幻の祭

 趙王ちょうおう石勒せきろくの支配下にある河北かほくにおいては、統治が行き届いていない事から来る治安の悪さが際立ち、領内の城市も集落もすっかり荒廃している。

 周囲を塢壁うへき(バリケード)で囲んで自衛せねばならないような集落も多く、農耕もほとんどが停滞していた。

 こうした状況は支配者である石勒にとっても悩みの種であるが、社会体制そのものが崩壊し、互いに憎み合う民族同士が雑多に入り混じってしまった今の華北においては、新たな社会の構築を手探りで模索している段階にある。一朝一夕で解決できるものではない。


 とある夜、石勒配下の将軍である郭黒略かくこくりゃくが、数人の手勢と共に立ち寄ったその村では、賑やかな村祭りが行われていた。

 こんなご時世でも祭りを行っている事に惹かれ、ついつい立ち寄って酒を飲み始めたという事である。

 集落中の軒先に下げられた、いくつもの灯篭が夜を明るく照らし、その中を幼い子供が駆けまわっている。皆が明るい笑顔で祭りを楽しんでいた。

 思い返してみれば、村の周囲には塢壁が見られない。首都である襄国じょうこくと大都市であるぎょうの周辺においては多少なり安定していた事もあり、農耕を続けていられる村も点在していたのかと、感慨もひとしおの郭黒略であった。


 ふと尿意を催した事に加え、そんな集落の様子をひとりで観て回りたいと思い至った郭黒略は、律儀に同行しようとしてくる部下たちに「ゆっくり飲んでろ」と言って一人でその場を離れた。

 このように平和な村で、しかも自国の首都に近い内地なのである。大勢の敵兵に囲まれるような事態もまずなかろう。何よりも、かつては「石勒せきろく十八騎じゅうはっき」の一人に数えられた将なのだ。四十路に差し掛かったとはいえ、少人数の暴漢程度なら敵では無いという自負もある。

 灯篭に明るく照らされた表通りから抜け、路地裏で用を足した郭黒略は、そのまま村をぐるりと歩き回る。乱世とは思えぬほどに平和である。


 ふと路地から人影が飛び出し、郭黒略にぶつかってきた。咄嗟に抱き止めて無事を確認する彼であったが、相手の容貌に思わず見とれてしまう。

 恐らくは二十代と思われる娘で、このような小さな村には似つかわしくない絹の襦裙じゅくん(ツーピースドレス)を纏っている。目鼻立ちも整っており、何よりも目を引くのがその髪だ。収穫前の麦畑を思わせる透き通るような金色こんじきの髪が腰まで伸びている。よくかれた様子だと見え、ふわりと風に揺れていた。


「あら、おおきにね」


 にこやかな笑顔を見せた金髪の娘は、不思議な訛りで礼を言って来た。おそらくは西方の訛りなのだろうか。となれば胡族こぞく(騎馬民族)の娘か。

 郭黒略は安心させるように笑みを浮かべる。


「いや、怪我が無いようで何より」

「失礼ついでと言うんはアレやけど、何か食べ物はあらへん?」


 こんな時代では、食べる物に困っている人は珍しくない。しかしこんな賑やかな村祭りだというのに、村の者から食べ物のひとつも分けてもらえないのだろうか。

 この奇異な外見から差別を受けているのかと思うのだが、それだけに、このような農村には不釣り合いな、その小綺麗な襦裙に目が向いた。男を客に取る娼妓しょうぎだとするならば納得も行く。

 胡族支配域の村で生きている以上、胡人と言う理由だけで表立って差別をする事は憚られるが、大なり小なり儒教倫理のある漢人の村であれば、貞操を無視した娼妓という職業が忌み嫌われるのも道理である。

 そこまで思い至り、目の前の娘が可哀想に思えてきた郭黒略は、これも人助けと自分に言い聞かせ、客になってやろうと思った。曲がりなりにも将軍などをやっている以上、そのくらいの金は充分に出せるのだから。


「こんな表では人目に付こう。そなたの家はどこかな?」

「あら……、それやったら……」


 金髪の娘は笑みを浮かべて郭黒略の手を引いた。向かった先は、やはり村外れの庵である。明るい灯篭に照らされている村とは対照的に、庵の向こうは夜の闇が広がっていて、周囲からは虫たちの大合唱が響いている。

 土を塗り固めて作った壁に、木の板で作った扉、茅葺かやぶきの屋根が備えられた、小さな庵である。

 庵の中は、やはり粗末な寝所と、木で組んだ古びた机、その上に乗る燭台があるだけである。予想通りの貧しい暮らしなのだと得心した郭黒略は、独り頷いた。

 事が済んだら代金を弾んでやろうと思った郭黒略は、そのまま娘を寝所に押し倒す。娘は突然の事に一瞬だけ戸惑うが、すぐに笑みを浮かべた。

 その様子に郭黒略は笑みを返すと、娘の体に顔を埋めるように抱き着き、互いの体をまさぐり合った。


 そうして間もなくの事。そろそろかと郭黒略が思った矢先、突如として庵の扉が蹴破られた。


「喝ァァァアアアアッ!!」


 大地を揺るがさんばかりの一喝が響き渡り、それに驚いた娘が郭黒略を押しのけたかと思うと、その金色の髪と、絹の襦裙を風になびかせ、扉と反対側の窓から飛び出していった。まるで夜空を飛んでいくように……。いや、というかどう見ても飛んでいた。

 寝所に一人取り残されて唖然としている半裸の郭黒略だったが、扉から飛び込んできたのが、白髭の老爺ろうやである事に気が付いた。


「あれ、仏図澄ぶっとちょう大師、何でここに……?」

「いやな、郭公かくこうがまた危ない気がしたものでな」


 郭黒略は将軍になってから、いにしえの戦国四君よろしく、自分の屋敷に食客を集めていたのだが、この西域から来た仏僧もその一人であった。

 かれこれ十数年、郭黒略の膝元にいた仏図澄であったが、将軍として各地を転戦する郭黒略の危機を察しては、ある時はあらかじめ助言を与え、ある時は祈祷によって遠隔で導き、そしてまたある時は、こうして直接乗り込んできて危機から救い出すという事を繰り返していたのである。

 そんな仏図澄が乗り込んできた事と、先ほどの金髪の娘が夜空を飛んで逃げ去った事から鑑みて、ようやく状況を理解した郭黒略は、改めて目の前の老爺に確認する。


「先ほどの娘は、やはり人間では無かったって事ですかな……?」

「うむ、あれは狐じゃな」

「あー、狐か……。だから金色の髪……。道理で毛深いと思った……」

「幻術を使う狐とは、中々のものじゃぞ。ほれ、表を見てみよ」


 そう言われて庵の扉から顔を出せば、そこは四方に夜の闇が広がっており、村祭りの灯篭も喧騒も消え去っていた。彼と同行した兵士たちの物と思われる松明が、村の中に点々と見えるだけである。

 この村は、村人などいない廃墟だったのだ。そこに気が付いた途端、郭黒略は背筋が寒くなった。


「ところで郭公。そなたは既に嫁がおったと思ったが」


 そこに至って、郭黒略の服の乱れに視線を送る仏図澄と、ギクリと身を震わせた郭黒略。

 仏図澄に幾度となく助けられて以来、郭黒略もまた仏門の教えに傾倒しており、出家こそしていないが、いわゆる在家ざいけ信者として五戒ごかいを守る事を誓っていたのである。


「今一度、五戒をそらんじよ」


 白髭の仏僧は、その穏やかな笑顔を崩さぬまま、しかし有無を言わせぬ圧を以って、そう言った。

 郭黒略は乱れた衣服を直しつつ、引きつった笑顔で答える。


「ひとつ、不偸盗ふちゅうとう。人の物を盗んではならぬ」

「うむ」

「ひとつ、不妄語ふもうご。嘘偽りを言ってはならぬ」

「うむ」

「ひとつ、不殺生ふせっしょう。殺してはならぬ……、みだりに」

「このような乱世であるし、そなたは将であるゆえな。必要のない殺生をしておらぬならよしとしよう」

「ひとつ、不飲酒ふいんしゅ……。酒を……、飲み過ぎてはならぬ……?」

「本来は飲む事自体を禁じておるが……、在家であるゆえな、よしとしよう」

「ひとつ、ふ……、不……」


 言葉を詰まらせた郭黒略が、そのまま苦笑を零すと、仏図澄もまた笑顔を返した。


「喝ァァァアアアッ!!」


 老爺の鉄拳が郭黒略の脳天に振り下ろされたのであった。

 ちなみに最後のひとつは不邪淫ふじゃいん。不道徳な性行為を行ってはならぬ、である。





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