Unfulfilled Promises

 僕は詩音と向かい合ってレストランのテーブルに座っていた。今日はちょうど交際2年の記念日だったので少し背伸びをした場所を選んできた。レストランの煌めくシャンデリアの光が、彼女の透き通る肌を更に美しく輝かせていた。



 デザートに差し掛かる頃、ふと手を止めて改めて見ると目の前の彼女は、これまでとは少し違って見えた。中学の頃と比べると尚更だ。性格はさして変わらないが、今は大人の女性としての落ち着きと、艶のある肌の美しさを持っている。そして薄めながらにもぷっくりとした唇……自分好みだ。僕の視線に気がついた詩音は、彼女特有の気さくな笑顔で僕を見つめ返してくれた。笑い返した後、ごそごそとバッグに手を忍ばせる。



「詩音、これ」



 小さな袋を差し出す。



「ん、なに?」


「開けてみて」



 詩音は少し驚いた様子で徐に包装を解いていく。

 そして彼女の顔がパァッと明るくなる。現れたのは小さなクマのぬいぐるみだった。



「かわいい……」



 15cm程度の大きさ、ふりふりとしたレースを纏い、頭の部分に赤いリボンのついた、愛らしいぬいぐるみに詩音は顔を綻ばせている。



「……くれるの?」


「うん。前に絵の具の筆をくれたでしょう? そのお礼もかねて。……これ俺だと思って可愛がってくれたら嬉しいなぁ」



 このクマのぬいぐるみは大学院の近くにある雑貨屋さんに置いてあったものだ。本当は自分用に欲しかったものだったが、こんなものを部屋に置いているのが誰かに知られるのが嫌だったので買えなかった。

 しかし、詩音に渡してしまえば問題はない。自分たちのものにすれば。将来一緒の家で暮らす僕たち、リビングに置かれたぬいぐるみを想像して温かい気分になる。



「俐一君が俺って言うの、まだなんか慣れないなぁ」



 詩音は控えめな笑顔で笑った。僕もそれに合わせて口元だけ笑う。僕だって慣れていない。

 これまで自分は、なんとなく「俺」じゃないと思った。だから「僕」を使ってきたが、僕呼びをする男子は自分の周りでは珍しく、成長期が来て背丈が伸びてからは、たびたびこの呼び方を指摘されてきた。

 「男」として生きると決めた。一人称を変えようと決意してから、最初の頃はなかなかすんなり俺、と口から出てこなかった。日々の会話で慣らしていくうちに、ようやくといったところだ。無理やりその音を自分の口から出しているようで、まだ自分の中での違和感は解消しきれていない。でもこうして外堀を固めておかないと、いつか内面の脆さが溢れ出て自分の中の「女」を隠し切ることはできないのではないかと思う。これは仕方のないことなんだ。



「俺って言うと、男らしいでしょ?」


「このクマちゃんは女の子みたいだけどね。どことなく似てる感じするし……俐一君だと思って大事にするね」



 詩音はぬいぐるみを愛おしそうに撫でた。その仕草には、彼女特有の優しさと心の温かさが表れていた。詩音はいつも、周りの人々や物に対して、このように細やかな愛情を注ぐ。

 しかし、このぬいぐるみが僕に似てる――?



「俺って女の子っぽい?」



 ふふっと詩音から笑い声が漏れる。その視線はずっとぬいぐるみ。詩音の撫でている手は止まらない。



「ちょっと! 僕よりそのクマちゃん可愛がらないでよ」


「僕って言ったね」


「あっ……」


「うふふ」



 詩音が再び笑ったので、「もう」と膨れっ面で言ってみるが、渡したぬいぐるみが撫でられていることに少し喜んでいる自分がいて困ったものだ。



 桃のタルトにフォークを入れると、桃の肉が柔らかく崩れた。まるで太陽の光を内包したかのように輝いている。口に運ぶと、桃の甘さとフレッシュな香りが溶け込み、幸福感で心が満たされる。本当に幸せだ。



 詩音は静かにパフェの中からザクロをすくい上げた。彼女がそれを口に含むと、どこか遠くを見つめるような表情を浮かべ、何かを思い出したかのように尋ねてきた。



「ねぇ、俐一君。美香ちゃんの結婚式、飛行機と新幹線どっちで行こうか迷ってて……どっちが良いかな?」



 高校時代は関西で過ごした詩音。美香ちゃんというのは、詩音の高校時代の同級生で詩音の親友だ。今度結婚するらしく、親友である詩音は当たり前のように招待されている。



「大阪だよね?」


「うん」


「安いのはどっち?」


「飛行機の方が少し安いみたいだけど……」


「飛行機の方が安いなら飛行機で行けば良いんじゃない? 移動も飛行機の方が速いでしょ」


「うん、そうだね」


「まだ予約してないんでしょ?」


「うん、まだ……」


「じゃあ、埋まっちゃう前に予約しちゃおうよ」


「う、うん」



 詩音はクマのぬいぐるみをバッグにしまい、入れ替わりに携帯を取り出して操作した。詩音の唇はザクロの真紅の色に染まっていた。僕はそんな詩音を眺めながら再度、桃を口に運んだ。



 ――――――――――――――



 それから、学業もバイトも抜かりなく日々励んでいた。もうイーゼルは物置にしまってしまったし、しばらく絵も描くことはしていない。机に立てかけられている詩音からもらった筆はオブジェクトと化していた。希翼のことも時折思い出すが、あれから見舞いには行っていなかった。



 飛行機を予約できた詩音は、仕事終わりの金曜日に大阪に出向いて、土曜日に親友の式を見届け、そして、1泊した後の日曜日――今日帰ってくる。やや過密なスケジュールだったが、家族や懐かしの友達に会えてそれなりに楽しめたようで、何枚かみんなで写った笑顔の写真が送られてきた。新郎新婦を中心に、少し離れた端の方で微笑んでいる詩音。親友の結婚式なのに、端にいなくても良いのに、全くそういうところが彼女らしい。

 部屋の中、夕日に照らされながらスマホに映し出されている写真を何枚かスライドする。やはり僕の彼女が1番可愛い。詩音はシャイでなかなか自分の写真を撮りたがらないので、これは貴重だ。拡大して詩音だけ切り抜いたものを携帯のホーム画面にでもしようか、なんて思いながら写真を眺めていると、姉の百子から着信が来たので出る。



「はい、百ちゃん?」


『あ、俐一? ごめん、確認して欲しいんだけど今テレビつく?』



 唐突な質問だ。どうしたのだろうか。

 リビングのテーブルに置かれたリモコンの電源ボタンを押すと、テレビは普通についた。おじさんの一人旅の番組が放映されていた。



「テレビつくよ? どうしたの?」


『えぇ、うちだけじゃないのかやっぱ。電波がイカレてんのかなーって思ったけど……最悪、テレビ壊れたかも』



 いきなり電波がおかしくなって全国一斉にテレビが見られなくなることなんてそうあることじゃないだろうに。



「あーあ、残念だったね」



 ドスンと鈍い音が通話越しに聞こえる。



『あ、叩いたら治った。天才だわあたし』


「生まれてくる子に同じことをしちゃだめだよ?」


『しねーわアホ。この場にいたらあんたの頭を叩いてたわ』


「あははは」


『ったく。……ごめんね、テレビ確認したかっただけから、あんがと』


「ねぇ、百ちゃん」



 百子が電話を切ろうとしたので、すかさず返す。



『んー?』



 いつも通りの、マイペースな口調で返してきた百子。言うなら今だと思って告げた。



「詩音が帰ってきたら、結婚したいって伝えようと思ってるんだ」



 少しの沈黙の後――。



『へぇ、プロポーズ? 指輪買ったの?』



 結婚に対する意志に否定的な意見もあることを覚悟していたが、百子は関心を示してくれているような声色で少し安堵する。



「俺が婿になるから、指輪は買ってない……けど代わりにネックレスを買った。なけなしのお金だけど」



 新しく携帯を買い替えた関係で、決して財布は豊かなものではないけれど、僕の精一杯、心を込めて選んだものだ。

 小粒のダイアモンドのネックレス。きっと詩音の白い肌に似合うと思う。



『婿……?』


「うん。良いかな?」


『それ詩音ちゃん同意してるの? お父さんには言った?』


「いや、まだ。……まずは詩音に、これから言う。でもこれは大場家のためになると思うから、納得してくれるんじゃないかな」


『詩音ちゃん弟いるでしょ? 弟が家を継げばあんたがわざわざ婿にならなくても良いんじゃないの?』



 百子の指摘はごもっともだ。しかし――。



「詩音の弟は結婚願望なくて、子供も欲しくないって言ってるみたいだから」


『子供? 俐一……子供、欲しいの?』


「……まぁ。詩音が将来的に子供を持ちたいみたいなことを言ってるのを聞いたことあるし……」



 詩音との結婚を強く意識していくうちに、家庭を持ちたいという思いが芽生えてきた。これは自分でも意外なことだった。家庭を築く、命を預かるということは夫として、親としての責任が生じる。そのことは百も承知だ。かつての自分はそれを嫌がっていた……いや、怖がっていた。でも……。

 嘉一の言葉を借りるわけじゃないけど、彼と同じ血が僕にも流れているのであれば――。守る存在がいれば、僕はそれなりに頑張っていけるんじゃないかと思う。



『あんた自身は子供欲しいの?』


「うん。百ちゃんの子供見てたら羨ましくなっちゃって」


『まだ産まれてねーが?』


「産まれてなくても生きてるじゃん。しっかりお腹の中で子供を育ててる。百ちゃんは俺の憧れだよ」


『膨れた腹に憧れてんのか?』


「ははっ。……自分のお腹の中に生命がいるってどんな感じなんだろ」


『つわりやばい、さっさと出てきて欲しい』


「可哀想に……代わってあげたいな」


『ふっ……あんたはなんか、良い夫になりそうだよね』


「そうかな?」


『うん。代わってあげたいなんてなかなか言えないと思うよ。少なくともうちの旦那は言ってくれない』


「そうなんだ……でも思うんだよね、女性ばっかりが辛い思いをするのは不公平じゃない?」


『まー……でも女で良かったこともあるよ。例えば胎動を感じた時とかね。あれは感動した』


「そっか……俺も胎動を感じたい」



 自分のお腹をさすってみる。少しだけ、虚しいような気分になった。



『……まぁ、その前に結婚だな。いつ言うのよ詩音ちゃんに』


「とりあえず帰ってきたら、ね。長旅で疲れてるだろうから、少し落ち着いてからが良いかなって思ってるけど」


『詩音ちゃんって今どこにいるの?』


「飛行機の中だよ、大阪から帰ってくる」


『え、大阪? なんで?』


「友達の結婚式で大阪行ってたんだ」


『友達が結婚式挙げてるなんてタイムリーじゃん』


「そうそう、友達の結婚式に行った後だからこそ、結婚に少しは関心出てきてるだろうし、良いサプライズになるといいなぁって思って。喜んでくれることを期待してるんだけど」


『ふーん。その時にネックレス渡すの?』


「もう実は渡してるんだよね。この前クマのぬいぐるみを詩音に渡したんだけど、その中に入れておいたんだ。多分まだ気づいてないと思う」



 付き合って2周年記念で渡したクマのぬいぐるみの背中のひだをめくると、小さなチャックが付いている。チャックを開くと少しの隙間があり、ひっそりとその中にネックレスを忍ばせておいたのだ。



『へー。なんか最近流行ってるみたいだよね、何かの中に本当のプレゼントを入れて相手に渡すってやつ。あんたも粋なことするね』


「流行ってるの?」


『そうみたいよ、あたしはやったことないけど』


「あるでしょ、お腹の中に赤ちゃん入れてるわけだし」


『ははっ』



 百子にはウケたようで笑い声が聞こえた。



「それにしても、知らない間に流行りに乗ってたわけかぁ。SNSやってないのにこれって、天才なのかな。この勢いで白馬にも乗って詩音にプロポーズかなぁ」


『調子にものってるね。……だいたい、婿になる人がプロポーズとか言わないんじゃない?』


「えーじゃあなんて言えばいいの? 求愛行動で示すべき? 白馬に乗って求愛ダンスとかすれば良いかな?」


『……』



 百子からは、しばらく返事が返ってこなかった。



「百ちゃん?」


『ねぇ、詩音ちゃんって今飛行機乗ってんだよね』


「え、うん、そのはずだけど」


『俐一。8チャンネルいれて……早く!』



 ただならぬ様子の百子。あわててチャンネルを合わせると画面の上部には大きく「速報」と出ていた。アナウンサーの声色からも緊迫した雰囲気が伝わってくる。

 中継画面は、青い空と緑豊かな山々を背景に、一つの場所から立ち上る黒煙を捉えていた。その煙は濃く、まるでインクのように空を汚していた。



『これ、詩音ちゃんの乗ってる飛行機じゃないの?』



 百子の動揺した声が耳に響く。



「へ……」



 リモコンが床に落ちる。冷汗が吹き出した。

 時間が止まったかのような感覚に包まれていた。心の中の動揺や恐れが、その場の空気を一層圧迫していた。

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