18回目の冬が来た

 キャスターがここ数年で一番の冷え込みを告げると、僕はテレビを消して家を出た。

 12月も終わりかけ。年齢的に冬は既に20回来ているはずだったが、直近の2年は季節の移ろいを感じる余裕すらなかった。僕にとっては18回目の冬といっても間違いではない。大学生になってようやく、世界とはこんなにもゆったりと流れるものだったと実感する。心が忙しないと世界まで早歩きなのだ。

 約束の場所は大学近くのカフェだった。七海の家と僕の家は大学を挟んでちょうど正反対にあるので、中間地点としてそこが選ばれた。

 土曜に大学に向かうことは稀だったが、平日以外に彼女と会うことはもっと稀だった。同じバンドの練習は水曜日だし、遊ぶとしても平日が基本だ。不誠実な恋人でごめんな、と届かない謝罪をすると、いつの間にか電車も目的の駅に着いていた。




「おはようございます。こんな早い時間から先輩に会うなんて変な感じですね」


 時刻は11時で決して早いとは言えないけれど、僕らの日常からすれば間違いなく異常事態だ。彼女もささやかな非日常を楽しんでいるのだろう。


「なんというか、校外学習に行く日の朝みたいだよな。何百回と歩いてきた通学路がキラキラして見えるあの感じ」


 ふふ、と優しく笑うと、マフラーに顔をうずめた彼女が上目遣いにこちらを見た。


「おかしな喩えですけど、すごく分かります。寒いですし、カフェ入りましょうか」


 無言で頷いて馴染みの店内に入る。大学の最寄りということもあり、若い客が多かった。ドアを開けると、まず目に入るのはラックに挿されたRockin' On Japan。この店はなぜかこの音楽雑誌を大量に所蔵しており、数十年前のバックナンバーまで取りそろえている。檜の木で作られた椅子やテーブルは、暖色系のライトとも相まって温かく柔らかな印象を与える。中央に設置されたストーブにはたらいが置かれており、温度も湿度も高めだった。

 彼女の後に続いて窓際の席に腰掛ける。程なくしてバイトであろう若い女性店員がメニュー表を持ってくると、聞き覚えのあるクラシックが流れた。


「先輩、どうします?」


 マフラーを外しながら彼女がメニューを見つめている。


「朝ご飯食べてないんだ。ホットサンドとブレンドかな」


「私、あんまりお腹空いてないんですよね。パンケーキにしよっと」


 空腹ではないのにパンケーキは食べられるのか。女性とはつくづく分からない生き物だ。

 窓の外は街路になっており、時折通行人と目が合う。決して心地よいわけではないが、こうして人通りを観察するのはそれなりに退屈が紛れた。まもなくコーヒーが運ばれてきた。暑いくらいの店内は眠気を誘うに充分で、疲れた体にカフェインを流し込んだ。昨日はろくに眠れなかった。


「もうすぐテストですね。先輩、単位大丈夫ですか?」


「まあ、僕は文系だからな。そこまで苦でもない」


「いいなぁ。私も文系にすればよかった。ウチの学科、女子は少ないわ、課題は多いわで最悪ですよ」


「僕みたいに文学部で怠惰に日々を送るより、理学部で勉強に精を出す方がよっぽどいいさ。最近は授業もまともに出てないし」


「ほんと、先輩って生活能力ないですよね。将来ヒモとか勘弁ですからね」


「はは、お世話になるよ」


 この子は、「将来」とか「現実」とか「人生」といった言葉をいとも容易く使う。言葉を用いるだけで心的負担を感じる僕とは段違いだ。けれど、もしかしたら。このまま共にいる時間が増えて、いつか僕も憶面なく将来について語れるようになるのだろうか。かつて、たった一人の人間によって変われた過去のように。




 その後は、他愛もない世間話をして、少しだけ勉強をした。ウチの大学は、2月から始まる春休みが長い代わりに、冬休みが三が日しかない。年末だからといって、おちおち休んでいられないのだ。

 コートを着て外に出ると、隙間という隙間から寒気が侵入し、一気に憂鬱な気分になった。


「今年は冷えるなぁ」


「寒いですね。私、東京の冬なんて初めて」


 彼女は出身が九州で、いわく、雪は人生で数度しか見たことがないとのことだった。


「せんぱい」


「ん?」


 急に立ち止まった彼女の方に目をやると、少しふてくされた顔でマフラーの位置を直していた。


「私、今日は手袋持ってきてないんですよね」


「うん」


「これがどういうことか分かります?」


「手袋を持ってきてないってことだろ?」


「はあ……」


 漫画のように典型的な呆れ顔。やれやれという仕草が小動物みたいで可愛らしかった。


「先輩、文学部ですよね。婉曲表現のプロじゃないんですか」


「なんだ、そういうことか。だったらそう言ってくれたらいいのに」


 苦笑いをしながら右手を差し出した。僕はもともと手袋はつけない。カフェでの体温はとうに奪われてしまった。


「まったく。今回だけは許してあげますよ」


 ひどく嬉しそうに、七海が左手を重ねた。そして僕の手をグイっと引き寄せ、自分のコートに収納した。

 七海の着るクリーム色のコートのポケットに、二人分の手の平が入ってしまった。

 なるほど、今の若者はこうして手を繋ぐのか。僕の知らないカルチャーだった。


「先輩の家、ここからどれくらいですか?」


「電車で10分。3駅だよ」


「なるほどー」


 あまり真剣には聞いていないらしい七海が間延びした声で応える。街路樹にはLEDが取り付けられ、ショーウィンドウには赤と白の配色がやけに多い。

 信号待ちで手持ち無沙汰だったので、なんとなく空を見上げた。どこまでも灰色の空ではゆったりと雲が流れていた。どこからか外国のクリスマスソングが聴こえた。

「あっ」と、七海が幽かに声を上げたのと、白い欠片が目の前に落ちてきたのはほとんど同時だった。



 ――雪だ。



 一度存在に気付くと、空には無数の欠片が散らばっていた。それは紙片の落下のように長い滞空時間を持って僕の足元に溶けていく。

 瞬間、僕はなにかを思い出す。そしてまもなく、たまらなく哀しくなった。

 ああ、どうしていつもこうなっちゃうんだ。

 まるで定期便のように、その病は周期的に僕を蝕む。日常の至る所に悲しみの破片があって、拾うたびに自分が分かってしまう。


「先輩、信号青ですよ」


 夢の中にいるように、彼女の声が冷たい空気に溶けてぼんやりする。

 結局、突然の降雪により交通は麻痺し、電車は走らなかった。駅はディスプレイを見つめる人と携帯電話で連絡する人であふれかえり、終末のクリスマスといった感じがした。


「歩こうか。せいぜい30分だ」


「そうですね。今日くらいは……」


 粉雪と呼ぶのも憚られる降雪だったが、それでも彼女の肩には確実に白い雪が積もっていた。

 何かを示し合わせたように、僕らは終始無言だった。カフェで話し疲れてしまったわけでもない。ただ、冷えた沈黙が時間をかけて通り過ぎていった。

 ようやく家に着いて鍵を開けようとした時、いつの間にか繋いだ手を離してしまっていたことに気付いた。いつからだったのか、紅くなった七海の頬を眺めても、答えは書いていなかった。


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