第四話 おかねさんの正体





俺たちは暮れ方に駆け足で神田川らしき川の土手を離れ、そのまま日本橋の方角へ引き返していくらか歩いた。


目の前にある長屋の一戸の前には提灯ちょうちんが下がっていたけど、火は入っていない。


「ちょっと待ってな。今、御神灯ごじんとうをつけて、そしたらお前さんを家の中へ案内するから」


そう言っておかねさんは家の中に入っていき、火を灯したろうそくを持ってきて、提灯の中へ灯りをつける。するとそこへ、「常磐津 春風」と浮かび上がった。


「はるかぜ?」


俺がそう言うと、提灯を元に戻しておかねさんはきっと俺を睨む。


「“しゅんぷう”と読んでほしいね。ほら、入んな。どうやらまだ来てないようだけど、今日は稽古けいこがあるのさ。だからお前さんは見学ということにしといてやるよ」


「え、稽古…?ところで、この“じょうばんづ”ってなんです?」


「お前さんはいちいちひねくれた読み方をするんだねえ。これは“ときわづ”。あたしは常磐津ときわづ三味しゃみの師匠なんだよ」


「ええっ!三味線のお師匠さんなんですか!?」


江戸時代の三味線の師匠ともなれば、これは遊芸の一番見たいところじゃないか!


俺はそう思ってまた興奮したまま、中へ招き入れられた。






「お邪魔します…」


部屋の中はきちんと掃除が行き届き、四畳半ほどの広さしかないけど、十分居心地が良かった。


土間には桶があったので、「これで井戸の水を貯めるんだな」と、俺は察した。台所らしき場所には水甕、それから重ねられた食器やなんか。他にも盥などの生活の道具らしい物たちがあったけど、俺にはよくわからなかった。


部屋の奥に面した壁には、三味線が二つと、小さなちゃぶ台が立てかけてある。それから、火鉢らしき物、細く背の高い棚と、小さな仏壇、鏡台、向こう側の見えない衝立ついたて。あとは、神棚が吊ってある以外には何もなかった。


「やっぱり物が少ないんだなぁ…」


“江戸っ子は家財道具を必要最低限しか持たない”


それは、時代小説を書きたいなと思った時に調べたので、知っていた。しかし、ここまでとは。掃除機、洗濯機、果てはパソコンまで持っている俺たち現代人には、考えられない暮らしだ。


「何ぼさっとしてんだい。これから人が来るんだから、早くこっちへ来て着替えておくれな」


「あ、は、はい!」





おお、これが江戸時代の着物…!木綿だからかちょっとごわごわするけど、とにかく俺は今、江戸時代に居て、着物を着ているんだ!


俺はわくわくしながら衝立の影から出る。


「ど、どうでしょうか…?」


するとおかねさんは飲んでいたお茶を噴き出して、大慌てで俺に駆け寄った。


「まーったくこの人は!帯の締め方も知らないのかい?今までどうやって生きてきたのさ!」


俺は、おかねさんに手ずから帯を直してもらっていた。


「す、すみません…。それから、ありがとうございました」


「別にいいよ。これでよし」


おかねさんはまたあっという間にちゃぶ台の前に戻って、満足そうに俺を眺めていた。



ありがたいなあ。こんなふうに助けてもらえなかったら、俺は今頃、夜の真ん中で困り果てているだけだっただろう。



俺がそう思っている時、表の戸を誰かが叩いた。


「お師匠、いますかい」


その声はどうも、威勢いせいの良い男性のようだった。「男性も三味線を習ったりするんだな」と思ったので、意外だった。


えいさんかい、開いてるからお入りな」


すると、ガラッと勢いよく扉が開き、着流しに草履を履いた若い男の人が入ってきた。


「おろっ、誰だいそりゃあ」


「栄さん」と呼ばれた人は、背が高く目が吊り上がっていて、ずいぶんと細い人だった。なんとなく、喧嘩っ早そうなきびきびとした体の動きで土間から上がり、俺の斜め前に腰掛ける。


「ああ、この人はねえ、昼間日本橋を通った時に見つけたんだ。かわいそうに、道端で行き倒れてたんでねえ…あ、ところでお前さん、なんて名だい?」


俺はその時、はたと困った。


俺の名前は「矢島昭やじまあきら」だ。しかし、江戸時代に「あきら」では不自然だろう。そこで俺は、名乗るのが恥ずかしい振りを装って、ちょっと考え込んでいた。


…よし。これでいこう。


「えーっと…秋兵衛あきべえと、言います…」


また怪しまれやしないだろうか。俺はそう思ってちょっと緊張したけど、栄さんは、さして興味もない風に「へーえ」と相槌を打った。


「秋兵衛ねえ。珍しい名じゃないかね」


「それで、拾ってやったはいいが、どうすんだい師匠」


心配そうに栄さんはそう言う。


「まあ、あとで考えるさ。さ、お茶も飲んだし、おさらいから始めるよ。いつも通り、あたしのあとにね」



いよいよ俺はこれから、江戸時代の三味線の稽古を見るんだと思うと、少し緊張した。


おかねさん、いや、“春風師匠しゅんぷうししょう”は、三味線を抱えて調子を合わせ、一息深く息を吸うと、ばちを振り下ろした。






師匠の演奏は終わった。


俺は圧倒され、そして感動して、拍手喝采を送りたいのを我慢しているくらいだった。


それは、三味線の演奏なんてろくろく聴いたこともない俺からしても、見事なものだとわかった。


音色が華やかで、かつ深みがあって、凄みまで感じるものだった。



俺がにこにことして聴き入っていたことは師匠にも気づかれていたのか、一度おかねさんはこちらを向いて、微笑んでくれた。


ところが、そのあとが問題だったのだ。





「違う!違うったら!そうじゃない!」


「だ、だってこうなっちまうんで…」


「もう!お前さんは覚えが悪いねえ!いーい?もう一度やるからよくお聴き。次にできなかったら容赦はしないからね!」


「へ、へい…」



俺の聴いたところ、というか、誰がどう聴いても、「栄さん」はまったくの素人だった。ところが、“春風師匠”は気が強すぎるのか、間違えた時の怒り方が尋常ではなかった。


怒鳴りつけるのはもちろんのこと、一度なんか、師匠が撥をぐっと握りしめる場面もあった。俺はあの時ばかりは、「もし何かあったら自分が間に入ろう」と思った。



芸事げいごとの師匠は厳しいってイメージはあったけど、ここまでとは思わなかったな…。




「すみませんで師匠…」


「はいはい、もういいよ。お帰りな」


「へい…」


結局栄さんは謝りながらすごすごと帰って行き、次にまた男の人が現れた。


ところがこちらは先ほどの栄さんとは違って、なかなかいい方と思えた。




静かに戸を開けた男の人は、すらりと背は高いながらも物腰は穏やかで、喋り調子も柔らかでよどみなかった。


師匠にきちんとした挨拶をしてから、俺のことを丁寧に聞き、そしてその人は、俺にも頭を下げてくれた。


「わたくしは角の味噌屋の者で、六助ろくすけと申します。お見知りおきを」


「あ、ああ、ご丁寧にどうも…」


「では師匠、お願いいたします」


そして師匠は、さっき永さんが弾いていたものよりずっと難しそうな曲を弾き語り、六助さんはなんとかそれに調子よくついていっていた。





「…まあ、今日はこんなもんだろう。お父様とお母様によろしくと伝えておくれな」


「はい、今夜も、どうもありがとうございました」



そして六助さんは、にこっと笑って俺にも会釈をし、来た時と同じように静かに帰って行った。



しかし、扉が閉まると同時に春風師匠はどたーっと仰向けに倒れて、大きく息をする。


「ど、どうしました!」


俺が駆け寄ると、師匠は今度は笑い出した。


「いやあ、お師匠稼業は疲れるったらないよ。特に六助さんはお行儀の良い人だから、こっちも気が張るじゃないかさ」


俺はそんなことを言われてすっかり面食らってしまったが、春風師匠、いや、おかねさんは、からからと笑った。



「これから飯時だから、お前さんにここいらを案内してから、どっかで夕食にしよう」








つづく

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