第二章「ラムネイト」

季節よ、うつろわないで

 移ろっていく季節に、僕は追いつけるのだろうか。もしかしたら、僕が知らないところで世界はとんでもない速度で進んでしまっていて、一周差がついたところでようやく僕は生きているのではないだろうか。

 何かが終わるとき、こんなことを考えずにはいられなかった。 


 日常が終わる。当たり前が変わる。この校門をくぐるのも今日で最後だった。

 三年前は長すぎたズボンも今は短く、ぶかぶかだった学ランは窮屈に感じる。思えば、不思議な時間だった。僕の中で大切なものが一つ壊れ、新たに二つできた。そんな六年間だった。


 卒業式で感傷的になれるほどの思い出が、どうやら僕にはないらしかった。最後の校歌斉唱中、隣のパイプ椅子に座っていた女子が泣き始めた時はびっくりして思わず凝視してしまった。けれど、周りを見渡してみれば僕以外のほとんどは涙を流していた。サッカークラブに属していた人気者の男子も、柔道で全国大会に進出したという屈強な女子も、皆が鼻声で校歌を歌っていてつい笑いそうになってしまう。

 そんな中、僕を除いてただ一人だけ、涙など一切流さずに凜とした表情で前を見つめていた生徒がいた。斜め前に座るその人をあまりにもじろじろ見ていたからだろうか、一瞬だけ、目が合った気がした。

「しおり」と、心の中で訳もなく名前を口にしてみる。

 その響きの中にどれほど神聖で尊い意味が含まれているのか、僕は言い表すことができなかった。




 式が終わると、ある人は校門の前に集まって最後の一時を惜しみ、ある人は教室で担任と意味のないお喋りを続け、そしてある人は我関せずといった具合に学校を後にする。


「千尋、泣いてなかったな」


 後方から野太い声が聞こえた。

 早々に帰宅しようとして校門の前まで来ていたのだが、例の三人衆に捕まってしまった。平山、片桐、大和という、修学旅行で二晩を共にしたメンバーだ。

 やれやれ、と口にしながらも、いざとなると「最後くらい、数少ない友人と喋っておくか」という気持ちになる。正直に言うと嬉しかったのだ。このタイミングで声をかけてもらえなければ、僕は小学校時代に友達と呼べる存在がいたと断言できなかったかもしれない。ただでさえ自尊心の低い僕だ。これだけで認められたような気になった。


「君ら三人はぼろぼろ泣いてたじゃないか。僕はなんで皆があんなに泣けるのか分からなかったよ」


 もちろん、本当は理由など分かっているのだ。実を言うと、あれほどまでに感慨深くなれる三人が羨ましくもあった。


「今まではあんまり真面目に校歌とか歌ってこなかったけどさ、これが最後だって思うとなんだか泣けてきちゃったんだよな」


 ワックスで髪を固めた片桐が言った。慣れていないのか、その髪の毛は異様にテカテカしている。


「わかる。俺、修学旅行とか運動会とか思い出してたわ」


 この後も練習があるのか、野球のバッグを担いだままの大和も賛同する。


「まあ、千尋は大人っぽいからな。こんくらいじゃ涙を見せてくれないって事だよ」


 フォローなのか皮肉なのか判断しかねるが、平山のことだ。きっと擁護してくれているのだろう。


 その時、近くの集団から「ハイ、チーズ」といった声が聞こえた。どうやら、校門前で写真撮影会が始まったらしい。気付けば、自分のクラスの女子は大体がそこに集合していた。それを遠巻きに眺めながらふと、そこにいるほとんどが今日から会わない人間だというを知り、余計に分からない感情になった。


「小野寺、聖英行くんだってな」


 同じく女子の集団を見ていて片桐が呟いた。


「聖英って、あの聖英? さすが学級委員長、頭いいなぁ」


 大和が感心したように言う。聖英とは都心にある名門校で、中高一貫の女子校だ。ウチの学校からは毎年2・3人しか受からないが、彼女の優秀さを考えれば納得のいく進路だ。


「勉強が出来るだけじゃなくて、人気者だからな。今だって誰よりも写真撮影に引っ張りだこじゃないか」


 平山の言うように、彼女は集団の中心で様々な生徒から声をかけられている。ある者は彼女に抱きついて愛情表現をし、ある者は泣きながら写真を一生の宝にすると宣言していた。とことん、自分とは次元の違う存在なのだなと思い知らされる。

 けれど、今さらになってそんなことを思っても意味がないし、その方法で自分を卑下するのは飽き飽きしてしまった。彼女が雲の上の存在であるというのは、太陽が東から昇るようなものだ。この世の真理と自分を比べて自己嫌悪に至る者などいない。


 それから四人で互いの進路の話をして、彼らとは別れた。平山と大和は同じ公立の中学校に進み、片桐は野球の関係で隣の県の中学に行くらしい。やや家の離れてる僕は案の定3人と違う進路を選ぶことになった。仕方のないことだ。

 校門から出て、改めて校舎を振り返る。端から端まで見渡し、僕はようやく思い出す。最後に訪れなければならない所があった。

 駐車場に車を停めていた両親に先に帰るよう伝え、二度と履かないと思っていた内履きにもう一度足を入れた。これ以降は使わない内履きなので、遠慮なく踵部分を踏むことができてなんだか嬉しい。

 嗅いだことのない新鮮な匂いが漂う廊下を抜け、陽だまりに満ちた踊り場を過ぎると二階の突き当たりにその部屋はあった。もう何度通ったか分からない、図書室だ。教室を除けば、学校生活で最も足繁く通った場所だろう。もしかしたら目隠しでもここまで来られるかもしれない。

 内履きを脱いでたてつけの悪いスライド式の扉を開けると、一瞬で懐かしい匂いに包まれる。木と古本の匂い。ここ数週間は卒業式の予行練習ばかりで図書室に来る機会はなかった。教室二つ分の空間いっぱいに優しい光が満ちていた。


「あら、沙加戸さかどくん。来てくれたのね」


 ぼーっと宙を見つめる僕に、カウンターから声をかける人物がいた。六年間お世話になった司書さんだ。司書さんは「司書さん」という名前ではないに決まっているのだけれど、名前は未だ知らない。


「いよいよ卒業ですよ。今日で図書室ともお別れです」


「ふふ、そうよね。私はまだ三年間しかこの図書室を知らないけれど、あなたは私よりも三年分もこの図書室を知っているものね」


「まともに喋った友人よりも、まともに向き合った本の方が遥かに多かったです。これで良かったのか、今でも分からないんです」


 自虐として放ったその言葉を、司書さんは思いのほか柔らかく受け止める。


「あなたは、六年間での価値を誰よりも知ることが出来たはずよ。それは今後もかけがえのない財産になると思う。孤独な時間に文学と向き合えた人間しか、孤独を語ることは許されないと、先生は思うわ。ちょっと難しかったかしら」


 孤独の意味は分かるけれど、それは辞書の上だけだった。空気の中でふわふわと漂う「孤独」の二文字は僕が近づくことの出来ない響きを持っていた。

 思案に暮れる僕に、司書さんは言葉を続ける。


「それに、図書室に通いつめていなかったら、あの子とも仲良くなれなかったんじゃないの?」


「栞とは……そうかもしれないですけど」


「本という世界を一次停止させるために使うのが『栞』でしょう? あの子が、沙加戸くんの人生を少しだけ止めてくれたのかもしれないわよ。あなたが学校を休み始めた時、本当に心配したんだから」


 僕が病気を経て学校に復帰できたのは、本当に彼女のおかげと言うほかなかった。

 そして、示し合わせたようにまたも建て付けの悪い扉が開かれる。



「千尋くん、やっぱりここにいた」



 突如として、開け放たれた窓から風が吹いた。早咲きの桜の花びらが舞い込み、甘い香りが室内を満たしていく。五秒ほど春吹雪が続き、ようやく目の前に少女をひとり、認める。


 ぼくのかみさまだった。


 見るだけで泣いてしまう。こんな気持ち、馬鹿馬鹿しいと分かりつつも否定できない。だって、これが僕のすべてだ。


「栞ちゃんいらっしゃい。あとはゆっくり、二人でお話していってね」


 そう言うと、司書さんは鞄を持って図書室から出て行った。栞がぺこりと丁寧なお辞儀をする。春に満ちた部屋に、僕ら二人だけが残される。


「いよいよ卒業だね。いやー、はやいなー」


 内履きを脱いで奥に進みながら栞が言った。目指す先は分かりきっている。僕らが出会った特等席だ。


「僕も実感湧かないよ。みんな、明日から会えなくなるなんて」


「だよね。この図書室も今日でお別れなんて嘘みたい。まだまだ読みたかった本、たくさんあったのになぁ」


 ぐるっとあたりを見渡す。結局最後まで手つかずだった「日本文学全集」がものものしく佇んでいた。


 しばらく沈黙を共有した後、まるで世界の秘密を教えるかのような物言いで栞が言った。


「ねぇ、覚えてる? 私と、千尋くんの物語」


「うん、覚えてるよ」


 物語という表現も説明がいらないほどに、僕と栞は多くの言葉を重ねていた。


「三年も前なんだね。初めて会ったのがクラス替えで隣の席になった時」


「僕は栞のこと、ずっと前から知ってたけどね。ほら、君って有名人だから」


「やだなぁ、やめてよ。私なんて何の取り柄もない、普通の人間なのに」


「仮に君を普通だとしたら、僕は毒虫以下だよ。この世界は滅ぶんじゃないかな」


 いつの間にかこんな冗談も言えるようになったんだな、と感心する。数年前から考えればものすごい成長だ。


「でも本当に、良かったよ。千尋くんが卒業できて。学校に来なくなり始めた時はどうしようかと思っちゃった」


「同じ事を司書さんにも言われたよ。ありがとう」


「あれ以来、図書室で会う回数も増えたよね。病気のおかげでより仲良くなれたのなら、悪いことばかりじゃなかったのかな」


「けど、そう思えたのも栞のおかげだよ」


 今日は珍しく、栞と目が合わなかった。彼女が見つめる先には、まだ写真会を続けるクラスメイトたちがいる。窓のフレームで縁取られたその光景は、まるで一枚の絵画だった。

 二人で窓の先を眺める。目線は合わないまま、栞が口を開いた。


「ねぇ、」


 永遠とも思える間隙の後、言葉が継がれる。


「私のこと、どう思ってる?」


 反射的に栞の顔に目がいく。刹那、走馬灯のようにこれまでの思い出が駆け巡って、最後に残ったのは一抹の哀しさだった。僕は僕に失望していたんだろう。

 答えを出せないまま、時間だけが過ぎていった。いや、正確には何か答えらしきものを口に出しかけてはいたのだ。けれど、勇気の出ない僕の口は「か」の形のまま動かなかった。

 沈黙を終わらせたのは、僕の知らない声だった。


「あ、栞いた! もー、探したよー。この後行くフェミレス決めてるから、栞も早く来なよ」


 僕の知らない女子生徒が栞を見つけ、連れて行こうとする。栞は一瞬だけ僕と目を合わせ、友達であろう女子生徒に返事をした。


「ごめんごめん、未返却の本を返しに来てたんだ。先に行ってて、すぐ行くから」


「分かった! 待ってるね~」


 どうやら、終わりらしかった。荷物を肩にかけ、こちらを見ずにまっすぐと扉へ向かう。様々な感情に打ちひしがれている僕に、背を向けたままの栞は言った。


「千尋くん」


「は、はい!」


「君はもう、大丈夫だよ」


 いつか言われたその言葉を、僕は数年の時を経て噛みしめる。落ち着いたその声からいくらか表情は推測できるが、実際は背中しか見えない。何か返さなければとモタモタしているうちに、その背中すら見えなくなってしまった。

 彼女と春の残り香を留めんとばかりに呼吸が荒くなる。最後に残った「大丈夫」という言葉で満たされ、それが向けられる自分にひどく絶望した。僕はなんと惨めで、情けなく、不甲斐ない人間なのだろう。


 それもこれもすべて、僕の弱さだ。



 **********



 どれほどの時が経ってからだろうか。動けなかった僕はようやく重い腰を上げ、学校をあとにした。校門の前には生徒は誰も残っていなかった。きっと、みんな帰ったか別の会場で二次会でもしているのだろう。いつもならバスで十分かかる通学路を、今日は歩こうと思った。そういう気分だった。

 誕生日祝いで買ってもらったMP3プレイヤーを再生し、安物のイヤホンを耳に突っ込む。三年前に流行った曲が流れた。風に煽られて散りゆく桜に、僕はやっぱり追いつけそうになかった。

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