熱が冷めるまで


 1


 僕が栞と出会ったのは、ちょうど4年生に上がる頃だった。地元のマンモス校に通っていたので、毎年のようにクラス替えがあった。けれど、元来人付き合いが苦手な僕は友達をうまく作れず、休み時間はいつも本を読んで過ごしていた。

 新しいクラスが決まり、見慣れない教室とクラスメイトにそわそわした。本に集中しているフリをしても、クラスにいる人間がみな自分を見ているような錯覚に囚われて落ち着かなかった。

 深呼吸を繰り返しても鼓動の早さは変わらず、同じ箇所を何度も読み返していた。小説は一向にページが進まなかった。程なくして、知らない男教諭が入ってきた。白髪の交じった、40代くらいの先生だった。それ以外の印象はなかった。

 担任が来ると同時に皆が各々の席につき、すぐに担任の自己紹介が始まった。

 教室の真ん中に席のあった僕は、気持ちの悪い緊張感がずっと残っていて、冷たい汗が流れ出す始末だった。だから、その時に担任が何を言っていたのか、いっさい覚えていない。耳に入ってこなかった。

 突然、左隣に座っていた生徒が挙手し、「はい」と返事をした。今までの話を聞いていなかった僕は、それが何の返事か分からなかったが、その鈴の鳴るような凜とした声を頭で反芻した。

 おもむろに左に視線を移すと、見覚えのある女子生徒が手を挙げていた。天高く伸ばした指先から背骨まで、少しの歪みもなくピンと張られたその姿勢は、弓に張られた弦を彷彿とさせた。


 綺麗な女の子だった。


 それは盛り付けられた美しさというより、不要なものを削ぎ落としていった、引き算の美しさだった。長く、艶のよい髪は吸い込まれそうなほど黒々としていて、自然に整った容姿からはどこか文学的な香りが漂う。

 彼女が挙手して注目を集めたその瞬間、おそらくほとんどの男子が恋に似た感情を抱き、女子は嫉妬を超えた諦念を感じただろう。そのくらい、その少女は一目で魅力的だった。


「じゃあ小野寺、頼めるか」

 しゃがれ声で担任が言うと、黒板に書かれた「学級委員」の文字の下に名前が刻まれた。


 小野寺おのでら しおり


 それが、彼女の名前だった。


 ********


 友達と呼べるような存在はろくにおらず、知り合いですら少ない僕が彼女に見覚えがあったのは、彼女がその容姿と優秀さ故に有名人だったからではない。僕自身、なぜ顔を知っているのか分からなかったのだから。

 そのわけは、放課後に解明されることになる。

 5限が終わり、いつも通り図書室に向かうと、奥の席に誰かが座っていた。相変わらず伸びた背筋で、芸術作品のように本のページをめくる少女の姿があった。

 真摯かつ上品に本に向き合う様子があまりにもしっくりきていたから、彼女がその場所に適切というよりむしろ、図書室という場所自体が彼女に適合しているような気さえした。

 赤い夕日が図書室に差し込み、背表紙のフィルムを照らしていた。その見慣れた光さえ、どこか神秘的だった。足繁く通っているはずの図書室なのに、今日は違って見えた。ここは、僕の知っている図書室ではなかった。

 しばらくの間、ぼーっと眺めていたからだろうか。不意に目線が交錯し、彼女が首を傾げた。


「どうしたの?」


「あっ、いや……」


 机二個分を挟んだ距離とはいえ、盗み見ていたことがばれた気まずさで蒸発してしまいそうになる。そんな僕を気にかけるように、彼女は立ち上がりこちらに向かってくる。息が詰まりそうだ。

「隣の席の、沙加戸さかどくんだよね。一年間、よろしくね」

 何の理由もなく笑顔になれる人種が、僕は嫌いだった。けれど目の前でこうして微笑まれると、その嫌悪が些細な妬みであることに気づいて悲しくなった。思わず目を逸らしてしまう。


「ぼ、僕の名前……」


「そりゃあ覚えてるよ。隣の席だし。実はね、私は前から君とお友達になりたいと思ってたの」


「え……?」


 名前を覚えられているという事実だけでも充分驚きだが、唐突に出てきた「友達」という単語に頭の処理が追いつかなかった。


「だって沙加戸くん、よく図書室にいるでしょう? 私も2週間に1回くらい図書室に来るけど、沙加戸くんがいない日はなかったから。それに、今日も休み時間はずっと本を読んでいたし」


「小野寺さんも、本が好きなの?」


「そうね。沙加戸くんほどじゃないかもしれないけれど、本は好き。自分じゃない誰かに、なれるような気がするから」


 なぜか消え入りそうな声で呟く後半部分に、僕も負けないくらい小さい声で返答する。


「小野寺さんは、他の誰かになる必要なんてないと思うけど……」


「そんなことないよ、私だって悩んでばっかり。それはみんなと変わらないんじゃないかな。今日も友達のことで悩んじゃったし。沙加戸くんもそうでしょう?」


「ぼ、僕は友達がいないから。あんまりそういうのはないかな」


「どうして? 友達、つくらないの?」


「えっと、つくらないっていうか、人と話すのが苦手だから。僕なんかと話しても、きっとつまらないよ」


 つい卑屈になってしまう悪い癖に気づく前に、頬に温かい感触があった。それは小野寺さんから伸ばされた手の温度だった。彼女の瞳に僕が映った。


「じゃあ、私と友達になろう?」


「えっ……ああ、うん」


 あまりに突然の出来事で、僕はただ頷くしかなかった。友達の意味すら忘れていたかもしれない。頬に添えられた手はどんどん温かくなっていた。きっと、頬が赤く染まっていったせいだろう。


「やっと目を見てくれたね、沙加戸くん」


 今までの控えめな笑みとは違う、ニカッとした笑い方だった。慣れない状況に耐えられなくなり、思わず後ずさりしてしまった。頬の感触が消えた。

「ご、ごめんね。嫌だった?」


 後退する僕を見つめる彼女は、今までの数倍美しかった。胸にわだかまるこの感情を、何と言えばいいのか、その時の僕はまだ知らなかった。


「ご、ごめん! ちょっとびっくりしちゃって……その、僕なんかで良かったら」


「やった! ありがとう!」


 生まれて初めてできた「友達」という存在が嬉しいと同時に、一抹の違和感も抱えていた。これが果たして普通のに向けるべき感情なのか、分からなかった。


 ********


 その後は読書好きらしく、各々が黙って本を読み始めた。以前と異なるのは、僕がいつも使っている左奥の机に、僕以外が座っていることだ。

 図書室には、僕ら2人だけだった。

 9つもテーブルがあるのに、どうしてわざわざ僕の正面に座るのか尋ねようとして辞めた。きっとこれが、友達というものなのだろうと理解した。

 1時間ほど経って司書さんが僕らに声をかけるまで、まったく読書に集中できなかった。目の前に美術品があってそれを見ない人間などいないだろう。その日の僕はずっと焦点が合わず、熱に浮かされたような気分だった。


「君たち、そろそろ閉めますよ。今日は2人なのね」


 いつもは僕しか残っていない。珍しい光景に司書さんは少し驚いていたけれどいつもと同じように緩く微笑んで僕らに挨拶をした。


「気をつけてね」


 空はますます茜色に染まっていた。




 僕たち2人しか学校に残っていなかったので当然、校門までの経路を並んで歩くことになる。自意識過剰も甚だしいが、僕は「小野寺さんと並んでいるところを誰かに見られるんじゃないか」という心配が先行し、早足で歩きたかった。なんとなく、自分が小野寺さんの隣にいることがとても不適切に思えたからだ。そんな資格、僕にはなかった。

 しかし、当の小野寺さんはゆっくりと歩を進めていた。先に帰ると言いたかったが、臆病だった僕は初めてできた友達に嫌われることを何より恐れていた。

 歩幅を気にしてキョロキョロする僕とは対照的に、冷静な彼女は何か大切なことを尋ねるように僕に話しかけた。


「沙加戸くんは、何を読んだの?」


「えっと、カフカだよ。男の人が毒虫になる話」


「それ知ってる。『変身』だよね。沙加戸くんは、もし朝起きて自分が毒虫になってたらどうする?」


 突拍子もない質問だった。内ズックを履き替えながら僕は毒虫になった自分を妄想してみた。びっくりするくらい何も思いつかない。


「そ、想像もつかないよ……でもきっと、すごく寂しいんだと思う」


「なるほどね。私は、あまり変わらないと思うな」


「えっ?」


 「変わらない」の意味が分からず聞き返そうとしたが、夕日に照らされた小野寺さんの横顔に見惚れて、何も言えなくなってしまった。自分の人生という感じがしなかった。

 改めて彼女を眺めてみても、やはり文学的な香りがしていた。

 僕は郊外に住んでいたので、小野寺さんとは校門で別れることになった。恥ずかしいことに、今まで友達付き合いがなかったので別れの挨拶をうまくできなかった。けれど、そんな僕にも彼女は優しくその作法を教えてくれた。


「えっとね、友達と別れるときは、『またね』って言うんだよ。バイバイよりも、またねの方が好き。こっちの方がまた会える気がするでしょ?」


「わ、わかった。小野寺さん、またね」


「栞」


「えっ?」


「小野寺さん、ってなんか変だよ。みんな『栞ちゃん』か『栞』か『小野寺』って呼ぶのに。だから、君には『栞』って呼んで欲しいな。私も、千尋くんって呼ぶからさ」


 確かに、クラスメイトの会話を聞いていると名前呼びが基本だ。断る術はなかった。


「じゃあ、えっと、栞。またね」


 中途半端にあげた手を小さく振り、別れの挨拶を済ませた。名前で呼ぶことに妙な気恥ずかしさを覚える自分がなんだかおかしかった。でも、そんな僕を見た栞が、今日一番の笑顔で言った。


「うん! またね、千尋くん」


 栞は満足そうに頷くと、ひらりと身を翻して反対方向に歩いて行った。彼女が背負った赤いランドセルを、曲がり角で見えなくなるまで呆然と見つめていた。心臓を鷲づかみされたような感覚がずっと残っていた。心が完全に奪われてしまっているのを、痛いくらい実感した。


「し、しおり」


 自分にも聞こえないような声で、再度その名前を呼んだ。心の所在を確かめる、確認作業のようなものだった。世界で一番大切だと思えた3文字を抱えながら、浮ついた気持ちで帰路についた。


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