瓶の割れる音

 渚沙と付き合いだして僕の何かが変わったかどうかは分からない。けれど、僕と付き合いだして渚沙の何かが変わったことは、はっきりと言える。

 フィクションの中でしか知らなかった「恋人」という存在を、僕は未だに上手く飲み込めていなかった。何より驚いたのは、僕と渚沙の関係性に新たな名前がついただけでかなり態度が変貌した点だ。

 女子バレー部でも一年生ながら頼れる生徒で通り、男子も女子も分け隔てなくフランクに接する彼女が、僕の前だと急にどぎまぎし始める。明朗快活なしゃべり方も、常にピンと張った背筋も僕の前では保てないようで、すぐに顔が赤くなって言葉に詰まる。僕だって緊張していたけれど、もともと口下手だったのでそこまで目立つわけではない。しかし、はつらつとした渚沙がここまで恥ずかしげな表情をするのは意外だった。そして、そんなところを見られるのは世界で僕だけという事実がとても嬉しくて、「これが恋愛の喜びなのだろうか」と物知り顔で頷いた。


 それでもひと月が経つ頃には互いに慣れてきて、次第に友達のような接し方もできるようになった。けれど、どこか以前までとは決定的に異なっていて、それも刺激的で好きだった。仲の良さがややもすれば胸の疼くような切実な感情に変わってしまう危うさを、存分に楽しんでいた。

 恋人の存在は、安心感に直結するのだと子供ながらに思う。絶対的に自分を肯定してくれる人が近くにいて、強固な精神的支柱があるという安心感。人を好きになり、好かれるとはこういうことだったのだ。


 渚沙と付き合っていることは、親はもちろんのこと、数少ない友人にも言わなかった。自分からおおっぴらにするのも性に合わないし、なにより「秘密を共有する」体験そのものが僕らは好きだったのだ。

 誰も僕らの関係を知らないというのは隠し通す苦労もあったが、特有のドキドキ感があった。



 例えば、部活中。向かいのコートで練習する女子バレー部をふと眺めると、同じ事を考えていた彼女と目が合うことが何度かあった。気付くとすぐに目を逸らすけれど、次第に笑みがこぼれてくる。そうして一人でにやけていると、部員から変な目で見られるというのがお決まりだった。そのせいで一時期の僕は頭のおかしい人間のような扱いをされたが、渚沙の方はそんなことにならなかったと聞いたので単に僕の笑い方の問題だったのだろう。



 例えば、昼休みの教室。付き合ってからも渚沙は僕のクラスの友達のところにおしゃべりに来たし、今まで通りそこに僕が挟まることもあった。自意識過剰は重々承知だが、中学生は女子と一対一で話すというだけで気を遣うものだ。周りの目線を気にし、もしかしたら明日の朝には黒板に相合い傘でも書かれるんじゃないか……という不安を抱えなければならない。だからこそ、人目を憚らず、気兼ねなく話せるその場は貴重だった。


 例えば、帰り道。同じタイミング部活が終わると、一緒に帰ることがあった。同級生に見つからないように少し遠回りし、いつもより時間をかけて帰路についた。並んで歩くのに慣れていないのは彼女も同じようで、僕らの距離は5センチになったり、30センチになったりした。一気に近づくと息が詰まるような感覚があり、自分の鼓動の音しかこの世には存在しないのではないかとすら思えた。しかし、そんな初々しい緊張感も回を重ねる度に和らいでいき、笑顔もことばも、ごく自然に、洗練されていった。心を通わせるとはああいうことを言うのだろうか。

 遠回りの道ではいつもコンビニの前を通り過ぎるため、三度に一度くらいの頻度でアイスを買ったりした。本当は学校で禁止されているけれど、そんなのは僕らのわくわくを増幅させる材料でしかなかった。


「あ、当たった」


 駐車場で二人座って棒アイスを頬張っていると、何の前触れもなく渚沙が言った。


「すごいね。そういうのって本当に当たるんだ。もう一本もらえるの?」


 棒の先に、薄く「アタリ」の文字が刻印されている。


「私も初めてだ。やったね、ちょっともらってくるよ」


 自動ドアが開いて足に一気に冷気が吹き付ける。ちょうどのタイミングで僕もアイスを食べ終わったが、何も書かれてはいなかった。


「やった、もう一本無料でもらえたよ」


 自慢げな顔で新品のアイスを見せびらかしてくる。こういう些細な幸せを純粋に喜べる彼女だから、僕は好きになったんだろうなと思う。


「んふふふ、自分で買うのより美味しいなぁ」


「味は変わらないんじゃないの?」


「もう、そういうことじゃないよ。わかってないなぁ千尋は」


「そうなの? 僕も当たれば分かるのかな」


「そうだよ。また一緒に来ようね。次も私が当たるかもだけど!」


 こんな静かな喜びを、ずっと留めていたかった。

 こんな穏やかな幸せが、ずっと続いて欲しかった。



 *********



 それから一年の月日が流れ、互いの背も一気に伸びた。関係はそれほど変わらなかったが、少しずつ自分の中の大切な部分を相手に預けるという作業を繰り返し、僕らは信頼を築いていた。時には彼女の優しさに甘えすぎて困らせたりもしたけれど、それでも僕らは健全かつ誠実に恋愛を全うしていた。


「私、海が見たい」


 渚沙がそう言ったのは確か中学二年の夏休みで、その日は肌を突き刺すくらいに日差しが強かった。駅まで歩くだけで背中はぐっしょり濡れ、部活に行く気力はまったくなかった。

 たまたま駅で鉢合わせていた僕らは言葉を交わさずにいつもと反対の電車に乗った。方向が違うだけでこれほどまでに乗客数が違うのかと驚いたのを覚えている。

 ガラガラの車内に並んで腰掛けると、そこは完全な非日常だった。海へ向かう電車と言うだけで、えもいえぬ不気味さすら漂う。けれど、車窓からの景色は普段より一段と輝いていて、見飽きた陰鬱なビル群とはまったくの別物だった。見える対象はそれほど大差ないが、心の持ちようでここまで違うのだろうか。


 四十分ほど揺られると、景色が急に開けて海が見えた。二人とも声はあげなかったものの、軽く感動しているのが顔を覗き見ると分かった。

 降り立った駅にはほとんど人がおらず、『銚子』という駅名は聞いたことはあれど、来たことはなかった。彼女の気まぐれで降りたため、僕は何も分からずについて行くだけだ。遠くに漁船が見えた。


「ここ、知ってるの?」


「ううん、知らない。でも、どこかの駅で見たことがあったの。『思わず降りてしまう、という経験をしたことがありますか。』って書いてあるポスターを。それを思い出して、降りちゃった」


「なるほどね。いいキャッチコピーだ」


 しばらく歩くと、寂れたトタン屋根の駄菓子屋があった。屋外に出されたアイスクリームケースは錆びてあちこち塗装が剥がれている。一見とっくの昔に廃業していそうなものだが、カウンターでは皺の多い老婆が難しい顔で新聞を読んでいるし、駄菓子も多少はあるようだった。

 店内はキリキリ音を立てる黄ばんだ扇風機が稼働しているだけだった。旧式のドリンククーラーには瓶ジュースがいくつか収められていた。


「あ、ラムネだ」


 昔ながらの瓶ラムネを見つけた彼女が扉を開けて二つ取り出す。当たり前のように一つを僕に差し出す。性能が悪いのか、冷たいというよりは若干ぬるかった。


「おばあちゃん、これください」


「あいよ、二つで200円だね」


 帰り道にコンビニに寄る習慣があったおかげか、鞄にはいつも500円ほどを忍ばせていた。

 二人でラムネを持って海岸まで歩くと、また汗が噴き出してきた。防波堤の限界に到達すると、彼女がふと振り返った。

 海が、世界が、渚沙が青かった。ただひたすらに、青々としていた。

 こんな気持ちを、僕は知らない。いや、それどころか、この世にはまだ存在しない言葉なんじゃないかとすら思う。


 ラムネイトだ。


 としばらくして分かる。


 ラムネ色の想い出。ラムネイト。特に意味はない。ラムネのように頭に湧き上がった、なんの意味もないけれど青くて脆い、この感情の名前だ。波間を縫って、言葉が紡がれた。


「千尋、あのね……」


 突然、潮風が吹きつけた。風の音で声は掻き消され、肝心の内容は聴こえない。風がやむと、僕は即座に尋ねる。


「なに? なんて言おうとしてたの?」


「ううん、いいの。やっぱり後で言うことにした」


 自分の言いたいことは言いたい時に言えば良い。だから僕もそれ以上は追求せず、その後は大人しく家に帰った。一応は優等生で通っている僕らだから、顧問にはそれほど咎められなかった。


 けれど、その後いつになっても、渚沙が言いたかったことを僕が知ることはなかった。

 あの時、何を言おうとしてたのか。僕は今でも分からないままだ。




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