若狐と師範とイワシ水槽

 五月下旬の水曜日。源吾郎は今日も今日とて研究センターの一室で業務に勤しんでいた。戦闘訓練に備えた鍛錬も今日の分は既に終わっている。新入社員である源吾郎が行う業務は、現時点でもまだ雑務と呼んでも差し支えのないような物ばかりだった。要するに先輩たちが扱う試薬(それも妖体じんたいに悪影響のない安全なものだ)を調整し、先輩たちや上司が扱う資料をまとめてファイリングしたりする内容である。

 これらの内容は、連休前にほぼほぼマスターしていたから、今更しくじる事は無い。末っ子として年長者の行動を観察し時に模倣してきた源吾郎にしてみれば、これが仕事なのかと拍子抜けしてしまうほど簡潔で楽な内容ばかりだった。それこそ、高校で行ってきた授業や小論文の提出の方がしんどいと思えるくらいである。

 しかしながら、試薬の素で満たされたビーカーを覗き込む源吾郎の顔は物憂げだった。

 彼が憂鬱そうなのは、六月病を罹患したためでもなければ試薬づくりが上手く行くか案じている訳でもない。簡潔な業務に慣れると考え事が頭の中をよぎるようになった。その考え事こそが源吾郎の心に緊張と不安をもたらしていたのだ。



 源吾郎が悩んでいる事。それは端的に言えば次の戦闘訓練の事だった。五月ももう終わりに近づいていたが、戦闘訓練は実は一度しか開催されなかった。元々は週一、二回程度のペースで行うと言われていたにも関わらず、である。

 次回は火術の術較べを行おう。文明狐との変化術を終えた直後、萩尾丸は歌うような口調で源吾郎に告げた。制限時間内に用意した細い蝋燭にどれだけ火を灯せるかを競うのだと、あの時萩尾丸はご丁寧に教えてくれた。

 三度目の、火術の術較べを迎えるにあたり、今までの戦闘訓練とは大きく異なる事が二つあった。まず訓練の相手が前もって教えられた事だ。そして術を競う相手は、男狐ではなく女狐、もとい狐娘であるという事である。

 狐娘と言っても、少女などではなく大人の女性に近い感じがする相手だった。二本の尻尾は尻尾そのものの長さもフワフワした毛のボリュームも見事で、きちんと入念に手入れしている雰囲気が源吾郎にも伝わった。小雀の制服を着こんでいたためにお洒落な雰囲気はなりを潜めていたが、手指は言うに及ばず爪の先まできちんとケアしている所からしても、彼女のパーソナリティは窺い知れた。明らかに優秀な相手だろうと源吾郎は思ったのである。しかも妖狐の少年たちとは異なり、源吾郎に対して敵愾心を見せずフラットな様子で話しかけてくれたわけである。格の違いという物を見せつけられたような気分でもあった。

 あるいは、単純に男女の違いなのかもしれないが。男同士であればより優れた相手に対する嫉妬の念が沸き上がる事もあるだろう。しかし女性が男に嫉妬する事はむしろ珍しいのではないだろうか。

 いずれにせよ、源吾郎は次の戦闘訓練の対戦相手を明らかにされ、大いに戸惑った。源吾郎の戸惑いは、一言で口にできるような単純なものではなかった。また醜態を晒すのではないか、醜態を晒した自分を萩尾丸の部下たちが嗤うのではないか、そして……男である自分が狐娘と闘うべきなのか。他にも言葉にできない思いや考えは、源吾郎の胸の中で渦巻き沈殿していたのだった。


「どうしたの、島崎君」


 聞きなれた、柔らかい声音を前に源吾郎ははっと顔を上げた。見れば源吾郎が向かっているテーブルの向こうから紅藤が様子を窺っているではないか。彼女の、眠たげな紫の瞳は、源吾郎の顔よりもむしろテーブルの上に注がれていた。

 テーブルの上には、今源吾郎が作っている試薬で満たされたビーカーがある。ビーカーは灰色の小さな台の上に鎮座していて、ビーカーの中では白くて楕円形の短い棒がせわしなく回転している。精製水の中に入った薬品が均一に混ざるように撹拌かくはんしている最中なのだ。源吾郎に代わって仕事を行っている器具の名はスターラーというそうだ。元々文系である源吾郎は、就職してからこの器具の存在を知った。中学校の理科の実験では、薬品をかき混ぜるのはガラス棒と相場が決まっていたのだ。

 スターラーのせわしない動きによりビーカーの中は小さな渦が出来ていた。透明な液体の中、透明な粒々が見え隠れしている。紅藤はじっとそれを見つめていたが、ゆっくりと源吾郎に視線を向けた。


「……試薬づくりをお願いされたのね。だけど見たところ、少し上の空になっていたみたいね」


 紅藤の声には非難するような気配はない。けれど自分はたしなめられているのだと源吾郎は思った。もう試薬づくりはマスターしたんですよ。少しくらい上の空になっても大丈夫ですよ。源吾郎は心の中でそう思い、あまつさえそれを紅藤に告げようと思っていた。

 しかし実際には、紅藤の方が先に口を開いたのである。


「簡単な仕事だと思うかもしれないけれど、おろそかにしたり上の空で行うのはあんまり良くないわ。ちょっとした油断が、取り返しのつかない失敗を招く事だってあるのですから」

「…………」


 源吾郎は紅藤のまつ毛が揺れるのを見つめてから視線を落とした。やはり注意されたのだと源吾郎は思った。紅藤の、源吾郎に対する教育はかなり熱心な方である。そしてその内容のほとんどは、ある意味精神論に通じるものだった。一昔前に流行ったような根性論とは無論異なるのだが、妖怪として大成するにあたりを紅藤が最も重んじている事は、日頃の言動からありありと滲み出ていた。

 それは戦闘訓練のような実戦的な物だけではなく、このような雑事に対しても例外ではない。こまごまとした事をああだこうだと言われても、源吾郎は不思議と嫌気は差さなかった。紅藤の言葉と佇まい自体に、そこはかとない説得力を感じ取っていたためだ。


「……戦闘訓練の事でお悩みかしら」

「お解り、ですか」


 密かに抱える悩みを見抜かれ、源吾郎は内心驚いていた。しかし何故解ったのかと尋ねるような野暮な真似はしない。紅藤は相手の精神に干渉するような能力を使わない事は知っている。それに何より源吾郎自身は、昔から「何を考えているか解りやすい」と周囲に思われている事も知っていたためだ。

 だから素直に、紅藤の言葉を認めたのである。


「正直なところ、変化の術較べがあってから、次の術較べまで間が空いているのはありがたい所もあるにはあるんですよね。その分、僕も火術の練習を重ねる事が出来ますし。ですが、次が何時なんだろうと思いながら訓練するのも緊張が募りますし……」

「それは仕方がないわ」


 紅藤はこちらを向いているが、遠くに視線を投げかけているようだった。


「実はね、萩尾丸が抱える組織の中でちょっと片づけないといけない事が発生したみたいなの。私も詳しくは知らないけれど、それが片づくまでは島崎君の戦闘訓練もお預けじゃあないかしら」

「そんな事があったんですね」


 源吾郎は目を瞠り、驚きの表情を見せた。そう言えばこのところ萩尾丸は研究センターにほとんどやってこない。幹部であり尚且つ自身も組織を擁している事を知っていたから特に気にしていなかったが、まさかそんな事になっていたとは夢にも思っていなかった。


「その事については島崎君もそんなに心配しなくて良いのよ。あっちのごたごたが収束すれば、戦闘訓練も引き続き再開されるから。学校と違って、大人の世界ではすぐに対処しないといけないトラブルが発生して、そっちを優先しないといけないなんて事は度々あるもの」


 源吾郎は気の抜けたような返事で応じていた。紅藤はさり気なく源吾郎を子供扱いしていた。だが源吾郎はこれに反駁する事は無かった。世間的には、高校も卒業し社会人という身分を得た源吾郎は大人の仲間入りを果たしてはいるのだろう。しかしその一方で法的には未成年に相当するし、就職したからと言ってすぐに大人になるという単純な物でもない。会社で人事部を務める長兄は大卒の新入社員を「やっぱり若い子は学生気分が抜けてないなぁ」と漏らしていたのを源吾郎はふと思い出した。単に生きているだけで年齢を重ねる事はできる。しかし精神的に成熟し、大人と見做されるには相応の経験が必要という事なのだろう。年長者に囲まれて育ったはずなのに、その事を見落としていたのだと源吾郎はこの頃思うようになっていた。

 そんな事をつらつらと考えている源吾郎の心中を知ってか知らずか、紅藤はほのかな笑みを見せながら言葉を重ねる。


「萩尾丸もね、自分の部下を使って島崎君の訓練に協力するのに結構協力的なのよ? 弟弟子として気にかけているという節もあるでしょうけれど、あの子の部下たちにも良い影響があると思ってるの。小雀のグループは妖員じんいんの入れ替わりは結構頻繁にあるけれど、みんな良くも悪くも仲良しなのよね。もちろん、いさかいが無くて平和なのは良い事だと思うわ。だけど、平和すぎて緊張感がないのも良くないのよね。特に小雀は若い子がほとんどだし、転職して別の所で働く子も多いし」


 島崎君。紅藤は一度瞬きをすると源吾郎を正面から見据えた。


「水族館のイワシの群れの話はご存じかしら? 小さくて弱いイワシたちが入っている水槽には、ほぼ必ずサメやマグロが入っているの。確かに運の悪いイワシの中にはサメやマグロに食べられる個体もいるけれど、身近に脅威がいるという緊張感のお陰で、そうよ」

「要するに、僕はイワシ水槽の中のサメって事ですかね」


 要するに俺ってダシにされているのでは……そんな考えが脳裏をよぎり、無作法と知りつつも源吾郎は鼻を鳴らした。

 紅藤は源吾郎の態度を咎める事は無く、涼しい表情のままである。


「萩尾丸の部下たちの立場から見たらそういう事になるでしょうね。あの子たちの側から考えれば、九尾の末裔である島崎君と接触し、訓練と言えど力較べをするのはまたとない刺激になるのよ。年数を経た妖怪ならいざ知らず、野良妖怪と変わらない身分の若い子では大妖怪の末裔と力較べするどころか、会って話をする事さえままならないのですから」

「萩尾丸先輩が、案外部下思いである事は僕にもよく解りました」


 源吾郎は思案顔のまま呟いた。


「妖怪であれ何であれ、色々な経験を積む事こそが成長への早道なのですからね。しかしまさか、僕に接触する事そのものが、彼らにとっての成長に繋がるとは思ってもみませんでした」


 拗ねなくても良いのよ。唐突に放たれた紅藤の言葉に源吾郎は思わず目を白黒させた。自分としては平静を装って言葉を口にしたつもりだった。源吾郎は結構感情の揺らぎも大きいし、表情が出てしまう事も知っている。けれど言葉を選んで大人びたように、あるいは知的で冷静であるように演出できると無邪気に信じてもいた。


「相手との接触によってもたらされる成長は、何も一方的なものではないのよ。小雀の子たちへの影響ももちろんあるけれど、ああいう子たちに会って術較べをする事は、島崎君にも事は、私も萩尾丸たちも解っているわ――もちろん、術を覚えるとか妖怪と闘う力を得るとか、それだけじゃあないわよ。

 だって、島崎君がただ力を得て強くなる事だけが重要ならば、わざわざ身内の妖怪を使わなくても良いもの。萩尾丸の事だから、後腐れが無いように見知らぬ野良妖怪を使う事も、それこそ幻術を用意して島崎君に闘わせる事も出来るんですから」


 紅藤の言葉が終わってから数秒ばかり、源吾郎は黙って彼女の言葉を吟味していた。今まで実力を重ねるための戦闘訓練だと源吾郎は単純に思っていた。しかし実際には、幾重もの思惑が絡まっていたのだ。その事実に驚き、僅かに戸惑いもしていた。


「大丈夫よ島崎君。まだ始まったばかりですからね。色々と大変だけどきっと上手くいくわ。私からは何をどうすれば良いかっていうアドバイスは難しいけれど、いずれは悩んでいたって事も過去の事になってくれるわよ」


 紅藤はそこまで言うと足取りも軽やかに持ち場へと戻っていった。残された源吾郎はビーカーを一瞥し、スターラーのスイッチを切った。液中の粒々が完全に混ざり合い、試薬が出来ている事に気付いたためだ。 

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