第2話

 眠りの浅くなったところをめがけて不穏なギターのアルペジオが忍び込んでくる。枕の下に半分突っ込んだ携帯端末が理解を超えた仕組みによっておれの睡眠リズムを検知し、ここぞというタイミングで目覚ましに設定されたラッシュの「テスト・フォー・エコー」を鳴らす。ご丁寧に小さめの音量からフェードインする目覚ましの機能と楽曲のアレンジが見事にマッチし、緊張感のあるあやしげなイントロで耳から忍び込んだ楽曲は不思議なボーカルで脳みその扉を叩く。軽いめまいを感じながら意識がまどろみを引きずっているところへ破裂するような騒ぎが巻き起こっておれはたたき起こされる。なにもかもがへたり切ったベッドに上体を起こしておぼつかない指先で音楽を止める。いつも決まって騒ぎのあと歌が入ってくるところの手前で音楽は止められる。もうだいぶ長いこと、おれはこの曲を最初の五十秒しか聴いていない。毎日おなじような朝だ。くたびれた布団によれよれの寝間着。犬小屋の敷物みたいなタオルケット。窓から差し込む朝日はまるで朝日のようで、その光の帯の中に漂う埃はまるで埃のようだ。ベッドから立ち上がるとそこはまるでおれの部屋のようで、キッチンの洗い物やローテーブルに残されたビールの缶とほとんど平面に開かれたスナック菓子の袋が昨日を留めている。おれはそこここに残された名残を見ながら前の晩のことを思い出す。迎えた朝は昨日の朝と何も変わらないように見える。でもおれは昨夜知ってしまった。映画に出ているおれがいることを。これまでも世界のどこかで茅ヶ崎時夫は存在していたのだろう。昨日の夜までおれが知らなかっただけだ。おれの知らないものはおれの世界には存在しない。茅ヶ崎時夫は昨日の夜、おれの世界に侵入してきた。


 おれは誰かと会って茅ヶ崎時夫のことを話したいと思った。そう思って真っ先に頭に浮かんだのは同僚の横山だった。横山は同じ会社に所属するITエンジニアだが、仕事はすっかり在宅勤務中心になってしまったのでしばらく会っていない。オンライン会議などで画面ごしに顔を合わせることはあるけれど、それを指して「会う」と言えるほどもう若くはない。おれは携帯端末のコミュニケーションアプリを使って横山にメッセージを送信した。

「おはよう。おれ今日会社に出るから昼にでも例の茶店かどこかで会えないか」

 送信してしばらく見ていると横山から返信が届いた。

「もう朝なのか。昨日の夜中に会社のサーバがトラブって直しに来たまま仮眠してた。もうひと眠りするから出てきたら起こしてくれ」



 いつもと同じ時刻の地下鉄に乗り、同じ道を歩いて同じビルへと向かう。道中で顔を合わせる他人たちは他人だけれど幾人かは見覚えがある。同じ時間帯に同じような場所で同じような行動をとることで記憶に残る他人。同じ電車を共有する他人。同じ信号待ちを共有する他人。同じビルを共有する他人。ビルに入ってエレベータに乗る。エレベータでも顔見知りと乗り合わせることがある。おれの所属する会社はこのビルのワンフロアを占めている。それぞれのフロアに別の会社が入っていて、その規模は数フロアを占有するような数百人規模からワンフロアに何社か共存しているような数人規模までさまざまだ。エレベータに乗り合わせる他人たちはそれぞれがそれぞれの目的階で降りて行く。一人また一人と降りて行くたび、残る他人たちの関係が濃くなっていく。おれは同じフロアで降りた数人に挨拶をして追い越し、オートロックを解錠してオフィスに入った。


 在宅勤務者が増えたことでオフィスは閑散としていた。百数十人を収容していたワンフロア分のオフィスに、今は多くても十数人程度しか出社してこない。もはや会議室と応接室をいくつか残してオフィスを縮小したほうが良いのではないかという気がする。さしあたり見わたすかぎり誰もいなかったのでおれは無言のまま自分の席を目指した。途中横山の席を覗くと机の下に頭を突っ込んで下半身が通路にはみ出した状態で横山が横たわっていた。寝ているのか死んでいるのかもわからない。このぐらい出社率が低いと会社であんな風になったまま死んでいてもしばらく発見されないかもしれない。


 おれはそれほど背の高くないパーティションで囲まれた自分のブースに入ってコンピュータを起動した。しばらくぶりに起動したのでOSのアップデートやらなにやらが走り始める。それを横目に自動販売機コーナーへ行き、缶コーヒーを買ってから横山を起こしに行く。

「おい横山。来たぞ」

 横山が転がっているところへ行って声をかけると横山は寝返りを打ちながら「んあ」でも「うあ」でも「ぬあ」でもないような声を出した。床の埃が服にまとわりついていた。

「床で寝るなよ。汚いんだぞ」

「ああ、わかってる」

 横山は上半身を起こして床に座ったままデスクの上に置いてあった眼鏡を探ってかけた。

「なにかあったのか。サーバなら直したぞ」

「サーバなんか知らん。なあ横山、茅ヶ崎時夫って知ってるか?」

「誰だって?」

 一度かけた眼鏡をはずして服の裾で拭きながら横山が聞き返す。

「茅ヶ崎時夫」

「茅ヶ崎なのにトキオなのか?」

「俳優なんだが、なんだって?」

「いや茅ヶ崎は神奈川だよなと思って」

「なんの話なんだ。そんなことはいいんだ。茅ヶ崎時夫って俳優がいるんだけど知らないかと聞いてるんだ」

「聞いたことがないな。有名なのか」

「わからん。おれも昨日初めて知ったんだ」

 おれは横山のデスクのマウスを動かして、待機状態になっていたコンピュータを起こした。なにかの作業の途中なのか、文字だらけの小さいウィンドウがいくつか開いていた。

「なあ、ネット見られるか」

「ああ。ちょっと待て」

 横山は起き上がると脇によけてあった椅子を持ってきて腰かけた。

「茅ヶ崎時夫で検索してみてくれ。ちがさきは神奈川県の茅ヶ崎、ときおは時の夫」

 おれの言うままに横山がキーボードをタイプして、画面に検索結果が表示される。

「そのプロフィールを開いてみてくれ」

 画面には茅ヶ崎時夫のプロフィールと顔写真が表示された。それを見た横山はおれの顔を見上げては画面に視線を戻す、という動作を電気仕掛けのおもちゃみたいに繰り返した。

「田神いつの間に俳優になったんだ」

「あほか。おれが茅ヶ崎時夫ならなんでおまえに相談するんだ。まったく身に覚えがないんだ。おれは茅ヶ崎時夫なんて知らないし、映画に出たこともなければ、出ようと思ったことすらない。でもこいつの個人情報はそっくりおれと同じなんだ。ただ雑誌のモデルをやったり映画に出たりしてるところだけが違う」

「顔もそっくりだな」

「そっくりじゃない。同じなんだ。自撮りして比べたんだ。耳の形まで同じなんだぞ」

「ドッペルゲンガー?」

「ドッペルゲンガーって幻視だろ。こいつは実際に映画に出てるんだから幻覚じゃない。それにおまえにも見えるだろ、茅ヶ崎時夫」

「いやほら、ドッペルゲンガーって幻覚っていう意味を超えて使われるじゃんか。自分と同じ姿をしたやつってさ。それを見ちゃうと死ぬとか言われるやつ」

「いまのところおれは生きてるけどな。なんであれ、おれはこいつがいったい誰なのかを知りたいんだ」

「誰なのかって、茅ヶ崎時夫だろ」

「いやそうなんだけど。茅ヶ崎時夫ってのはいったい誰なのかっていう話だよ。これどう見てもおれだろ。おれと茅ヶ崎時夫を両方知ってたら、おれが茅ヶ崎時夫として俳優をやってると思うだろ」

「思うね。おれもそう思う。ほんとに違うのかよ」

「ほんとにおれだったらなんでおまえに相談するんだ」

「いやほら、知ってほしいから?」

「あほ。おれがそんなまどろっこしい宣伝をするかよ。おれが茅ヶ崎時夫なら大っぴらに映画の宣伝をするよ」

「まあ、そうだろうな。でもほら、副業禁止だしさ。そういうあれもあって隠してるとか」

「だから。隠してるならむしろ言わずに隠しておくだろ」

「それもそうだ。しかしなあ。これ田神じゃないのか。どう見ても同じだぞ」

 横山はおれの顔と画面に表示されている茅ヶ崎時夫の顔を何度も見比べながら言った。

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