第6話

玄関に桜の花びらが一枚入って来ていた。どこから入ってきたのかは分からない。

 そういえば、ここ数年花見をした記憶がないな。そう思う。

 流れている時間というのがあまりにも当たり前すぎて、桜が満開なのを見てもどうせ一週間後雨によって流されている。と、思っていた。また、どうも桜の泥のついたようなピンクが綺麗には思えなくそこまで特別なものには感じられなかった。

 しかし今日は違う。いつもなら汚らしく埃と同等に見える、淡いピンク色の花びらもローズナイトのような宝石だった。

 その玄関の一枚の花びらを持つ。ふわりと柔らかい新雪のような感触があった。

 去年の冬というのは、観測史上最悪と呼ばれる寒波続きの冬であった。雪が滅多に降らない瀬戸内平野ですらも白銀の世界に変えていく。私があれだけの豪雪と呼ばれるものを見たのは、家族旅行で鳥取に行った時以来であった。少なくとも地元で見る雪というのは、軽く踏んだだけで地面の黒さに負けてしまう根性なしの雪であった。それらとは違う分厚い、発泡スチロールをそのまま地面においたかのような雪が今年兵庫でも降った。

 3月になった時は流石に雪は溶けた。それでも震え上がるほどの寒波が日本列島全体に居座っており、いつになったら冬に来るそのお客様はどこかお帰りになるのか。金のない学生が喫茶店に居座り続けるような感じであった。

 ––もしかしたら今年は春が来ないかもしれない。

 ついにはニュース報道までそういうようになる。なるほど、そうかもしれない。3月に入ったというのにまだダウンを着ている人がチラホラと見受けられる。マフラーを首に巻いている人はたくさんいる。街にクリスマスツリーの1、2本立っていても別段不自然なものではない。雲はどんより、落ち着かない灰色のままである。火葬した狼煙がそのまま雲になったのではないかと思うぐらいに不気味である。

 その冬が溶け、去ったのはつい一週間ほど前だった。3月の中旬に全てを洗い流すかのような大雨が降った。それによって各地の鉄道は運休になり、道は不通になり、様々な人が避難生活を余儀なくされて。悲惨と呼ぶのに相応しい惨状となった。そしてその大雨を降らした雲は「こら、いつまでここにいるの。もうお家にかえりなさい」と言わんばかりにどこかに連れ去った。

 すると、今まで空席が開くのを待っていたかのようにすぐ様温暖な気候がやってくる。

 来るはずのない春がやってきた。

 来るはずのない採用通知が私にやってきた。

 エンペストの採用の電話が来たのは、面接から二日後、小説をビリビリに破いたあの日の翌日であった。

 見知らぬ電話番号からの着信があった。最初は内田が、いつもと違う電話番号でかけているのかと思った。しかし電話をとってみると内田と真反対の若々しい女性の声であった。誰なのか分からなかった。検討もつかない。エンペストの採用担当の……そう言われてようやく把握した。自分がそこの面接を受けたことを思い出す。

 はい、なんでしょうか。

 どうせ、不採用通知のお知らせなのだからと無愛想な声で答えてしまった。

 この度、慎重に選考を重ねた結果採用に至りましたことを報告します。

 予想外の言葉であった。採用……採用か。

 驚いた。だけど行動は冷静である。騒ぎたい。その騒ぎ方が分からなかった。ただでくの坊になるしか驚く表現がない。ここでキャーと歓喜の声をあげるのはあまりにも幼稚すぎると思ったのだ。

 今すぐ内定承諾書を書いていただきたいのですけど。

 その時は、疑問に思わなかった。だけど今考えてみたらその言葉はどうも怪しい。今すぐという言葉が何か焦っているように聞こえる。緊急性があるように思えた。しかしその時は、内田の言葉もあってかそのようなことは考えないようにしていた。

 更に驚いたのは、採用通知を受けたのは私だけでなかったということ。藤白も同じ時期に同じことを言われた。そうラインで報告を受けた。

 絵文字付きの文章で、一緒に働けるね! という文章が来る。実際に会うと物静かな彼女も文書だとうるさい。

 マジか。私の感想はこの三文字に尽きる。

 贔屓目で見ても、彼女の面接というのは上手いものとは言えなかった。二者選択をしなければいけないということになったら皆、私の方を選ぶだろう。それはどう考えても明白であった。

 その藤白が受かった。少なくとも知り合いが職場に1人いるという状態になったから安心感はある。しかし、面接で上手く喋れない藤白と受かってしまったという複雑な気持ちもまたあった。

 勤務地は北陸の方になったので、引っ越すことになる。

 今、その準備として箱に物を詰めていたのだ。

 不幸なのか、幸いなのか貧乏癖がついていた私は、一人暮らしになったとはいえ物を買う財力がなかった。その為、案外家には物が少なく段ボール数個程度で全て収まりそうである。また卒業アルバムなど永久に思い出に残りそうなものは全て自宅に保管している。そのため、こうやって引っ越しをしてみると案外懐かしいと思うようなものなどなかった。

 ここに住んで三年。部屋に何か形として残したものはない。そんな家に執着をしていたかと思うと実に馬鹿馬鹿しく、くだらない時を過ごしていたのだなということが分かる。

 はぁ。だけどこんな家でも、引っ越す時はかなり時間がかかったんだよな。

 家賃は8万ほど。それは決して、派遣社員である自分からしてみたら安いものではない。いや、正社員だったとしてもキツいものだろう。ここに住むだけで1ヶ月の家賃が、乾燥地帯の井戸から水を吸い上げるように、お金も吸い上げられてしまう。それでもこの家を選択したのは、ここが東京駅から徒歩圏内‥‥と言っても徒歩30分以上はかかるが‥‥であること、それによって将来の就職活動に対して有利に動けることなどが理由であった。しかし池堀を折角掘っても、すぐ埋めて敵を招くように、その土地の有利性というのは一切生かされることなく引っ越しをすることになってしまう。

 まだ世間的には小娘に入るであろう20代の3年間というのは非常に大きなものなのに、こうも寂寥感の微塵すらも感じさせない部屋だとは……

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