第十七話 祈り





冬の真っただ中だった。その朝はやけに寒く、「もしや」と思って、俺は朝の用事をあらかた片付けてから、おかねさんに「本郷ほんごう富士見坂ふじみざかまではどのくらいかかりますか?」と聞いてみた。


ところがおかねさんは、「なんだいそりゃ。本郷にそんな坂があるのかい?」と言ったのだ。俺はそれでちょっと驚いた。


おかしいな。本郷の富士見坂と言えば、歌川広重うたがわひろしげだって浮世絵に描いているくらいに、江戸の名所のはずなのに。あれ?でも確か…。


そうだ!広重は確かに江戸時代の浮世絵師だけど、江戸後期の人じゃないか!この時代には、生まれてすらいないかもしれない!


ってことは…富士見坂もまだ名前が付いていないかもしれないぞ?えっと、なんとかごまかさなくちゃ…。


「あ、いえ、この間栄さんから、「よく富士山の見える坂がある」と聞きまして、こんなに空気の澄んだ朝でしたら、とくによく見えるかと…」


俺がそう言うと、おかねさんは自分で結い直していた長い髪をちょっと持ち上げて、俺を振り向いた。


その時、彼女の白いうなじの横には長い黒髪が気だるげに垂れ下がり、なんともつやっぽかった。そして振り向いた肩から腰までの曲線は彼女の細い体をいっそう頼りなく見せていて、少し後ろに抜いた衿から白い素肌がちらと見え、美しかった。それは、華やかさを演出したものでないからこそ、彼女が元々持っている美をさり気なく教えているようだった。


浮世絵にして「見返り髪結かみゆい」とか名前を付けたくなりそうだ。


「ああ、それなら確か、こっちから芋洗橋いもあらいばしを渡るとすぐに見えるよ」


「い、芋洗い橋?」


「ああ、芋洗稲荷があるからねえ」


「はあ、そうなんですねえ」


俺は本郷まで行こうとしていたのに、そんなに近くで見られるとのことで、ちょっと拍子抜けした。もしかして、この頃ってほとんどどこでも見えたようなもんなのか?得な時代かもなぁ…。


まあ、じゃあ言う通りにしてみよう。


「ありがとうございます。では、半刻はんときほど、富士を見に行ってもいいですか…?」


すると、おかねさんはくるくるっと丸めて輪のようにした細い後ろ髪を束ねて元結もっといで留め、そこへいつか買った鼈甲の簪を何気なく刺した。


「あたしも行くよ」


そう言って振り向いた彼女に、俺は笑顔で「ありがとうございます」と返してみせようとした。でも、どうしてもうつむいてしまって、頭を下げるつもりだった振りをした。







東京には、今でも「富士見坂」という名前がいくつも残っている。それは、過去に本当にそこから富士山がよく見えたからなのだ。


俺が平成を生きていた頃、ちょっと史跡しせき巡りに凝っていた時があった。その時に「富士見坂」も調べて歩いたけど、本郷の富士見坂からは、乱立した建物に埋め尽くされた景色しか見えず、少し落胆したのを覚えている。


もちろん、今向かっているのは本郷ではないし、正直、ちゃんとした富士山が見えるのかは不安だ。遠くに霞んでぽっつり見えるだけ、かもな…。


でも…とにかく見えるは見えるはずだ!


俺たちがむかっているのは、俺の感覚だと、どうも秋葉原の端っこにある万世橋まんせいばしなんじゃないかと思っていた。いや、違うかもしれないけど。


でもなんだか、平成や令和にはないはずの場所に橋が架かっていたり、逆のこともあったりして、俺はたまに困ったりする。まあでも、二百年以上経っていたんだから、そうなるのは仕方ないか。






「うわあ、本当によく見える…」


人々が忙しなく往来する坂を登り切る前から、それは顔を出していた。


俺は、雪の絶えない頂きに白帽子をかぶり、青い山肌を堂々と広げている富士山が遠くに見える様子に、“本当に同じ国にある、日本一の山なんだな”と実感した。


江戸時代の富士山は、実際に行くことが難しいほど「遠い」のだ。それなのに、こんなによく見える。途中にはもちろん間を遮る山脈はあるけど、むしろそれを頭二つ飛び越えて軽々とこちらに向いている富士の大きさは、遠くから見るほど尊いものかもしれない。


江戸の浮世絵師がこぞって富士山を描きたくなるわけもわかる気がした。


「ああ、ありがたいねえ、ほんとにさ。ほら、手を合わせてごらんよ」


「あ、ああ、はい」


おかねさんは富士山に向かって手を合わせて拝みだす。


そういえば、富士山は日本一の霊山でもあったっけ。そりゃ、こんなに大きくちゃそうなるよな。


俺は、“あんまり知らなくてスミマセン”と心の中で唱えて富士山をちらっと盗み見てから、手を合わせて目を閉じ、顔を伏せた。










俺は、だんだんと神田の町に慣れていった。いつも忙しそうに職人たちが怒鳴りあっている鍛冶町あたりはあまり行き来しないにしても、おかねさんの気に入っているおかずを売っている煮売屋、立ち飲みもできるから一緒に出かけたりする酒屋、茶店や荒物屋などでも、ご店主と親しくしてもらっていた。そんなある日、あの囁きを聴いたのだ。


「ねえねえ、あの人。おかねさんとこの下男だろう?」


俺が煮売屋台で焼き豆腐を受け取ってから来た道を戻りかけると、さっき居た屋台からそんな囁きが聴こえてきた。俺はそれを聞いて、“腕の良い師匠を持つと、下男まで噂をされるのかな”と、ちょっと得意に思っていた。てっきりそうだとばかり思っていたんだ。


「ああそうだよ。「中」へいた時分に身に着けた芸しか頼るもんもない、かわいそうな人さね」


その女の人は、気の毒そうな声で、おかねさんを軽蔑した。







俺は、家に帰るまでに「考え」をまとめ終わって、またなんともない顔でおかねさんに「ただいま帰りました」と言いたかった。彼女を、今までと同じように見るために。


でもそれはできそうになくて、噂話なんかしていた女の人に対する怒りなのか、おかねさんを見る俺の悲しみなのかわからない思いで、彼女のことを考えた。



そうか。おかねさんがあんなにきつく俺が吉原に行くのを止めたのは。


「二世も三世も」と言い交わして別れ別れになってしまった男性と出会ったのも、おそらく。


そして、彼女が三味線のこと以外は疎いようで、派手を好むように見えたのも。



そこまで考えて、俺は自分を平手で張り飛ばしたくなった。そんなふうに彼女を自分勝手に判断したくなかったから。


でも俺はもう一度、彼女の身になって考えようとした。




彼女が…彼女がそんなふうに苦労をしたからなんだ。


おそらくは「十五で親が死んでから」、生きていくために仕方なく入った街で愛しい人に出会い、そして別れることになって。


やっと外へ出られたからといって、もう恋は叶わず、それでも彼女は自分の力で生きていこうとしているんだ。


俺はもう、裏長屋の木戸の前に着いていた。そしてそこで一旦立ち止まる。



どうして俺はすべて憶測で考えているんだ?なんでそれで彼女を見る目を変えなきゃいけないと感じているんだ?


そうだ、彼女が傷ついていると思っているからだ。でもそれは果たして本当だろうか?


いいや、でもおかねさんだって、あんなふうに噂されていることは承知で、歯を食いしばっているかもしれないんだ。


そうだ!俺はおかねさんの下男じゃないか!主人の生きる支えになるんだ!それでいい!それでいいんだ!





「どうしたいお前さん、幽霊でも見たような顔して」



俺が帰った時、おかねさんは寒そうにねんねこを重ねて、小さな炬燵に足を入れ、手あぶり火鉢に両手をかざしていた。


さっきまで俺は必死に彼女が耐えてきたことを考えていたから、彼女が今凍えているのが、まるでその苦労からのような気になって、泣きそうになってしまった。だからつい、“俺は安っぽい同情などで彼女の必死の一生を見ようとしているのか”と、自分を軽蔑しかけた。


俺は何も言わず、家の中に入ってぴたりと戸を閉めると、炬燵に近寄って彼女の手を握る。



俺は違う。


俺はあんなことを言ったりしないし、彼女の過去を吐き捨てたりしない。俺はそんなふうに気持ちが逸るまま、驚いているおかねさんの手を、ちょっと自分の方に引いた。



「おかねさん、わたくしは、何があろうとあなたの下男です。助けて頂いたご恩返しになるのでしたら、なんでもいたします」


「なんだい急に。何かあったのかい?」


「い、いえ、ただちょっと、その…」



俺は先を言い淀んだ。そしてそれは、「口では言えないことを外で聞いてきた」と彼女に向かって言ったのと、同じことだったのだろう。


彼女は即座に俺の手を振り払い、一瞬俺を睨みつけかけたが、くるりと俺に背を向けると、長いことずっとこちらを向かなかった。


俺は、「黙って彼女のそばに居れば良かっただけなのだ」と、自分を責めて下を向いていた。



馬鹿野郎。そう自分に言い続けた。







つづく

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