た俺にも平気な顔をしていることで、悲しみが深まっていても、そうしているかもしれないんだ。


“言うんだ。もう終わりにしよう”


俺は立ったまま彼女を見つめ、そしてちゃぶ台の前には行かずに、彼女の前で床に手をつき頭を下げた。


俺が顔を上げた時、おかねさんはあまりに俺がかしこまっていたからちょっと気が引けたのか、おくれ毛を耳に掛けて、着物の裾を直していた。


なんと言おうか、ずっと考えていた。でも、今言いたいのはこれだけだ。小さく息を吸って、俺は二度とこんなふうにはなれやしないだろうと、心の澄んだ流れのまま、口を開いた。



「私を、あなたのことをいつも支えられる者にしてください」



もう一度、俺は頭を下げる。そして、おかねさんが何かを言うまでは、彼女の顔を見まいとした。


何度か衣擦れの音がして、俺の耳元ではかすかに自分の鼓動の音がしていた。でもそれも、諦めの混じった控えめな響きだった。



「それは、あたしの亭主にしてほしいってことかい」


俺は静かに「はい」とだけ答える。そのあと、俺はこう言い渡された。



「あきれたね。師匠相手にそんなはしたないことを言う下男なんて、うちにはいらないよ。どこへなりと出ておゆき。あたしはもうお前さんなんて知らないから。着てるものだけは置いていかなくてもいいよ。それは返す必要もないからね」



“ああ、やっぱりそうだよな”



おかねさんらしいなと、なんとなく思った。だから俺は顔を上げ、おかねさんの顔を目に焼きつけようとしながらも、こう返事をした。


「わかりました。望むような下男になれなくて、申し訳ございませんでした。手内職で貯めた銭は、棚の中にあります。新しくそこに書きあがったものは、すみませんがおかねさんが代金を受け取りに行ってください。私は…そのお金を持ったままでは、新しい暮らしなんかできませんから…」


おかねさんはもう何も言わなかった。


「それでは、失礼致します。今まで大変お世話になりまして、有難うございました。お役に立てず、申し訳ございませんでした。どうぞお元気で」


俺は自分の草履を履き、振り向きたいのを、彼女に泣いて縋りたいのを我慢して我慢して、暗くなった外に出た。



“どこへ行こう”



身元のはっきりしない俺なんか、誰も雇い入れてくれるはずもないし、居候ができるような身分でも、家に置いてくれる知り合いも居なかった。



「明神様の軒下に…」



無意識にそう口にして、俺はそのまま歩き出した。







つづく

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