第2話「心月の狗」

元子さんが言う程、民宿はそれ程ボロ屋ではなかった。

確かに古い木造であちこち傷んで来てはいるが、埃も垢もない、こじんまりとはしているがよく手が行き届いている雰囲気のある良い宿だ。

風呂も露天風呂とはいかないが、天然掛け流しの湯は旅の疲れを癒し、何より地元の山菜と魚をメインにした夕食は、その辺の旅館にも負けない程絶品だった。

椿なんかお代わり三杯目で元子さんに呆れられ、俺が太るぞとつっ込むと、勿論素足で躊躇なく蹴られた。

凶暴な教え子である。


あらかたの事を済ませ、俺と椿はまた後で訪れると言った命の恩人、ハクを部屋で待っていた。


「そう言えば椿、お前あのハクって子と何を話したんだ?」


「ああ、教授情けない顔して気絶してましたもんね」


「情けないは余計だ、ふん」


テーブルの湯呑みを手に取りわざと音を立ててすする。


「まあでも、私を庇ってくれた時はその……カッコよかったかなあって……」


「ん?」


「ああいや!なな、なんでもないです!あははは……そうそうハクちゃんの事ですよね?」


「あ、ああ」


「あの時私が教授って呼んだでしょ?」


「ああ……気を失う瞬間、確かに呼んでたな」


「そしたらそのハクちゃんが、そいつの名前教授って言うのか?って聞いてきたんですよ」


「俺の名前がか?」


「そうなんです。最初こんな時に冗談なのかなって思ったんですけど、どうも本気で聞いてきてたみたいなので、教授っていうのは学校の先生みたいなものだよって説明してあげたんですよ。そしたら先生って言葉に凄く反応して、字は読めるのか!?字は教えたりするのか!?って興奮気味に聞いてきたんです」


「興奮気味に?」


「ええ、それはもう大興奮でしたよ。で、ハクちゃんがそのまま教授を担ぎ出して安全な場所まで送ってやるって言うんで、私がなにかお礼をしたいって伝えたら……ううん……」


「どうした?」


そこまで言って椿は神妙な顔で唸り出した。


「それがですよ、ハクちゃん私に何て言ったと思います?」


椿が俺の鼻先まで顔を近付け鼻息荒く聞いてきた。


「お前が興奮してどうする……何て言ってきたんだ?」


「そいつが起きたら字を教えてくれ!」


そう言って椿は俺に向かって人差し指を突き付けてきた。


「お、俺が!?ハクって子に字を?」


驚きの声をあげると、椿はそれに大きく頷く。


その時だった。


──ドタドタドタドタッ


階下から階段を駆け上がる足音が迫ってきたかと思うと、


──ガラッ!


木造の扉が勢い良く開かれた、そして、


「先生!字を教えてくれ!!」


「えっ……ええっ!?」


そこには、昼間俺達を熊から助けてくれたあの少女、珀明の姿があった。




──ゴーンッ


古めかしい時計の針が、丁度真上を指しながら重い鐘の音を響かせた。


時刻は午前零時。


窓の外には、真っ暗な夜闇に大きな月が顔を出している。


「すぅぅ……おかわりぃ……」


なぜか俺の布団の上で寝言を呟く椿。

その横には、先程からテーブルに置かれたノートに、必死にかじりつくようにして鉛筆を走らせる少女が一人。


珀明だ。


何でこうなっているのか、自分でも未だに現状が把握出来ていない。

いや、分かってはいるがなぜこうなったと疑問だらけなのだ。


俺達は昼間、彼女に命を救われた。

そのお礼に、なぜか彼女は俺に字を教えろと言ってきた。

勿論彼女は命の恩人だ。

断るわけなどない。

ないのだが……なぜ俺は彼女に平仮名を懇切丁寧に教えているのか。


確かにあどけなさはあるものの、少なくとも彼女の歳は十七、十八といったところ。

そんな歳の子が字を教えて欲しいというのは明らかにおかしい。

この国には義務教育というものがあるのだ。

文字なんて今時小学校に上がる前に習うものだろう。


「なあ先生、これであってるか?」


ハクはノートを手に取ると、それを俺の前に拡げ見せてきた。


「あ、ああ、あってるよ」


蛇がのたうつ様な文字で書かれてはいるが、最初に教えた頃よりは上手くなっている。

たった三時間でここまで覚えられれば、文字の習得に時間は掛からなそうだ。

と言ってもあくまで平仮名だけだが……。


「そ、そうか」


嬉しそうに言うハクだが、何か様子が変だ。

もしかして……褒めてもらいたいのか?


「あっ……おほんっ……うん、良くできてる、凄いな珀明ちゃんは」


「うん!あっハクでいいぞ先生!」


ハクは強く返事を返すと、満足そうに顔をほころばせた。


こうして見ると本当に普通の女の子だ。

だが、俺が昼間見たハクは明らかに人ならざるものだった。

常識的に考えても成立しない異常さが、俺の脳裏に焼き付いて離れない。


彼女は一体……。


「なあ先生」


「えっ?ああ、なんだ?」


「明日も来ていいか?」


「明日?あ、ああ、午前中は調査があるけど、午後になったらここに戻るから、それからなら大丈夫だが、」


「そうか!良かった……また明日も教えてくれ」


「あ、ああ、分かった。帰るのか?」


「うん」


「途中まで送って行こう」


「いいよ、森の中暗いし、夜は危険だ」


ハクなら大丈夫なのかと聞きたかったがやめておいた。


「森にははいらないよ、夜風にちょっと当たりたいし、本当に途中までだ」


そうやって苦笑いをこぼすと、ハクは、


「分かった」


と言って頷いた。


「あれえ、帰るのハクちゃん?」


椿だ。寝惚けた声で目を擦りながらハクを見ている。


「ああ、また明日来るぞ」


「そっかあ、私まだハクちゃんと遊んでないのにい……あっそうだ」


「?」


椿が隅に置いていたポシェットの中を漁りだした。


「あったあった、ハクちゃん後ろ向いて」


そう言ってポシェットから何やら赤い紐のような物を取り出す。


「ん?こうか?」


ハクが言われた通り後ろを向くと、椿は慣れた手つきでハクの長い髪をまとめあげ、赤い紐で結び始めた。


「はい、どうだ!」


言いながら椿は俺に向かって大袈裟に手を広げてきた。


「おおっ」


どうやら赤い紐はリボンだったようだ。

ハクの絹糸の様に綺麗な白髪に、赤いリボンはよく映えている。


「これ……いいな!」


ハクは気に入ったのか、頭を振ってリボンをヒラヒラさせ嬉しそうに笑っている。


「良かった気に入ってもら……えて……」


そこまで言うと、椿は電池が切れた玩具のように、またもや布団の上に崩れ落ちた。


「つ、椿?」


心配そうにハクが椿の顔を覗き込む。


「大丈夫だよ、疲れて寝てるだけだ」


そう言ってハクにクスリと笑って見せた。


俺は椿に掛け布団を被せ部屋の明かりを落とすと、ハクと共に宿を出た。

街灯や民家のあかりもなく、あるのは月明かりだけ。

車や人の声すらない静寂な田舎道を、俺とハクは並んで歩いた。


「なあハク」


「何だ先生?」


「昼間俺達を助けてくれた時……あれは一体……?」


「あれって?」


「いや、ほら、熊から守ってくれただろ?」


「ああ、そうだな」


「そうだなって、いや普通は人間が相手にできるもんじゃないだろ?ましてやハクみたいな女の子が」


「そうなのか?まあ俺は強いしな」


「いや、そうじゃなくてだな……」


ダメだ、話が噛み合わない。

ハクにとっては自分の強さが基準なのだろう。


「ほらアレだ、熊と戦っていた時遠吠えみたいなのあげてただろ?あれだって」


「この山も熊のやつほとんどいなくなっちゃったしな、できれば傷付けたくなかったんだ、だから威嚇して追い返した」


「い、威嚇って……」


ハクは当たり前のように言ってのける。


困った。

これじゃ何を聞いても埒が明かない気がする。

質問を変えた方がいいかもしれない。


「そう言えばハクは何で森に住んでるんだ?家族は?家はあるのか?」


「家はあるぞ、でも家族はいない」


「いない?いないって一緒に暮らしてないのか?学校とか」


「学校!?」


突然ハクの目が爛々と輝いた様に見えた。

学校という単語に反応したのだろうか。


「あ、ああ、学校通ってないのか?」


「この山の麓に小さな学校があるんだ。そこで小さい子供たちが先生に勉強を教わってた」


「麓に……?」


麓に学校なんてあっだろうか……?


「うん、俺、毎日通ってたんだ、先生の言ってること難しかったけど、そこで色々学んだんだ……字は教えて貰えなかったけど」


通っている?でも字は教えて貰えないって、一体どんな教育してるんだその学校。


「そ、それで両親は?」


釈然としないまま、俺は質問を変えた。


「お父さんは死んだ。お母さんは一度会ったたきりだ……」


「会った事が?今は?離れて暮らしてるのか?」


「うん……」


ハクの表情に僅かに影が落ちた。

離れて暮らしているのなら寂しいだろう。

不躾な質問だったようだ。


「ああ、す、すまん変な事ばかり聞いて!あ、明日も一緒に勉強しような!」


「ぷっ……あはははは」


吹きこぼすようにお腹を抱え笑い出すハク。


「えっ?な、何?」


「先生は変な奴だな、何でそこで謝るんだ?」


「いや、何でってそりゃ、変な質問しちゃったしな……」


「変な質問?ううん……まあいいや、ここまででいいぞ先生」


気が付くと、周りに民家はなく、目の前には鬱蒼とした森が広がっていた。


「あ、ああ、一人で大丈夫か?」


「うん、慣れてるからな。先生も気を付けて帰れ」


「お、おう……」


年下の女の子にタメ口で話をされるのは如何なものかとも思ったが、なぜだかそれがハクだと嫌に感じなかった。

むしろ純粋なハクの気持ちが表れているようで、俺には心地よくすら感じられた。


ハクは俺に向かって二三度手を振ると、森の方へと駆け出し、暗闇に吸い込まれるようにして消えていった。


「本当に大丈夫か……?」


こんな時間にこの暗さで、あんな年頃の女の子が一人で……そう考えるだけでも寒気がするものだが、やはり俺にはあの昼間見たハクの姿が目に焼き付いて離れない。


あれは……本当に人間なのか……。


そんな馬鹿げた妄想ですら、現実味を帯びてくる。

そう思うと、今はこの真っ暗闇の森よりも、ハクの得体の知れない何かに、俺は少しだけ恐怖を感じていた。


顔を上げると、眩い光に軽い眩暈を覚えた。

雲一つない、夜空に浮かぶ満点の星々。

そして澄み切った夜空に冴え冴えとした心月が、妖しく煌々と輝いていた。










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