長門有希の憂鬱Ⅰ

のまど

プロローグ

 窓の外はくもっていた。

 今年ももうすぐクリスマスだねー、などとクラスの女子がのたまっているのを、俺はぼんやりとながめながら次の授業がはじまるのを待っていた。高校に入って二度目の文化祭を終え、やっと落ち着いたとため息をついたばかりだ。そういやハルヒのやつ、今年もやるんだろうなクリパ。また俺にトナカイやらせるつもりじゃあるまいな。


 長門ながと暴走ぼうそうしたりSOS団が消えちまったり、朝倉あさくらに二度もおそわれたり、去年はいろいろあった。俺も長門ながとには気を配るようになった。あいつは感情が希薄きはくなわけじゃなくて、実は表に出ないだけなんだと知ってからは。おかげさまで落ち着いてるようだが。

 振り向いて後ろの席にいるやつに、今年のクリパはやっぱ部室でやるのか、とたずねようとしたらいきなり首根くびねっこをつかまれた。

「キョン、あんた進学するの?」

 いきなりなにを言うかと思ったら。

「そりゃあ大学行きたいさ」

「どこ受けるの?」

「う……」俺の成績から言ってあまり贅沢ぜいたくはいえない。国立はまず無理だろう。


 自宅から通える距離でそれほどレベルの高くない県立か、多少金かかっても親をおがたおして私立に行くか。それなら浪人ろうにんして予備校よびこう通って国立って手もなくはないよな……。

「もう二学期終わるんだし、まじめに考えなさいよね」

 言われなくても分かってるさハルヒさん。俺だってもっと遊びたいもん。いかんせん、俺の学力が。

「あんた、あたしと同じ大学受けなさい」

「な、何を言い出すんだ」

「だってあんたがいないとサークルでSOS団やれないじゃない」

 大学行ってまでやる気かこの女は。

「無理だ。俺の成績は知ってるだろ」

「今から必死で勉強しなさい。大学受験なんてね、日ごろのテストの延長えんちょうでしかないのよ」

 そりゃお前はいつでも成績が上位レベルにいるからそう言えるだろうが。

「別に同じ大学じゃなくったってSOS団は続けられるだろう」

「あんただけ学外がくがい部員ぶいんなんてことになったらシメシがつかないもの」

「シメシったってなぁお前……ヤーさまじゃあるまいし」ある意味ヤクザよりこわい集団だが。

 だがまあハルヒがそこまで言うなら受けてやってもいい。こいつが望めばなんでもかなう、俺もそれにあやかって国立合格……。いかんいかん、なんて他力本願たりきほんがんなことを考えてるんだ俺は。


 それにしても、今が受験真っ最中まっさいちゅう朝比奈あさひなさんはどこを受けるんだろう。もしかしたら先回りしてハルヒの志望校に入学するかもしれない。長門ながとはどこにでも入れそうだし、いちいち試験を受けなくても情報操作じょうほうそうさとやらでもぐり込めそうだ。

「やれやれ。またじゅくにでも通うか」

 じゅくという言葉を聞いてハルヒが耳ピクとなった。

「あんた、じゅく佐々木ささきさんとやらに会うつもりじゃないでしょうね」

 そんな偶然ぐうぜん起らないって。行くなら学習塾がくしゅうじゅくけんの予備校だろう。放課後ほうかごに部活が解散かいさんしてそれからじゅくに行ってるとすると、帰りは九時とかになっちまうな。これじゃ体がもたん。せめて土日は休ませてもらいたいものだが、たしてハルヒがOKするかどうか。

 などと思案しあんにふけっている俺を我に返らせたのは、古泉こいずみからのメールだった。

 ── 部活が引けた後、涼宮すずみやさんには内緒ないしょでちょっと集まってもらえませんか。


 この時期になにかハプニングが起るとしたら、それは最悪の事態じたいになる。俺にはそんな暗示あんじめいたものがあった。



 放課後ほうかご、その日のSOS団はこれといって何をするでもなく、微妙びみょう寒々さむざむしい部屋で電気ストーブだけがいとおしく皆を暖めようとしている横で、俺は古泉こいずみ将棋しょうぎり広げていた。古泉こいずみが何か事件らしきものを持ち込んだことは知っているはずだが、長門ながと朝比奈あさひなさんも、何のアイコンタクトすらしない。たまにお茶をすする以外は、ただのんびりと時が過ぎるのを待っているだけだった。どうせ事件が起きるときは起きるんだ、それならばせめて何かが起こるまではシアワセに過ごそうよとでも言いたげに。天地がひっくり返るようなことがあっても、あっそ……だろうなこいつらは。

「うーんっ。じゃ、そろそろ帰るわね」

 ハルヒが背伸せのびをするのと、長門ながとが本を閉じるのとが同時だった。朝比奈あさひなさんは着替えるからと言ってそのまま残った。俺は一旦いったん下駄箱げたばこまで行って、ハルヒが先に帰るのを見届けてから部室にまた戻った。


不可解ふかかい現象げんしょうが起こりました」

 部室に入るなり古泉こいずみが右の眉毛まゆげを上げてみせた。三人ともそろっている。

「これです」

 古泉こいずみが手にしたものは一冊の文庫本だった。書店でよく見かけるライトノベルのようだが。書店の一角にずらりと並んだその周りだけみょうに空気がピンク色っぽくて、たまに女子学生がれていたりして、半径はんけい三メートルが異空間化いくうかんかしてるような、そのライトノベルだ。近頃じゃボーイズラブなんてジャンルの本が書店の棚を侵食しんしょくしつつある。

「これがどうかしたのか」

 古泉こいずみは軽くため息をついて「そのタイトルをよく見てください」と言った。

涼宮すずみやハルヒの……?」

「なんですかこれ?涼宮すずみやさんって作家になったんですかぁ?」朝比奈あさひなさんが尋ねた。

「いいえ、知る限り、涼宮すずみやさんがそのような本を執筆しっぴつしたという事実はありません」

「何が書いてあるんだ?」

「まだ数ページしか読んでないんですが、かいつまんで言えば我々SOS団、およびその周辺で起ったエピソードです。気になるのはあなたの一人称いちにんしょう視点してんで書かれていることですが」

「まさか、俺じゃない。俺が作家志望じゃないことはいつぞやの文芸部ぶんげいぶ機関誌きかんしを読んで知ってるだろう」

「分かっていますよ」古泉こいずみが笑った。


 俺はパラパラとページをめくってみた。

「待ってください。内容はまだ読まないほうがいいかと。これからご説明します」

涼宮すずみやハルヒの……」俺はまた声に出して言った。

 ハルヒが憂鬱ゆううつになると忙しくなるのは古泉こいずみファミリーのほうであって、まあ世界が消滅してしまわなければ俺はかまわないわけで、どちらかというとハルヒが上機嫌じょうきげんなときのほうが俺は苦労するわけだが。


「これ本屋に売ってるのか」

「いいえ、書店にはありません」

「あたしもたまに読むんですけど……これは見たことがないです」朝比奈あさひなさん、あなたもラノベ読むんですか。

「昨日僕の家の郵便受けに届けられていたのです。宛名あてなも差出人も書いてありませんでした」

「つまり直接手で届けたってことか」

「そうです」

「この、タニカワリュウって誰なんだ」

「たにがわ、ながる、です。現在のところ不明です。機関きかんを通じて角川書店かどかわしょてんにも問い合わせてみたんですが、そのような本が出版されたことはないとのこと。出版された本をナンバリングしているISBNも、まったく別のものだそうです」

「ペンネームじゃないのか」

「ええ、たぶんそうだと思います。兵庫ひょうご県在住と書いてはありますが、実在するかどうかは不明です」

「どっかの同人どうじん自費出版じひしゅっぱんしたんだろう」

角川書店かどかわしょてんの名前でですか?ありえません。同人誌どうじんしサークルは自分たちのブランドをおもんじます。パロディを出すにしても出版社の名前をかたったりはしません」

「お前やけに詳しいな」

「僕もやってますから」

 そうだったのか。俺はリュックを背負しょってコミケに押しかけている古泉こいずみをちょっとだけ想像した。


「ハルヒ本人に聞いてみればいいいじゃないか」

「それもまた困るのです。いいですか、この本が存在することによって二つのことが懸念けねんされます。一つ目は、SOS団がちくいち監視かんしされている。それもあなたの視点で。二つ目は、これが涼宮すずみやさんの目にとまると宇宙規模うちゅうきぼのパラドックスが発生する可能性がある。先ほど読まない方がいいと言ったのは二つ目の理由です。この本に書いてあることが事実だとして、涼宮すずみやさんのことを記した本を涼宮すずみやさん本人が読むことになったら、あるいはあなた自身が読むことになったら、事実が上書きされるか未来が変わる可能性があります。この本には、朝比奈あさひなさん言うところの、禁則事項きんそくじこう山盛やまもり状態にあるかもしれないということです」

「読んだお前自身は平気なのか」

「まだ全部は読んでいないので分かりませんが、今のところ平気みたいです」


長門ながとはこの本をどう思う?」俺は窓辺に座る文学少女に水を向けた。

 長門ながとはすっと椅子から立ち上がって文庫本を手にした。

「ライトノベルは……」ためすつがめすついじっていたが、やがて口を開いた。

「……趣味に合わない」いやそういうことじゃなくて。

「この本を構成する炭素、および鉄その他の原子構造げんしこうぞう位相いそうがズレている」

 えーと、つまり?

「電子の波動関数はどうかんすうがこの世界の時間とズレている」それ、物理の授業で出てきたっけ?

「つまりこれはこの世界のモノじゃないということですか」古泉こいずみがフォローした。

「そう」

位相いそうがずれているにもかかわらず、これがこの世界で見えているということは」

「この世界で物理的に見えるためだけのなんらかの変換へんかん細工さいくがされている」

「まったく不可思議ふかしぎです。情報統合思念体じょうほうとうごうしねんたいはなんと言っていますか」

「今報告した……ラノベはよく分からないと言っている」

 いつもえらそうにしているくせに役に立たんやつらだ。


「鉛筆……かして」

 鉛筆?俺はペン立てにあったやつを渡した。長門ながとはカッターでそれを丁寧ていねいに削り、しんだけ残した。やがてそのしんを刃で削いで粉々にした。

「何をしてる?」

指紋しもんを取る」

 鉛筆のしんの粉を本の表紙に均等きんとうき、窓を開けてふっと吹いた。本の表紙にうっすらと人の指の形が点在していた。俺と古泉こいずみが触った指紋しもんもそこにあるのだろう。

 それから長門ながとは無言で部屋から出てゆき、どこにあったのか幅広のセロテープを持っていた。テープを切って本の表面に軽く貼り、ゆっくりとはがした。それを白い紙に貼り付け、古泉こいずみに渡した。

「調べて」

「なるほど。ちょっとした探偵気分ですね。後で多丸たまるに問い合わせてみます」古泉こいずみはそう言ってカバンに入れた。

「俺が触った指紋しもんもあるんじゃないか」

「それは判別はんべつできます。機関きかんのデータベースにはあなたの情報もありますから。あなたの七代前の先祖のことも分かりますよ」

 俺の個人情報がそんなところで使いまわされていたなんて恐ろしい。

 古泉こいずみはカラカラと笑った。「大丈夫ですよ。悪用はしません」


朝比奈あさひなさん、この本は俺たちの未来となにかかかわりがあるんでしょうか」

 朝比奈あさひなさんは数秒間、遠くを見るまなざしをした。

「ごめんなさい。分かりません……。ひとつだけ、この本は未来には存在しない、みたいです」

「なんですって?」古泉こいずみが声を上げ、長門ながとが目を上げた。

 どういうことだろう?俺だけピンと来てない。

「つまり、今から朝比奈あさひなさんの知る未来までの間にこの本は消えてしまうということでしょうか」

「この時間軸じかんじくの延長上には……と言ったほうが正しいかもしれません。ええと、それから先は禁則事項きんそくじこうみたいです」

「ほかのどの時間平面上にも存在しない」長門ながとが口を開いた。


 沈黙ちんもくを持って謎を表現するなら、今この部室を充たしている空気がそうだろう。四人とも黙っていた。

「こうは考えられませんか。この本は今、確かに我々の時空じくうに存在する。近い未来にこの本は隠蔽いんぺいされ、我々の記憶からも消える。存在するかどうかは観測者かんそくしゃがいてはじめて分かることですから。ゆえに朝比奈あさひなさんの知る未来には存在しない」

「それも禁則事項きんそくじこうみたいです。ちょっと待ってください……、この本に関する禁則事項きんそくじこうがどんどん増えているみたい。アラートです」

「今、その本に関する情報が思念体において禁則事項きんそくじこうに入った」長門ながとも言い放った。


 ヤバい。これはなにかヤバいことが起る前触れだぞ。俺の中の何かがそうささやいていた。

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