元禄浪漫紀行

桐生甘太郎

お江戸こんなところ編

第一話 謎のお香





「あー…これは、捨て、かな…?」


俺は今、納戸なんどのようになってしまった自分の部屋で、とにかくゴミを捨てている。この秋23歳になった。なったというのに、部屋は片づけられないし、仕事もできない。彼女もいないし、友達も大して…。


そこまで考えて俺はため息を吐き、手元にあった古いカレンダーを、ぽいっと市の指定ゴミ袋に投げ入れた。







わけあって、仕事を辞めた。わけも何もない。上司を一切尊敬する気がなくなったから、辞めたのだ。


俺は大学を卒業してから、小説家になるのが目標だった。もちろんその夢が叶うまでも、日銭は稼がなくちゃいけない。だから適当に探した地元の料理店で、アルバイトをしていた。


俺が働いている中華料理屋の店長は、かなりのへそ曲がりだった。採用すると決めた時には、にこにこと笑いながら「頑張ってくれよ。うちもできる限り教える」なんて言ってたくせに、俺の目標が料理人ではなく小説家だとわかった途端に態度を変えて、いろいろと俺に嫌がらせをした。


まず、俺が洗い場に居た時に手渡してきたのが、持ち手を火で炙ったんだろう鉄のフライパン。そして、俺の近くを通る時に必ず店長は俺の足を蹴った。あとはもう、ネタを探しちゃ俺を怒鳴りつけて、今日はとうとう、一番言ってはいけないことを言ったのだ。


「お前な、小説家になりたいって言ったって、今の時代そんなもんで食ってくなんてできやしねえし、お前みてえに下らねえ人間にゃあ一番向かねえ仕事だよ。お前なんかにそんなことができるわけがねえ。やめちまえ、ばーか」


俺はそれを聞いて、度重なる理不尽もあって我慢の限界を超えたし、「さっさと次の仕事を見つけてれば、こんな下らない人間の相手をせずに済んだかもな」と思った。だから帰り際、俺は店長に一度頭を下げてからこう言ったのだ。


「すみません、店長。俺はあなたをこの店の店長として尊敬し、仕事を手伝う気にはもうなれません。だから辞めます。ロッカーの中には特に何もありません。お給料は店長の自由にしてください。その代わり、絶対に俺は辞めますから。それではいろいろとお世話になりました。失礼します」


それを聞きながらぽかんと口を開けている店長の前を俺は去り、ロッカーから鞄を手に取ると、家に帰ってきた。そして、心を入れ替えて綺麗さっぱり忘れる代わりに、掃除を始めたのだ。






それにしても、執筆の調べものや実際に小説を書くことばかりに熱中する毎日を送っていた俺の部屋は、とてもじゃないが言い表せないくらいに汚かった。


まず、掃除をしていないので埃が床に散らばり、なんだかわからないが砂のようなざらざらとした感触が床にあって、それから捨てるべきものがあるかどうかも気にも留めずに過ごしていたので、去年食べた弁当の空のパックなんてものまであった。


さすがに自分に呆れて、「これからは美しい生活を心がけよう」と思いながら、俺はついに、床がすべて見えるようにすることに成功した。とはいっても、小説の資料にした大量の本だけは、部屋の角に積み上げられていたけど。


「さーて、じゃあとはこの押し入れだけ…わっ!?」


俺が押し入れを開けると、中にあった物が支えを失くして、どどどどっとなだれ落ちてきた。俺は必死に両手でそれを押さえようとしたけど、小さなものも多かったのでそれは俺の腕をこぼれて次々にまた床を埋めていった。


「…あー…またかよ!!」


俺は、また一から掃除をしなければいけないことに嫌気が差して、思わずそう叫ぶ。


しかし、やってしまったことは仕方がない。とにかく俺は、「のちのち役立てる予定すらない物」を、すべて新しいゴミ袋に突っ込んでいった。







ほとんどの物を片付け終え、いくらか必要な物をまた押し入れに並べて突っ込んでから、俺は何かカサカサした物を踏んでいることに気づいて、足をどけた。


「なんだこれ…?」


俺が手に取ったのは小さなきんちゃく袋で、それは紙で作られていた。もうぼろぼろになった紙袋はあちこちが破けて、中から粉のようなものがこぼれ出ている。


「ああっ、また掃除機か!」


俺はそれからなんとなくテーブルの上に置いた古い古い紙のきんちゃく袋を背後に、改めて掃除機を掛けて、それから夕食を食べた。







「就職先探さないとな…」


俺はそんなふうにつぶやきながら、弁当箱をキッチンのゴミ箱に捨ててから、部屋に戻った。すると、なぜかテーブルにあったきんちゃく袋がまず目に留まった。


「そういえばこれ、なんだ?」


俺がそれをもう一度手に取って、中に入っている砂なんだか粉なんだかわからないものがこぼれ出ないように片手のひらに乗せると、なんだかいい香りがした。


「ん…?うわ、いい香りだな。お香かなんかかな?」


それにしても、俺はこんなものを持っていた覚えはない。前の住人の忘れ物だろうか?


試しに部屋にある灰皿を洗って中身の粉をあけてみると、ふうわりと懐かしいような、体の疲れが抜けるようないい香りが漂った。ふむ。これはきっとお香だな。そういえば、粉状のお香ってどうやって火を点けるんだったかな。…あ!そうだ!確か火を点けた炭を中に入れるんだったな!それならあるぞ!


俺は再び押し入れを開け、今度は物がなだれたりしない状況に満足してから、奥にあったバーベキュー用の炭の入った箱と、それから炭起しと網を取り出した。


俺は煙草を吸うのでライターはあるけど、炭に火を点けたかったら百円ライターなんかでは足りない。




キッチンでは、網の上に置いた炭起しの中で、ガスコンロの火で炙られた炭の欠片が、もう充分赤くなっていた。


「よしよし。じゃあ灰皿を持ってきてと…」


キッチンにお香が入った灰皿を持ってくると、俺はそこへ炭の小さな欠片を乗せてみた。


「うわあ…!」


途端に、上等な香のものなのだろう、かぐわしい香りが広がる。そしてもくもくとした煙。ああ、なんだか夢の中みたいだ。


…え?煙?


「わ、わあっ!なんだなんだ!?」


俺は周りを煙に取り巻かれて、まるで家の中が見えなくなっていた。それに、どんどん眠くなってくる。


火事を起こしたにしちゃおかしい状況だからおそらくそうではないんだろうけど、一体何事かと確かめる暇もなく、俺はどろどろとした眠気と、煙に捕まえられて、どこか遠い奥底へと落ちていくような心地を味わいながら、ついに抵抗できずに瞼を閉じた。








「まあお前さん。ねえ。ねえったら。起きないの?」


耳元で、女の人の声がする。俺がぱちりと目を開けると、目の前には昔の女の人のように髪を結って、着物を着た人の襟元が見えた。


「え…?誰…?」


俺は起き上がってみようとした。するとその女の人は素直に俺を放してくれたけど、俺はそれでびっくりしてしまった。


「なんだここ…?」


目の前にあったのは、人が行き交う道だった。まず、家に居たのにいきなり外に倒れているのもおかしいけど、周りに居た人たち全員の恰好がおかしかった。


全員が、着物なのだ。それに、男の人は残らずちょんまげ、そして女の人はみんな髪を結い上げている。中には、腰に刀を下げて紋付きの羽織を引っ掛けた人まで居た。それが幾人も幾人も、ぞろぞろと歩いている。


時代劇みたいな夢にしては、何もかもが現実だと思えてくる活発な空気があり、そこここで喧嘩じみた言い合いが聴こえていて、道に座り込んだままの俺を怒鳴りつけてくる男の人まで居た。


「くらぁっ!ぼけっとしてんな!踏み殺しちまうぞ!」


「すっ、すみません!」


すると、さっき俺を起こしてくれた女の人がその人に向かって頭を下げてくれた。


堪忍かんにんしてやっておくれな、行き倒れかと思ったら、生きてたんだよ」


「なんだぁそうかよ。そらぁわりぃことしちまったな。まあがんばんな」


ちょんまげ頭で半纏はんてんのようなものを着てふんどしが見えたままの男の人は、俺をそう激励してから、さっさと向こうの路地へと駆けて行った。


俺がそれを目で追っていると、「ぼやぼやしてないで。ここは人通りが多いんだから、脇へ寄れるかいお前さん」と、女の人はまた声を掛けてくれた。


俺は、今こそ勇気を出さなきゃいけないと思った。とにかくこれを確かめないことには。それにしても、一体なぜ…!?


「あの、すみませんが…」


俺は脇に立っている店の軒先に入った女の人を追いかけ、こう聞いた。


「今は何年でしょう?」


すると女の人はびっくりしたように振り向いて首を傾げ、こう言った。


「何言ってんのさ。お前さん、行き倒れて年もわかんなくなっちまったのかい?先年に元禄げんろくになったばかりじゃないのさ!」







つづく

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