蜉蝣


本州西端の軍都、那賀斗の南、須鶯すおう宿。悪兵衛ら別動隊はスバルノミコト率いる弥者の工作隊と激しい戦闘を繰り広げた。時はその決戦の二日前。

北上した街道沿いの幡殖はたぶえ宿。不知火本隊は、侵攻してきた弥者、狗族との全面的な戦争に突入する。そのさなか参謀、灰音章雪は伊庭に進言する。

同時多発的に拝殺が行われるのであれば、那賀斗に向かう幕僚が危険である。

伊庭は灰音の言を重く見、戦況の報告と幕僚の護衛を玉杉桔梗中尉に命じた。

駐留していた暁輝の兵員輸送用鸞、「忠右エ門」に搭乗した桔梗は、一路東京へ。

先行して護衛計画を立てている風祭玲大佐と合流を目指す。


桜が満開の街道筋、道を行き交う人々が轟音と共に

一筋の白い軌跡を残して飛翔する鸞を見上げた。



蜉蝣かげろう





東京、番町の中央西に位置する玄嶽本部。

不知火副長の風祭玲はここ数日、那賀斗までの旅程での護衛計画に追われていた。

桔梗の到着の報をうけ、本隊の異変を察知する。

蒼白な表情の桔梗を見、その予感の的中を感じた。


「それしきの敵軍勢、御頭率いる我々の敵ではない。今は章雪の策の上敗走しているよう見せかけているが、必ず勝つ。」

報告を聞き終えた風祭の泰然自若に、桔梗の表情も幾分和らいだ。

「悪兵衛達はどうなるでしょうか。」

「弥者のこれ迄の攻勢を鑑みるに、幡殖にそれ程の規模で戦闘を行うのであれば須鶯宿は小規模であろう。悪兵衛達が一暴れして収まる。」

「幡殖と同規模の戦闘が起きた場合はいかが相成りますか。」

 「環太積が間に合わねば、逃げ帰ってくる。バルザックは勇猛だが決して蛮勇ではない。井上もついている。」

 風祭にここまでの話を聞き、ようやく桔梗から安堵の笑顔が漏れる。風祭は苦笑しつつ、湯気をあげる茶を飲んだ。

 

「暁の搭乗者は誰だ。」

「斎藤通義少佐です。」

「斎藤。以前世話になったな。鸞は? 」

「忠右エ門です。」

桔梗から鸞の名称を聞いた風祭は顔色を変える。

「まずい。誰か。」

玄嶽の瑞獣番を呼び、立ち上がる。

桔梗はわけがわからない。

緊急という事で、なにか不手際があったかと恐る恐る現れた瑞獣番に、風祭は自らの麒麟の移動を頼む。

「玲さん、どうしたのですか?忠右エ門が何か……。」

困り顔の風祭は桔梗を連れ、急ぎ暁の発着場へと向かった。

 

*

 

暁隊士の斎藤は年は二十九、短髪に壮健な身体、朗らかな笑顔を見せて敬礼した。

「風祭大佐。御無沙汰しております。」

答礼を返した風祭は瑞獣舎を見、小声で斎藤に告げる。

「忠右エ門は。」

「舎の方で休養中です。昼寝ですね。いかがなされた? 」

唯ならぬ風祭の表情を斎藤はいぶかしむ。

「モウカで来ている。」

「それは」

斎藤も顔色を変えた。

「モウカ号はいずこに? すぐに距離を。」

「瑞獣番に指示を出した。崎ヶ谷に移動させている。」

「左様ですか。……ならば大丈夫でありましょう。」

斎藤は胸を撫で下ろしている。

「副長、一体どうしたのですか?」

落ち着いた二人の様子をみて、桔梗が問う。

気まずい表情の風祭の代わりに斎藤が答える。

「以前任務で大佐に忠右エ門が一週間程同行させていただいたのだが、 その際、

忠右エ門が非常に大佐に懐いてな。」

「あの気難しい子が? 」

「うむ。それはもう仔のように大佐を慕った。それは良いのだが任務終了の際、モウカ号が大佐と共にいるのに嫉妬してなあ。」

困り顔の斎藤と風祭に桔梗は笑いを堪え切れない。

「忠右エ門が癇癪を起こして暴れてな。あれは、水沢基地でしたか。」

「うむ。瑞獣舎を擁する暁輝の駐屯地を荒らしてしまった。」

「……それは、大変でしたね。」

口許を手で覆い、笑いを噛み殺している桔梗を恨めしく両名は見た。 





柔らかな春の風に桜の花が揺れている。

中庭の小振りな樹の根元によく手入れされた沈丁花が咲き、可愛らしい紋白蝶が

ひらひらと舞っている。穏やかな風景に反して、庭に面した作議の間から刺々しい声が漏れる。

「馬鹿な。観閲式を取りやめよと申すか。」

「御意。総合的に見て、ですが。」

「それは少将、論点に相違があろう。いかに安全に行うかという議である。」

「その安全をしかと約定できませぬ。」


観閲式の壮行、もしくは開催自体に異を唱えている男は、狩羅光臣かるらみつおみ少将。

暁輝隊長である。

真紅の陣羽織に灰色の総髪、厳しい面差しに、眼下から顎にかけて黒ずんだ薄紫の異様な紋様がある。年齢は四十八と、本閥隊長の中ではもっとも若い。

それに対し声を荒げているのは、幕僚付きの官僚達であった。将軍と老中と呼ばれる

上級幕僚の護衛計画を立てているのはその者達と本閥主将である。

統合観閲式の挙行が決まり、この一月はその綿密な計画と施行に追われていた。


「不知火はいかがか。風祭大佐。」

風祭に水を向けたのは取りまとめの老中、黒田左近。齢六十の意気軒高な主戦派

である。 

「護衛計画に沿って、戦闘はとりまとめます。敵がいかな数で攻めてこようと

すべて退けます。」

凛とした風祭の声を聞き、黒田はほくそ笑む。

「しかし、先行調査している我が隊の者が東京に戻るのが前提であり、伊庭隊長も現在戦闘に参加している状況です。」

「また、遭遇戦、殲滅戦、制圧戦であるならいざ知らず、観閲式の計画が事前に漏れていると分かったいま、弥者がどういった破常力を駆使する者を立ててくるかわかりませぬ。」


「どういったとは。飽和破常力を行使する弥者は、本閥の侍達が制圧するのが

本分であろうが。」

「対人類戦闘のための表立った破常力であるならば。しかし、要人の暗殺を

目的とした特殊な能力を使用された場合、対応は後手になります。」

風祭の言に、作議の間の官僚六名は押し黙る。


「観閲式を挙行するのがお上と幕僚中枢の意思であるならば、従う。

だが、それにまつわる防衛上の危惧は飲んでもらう。その上で、だ。伝える役目は

お前達に相違なかろう。」

玄嶽隊長、呉越蒙尊少将の低い雷鳴のような声に、官僚達は冷や汗を浮かべて

頭を下げた。

環太積副長、不破典命准将が互いの言を静かに聞いている。


*


午後の作議を終え、風祭と桔梗は斎藤少佐と忠右エ門を見送った。

しきりに風祭を搭乗させようとする忠右エ門には一苦労したが、以前のような

騒動にはならず、風祭は胸を撫で下ろした。

それを見計らい、モウカ号が随獣番によって宿舎に戻された。

静かな目をしているモウカ号の首筋を風祭は撫でている。

「桔梗に付き合わせてしまってすまないな。」

「いいえ。モウカは落ち着いていますね。玲さんの気も知らずに。」

くすくすと笑う桔梗につられて、風祭も苦笑を漏らした。


突如、モウカ号の鬣が逆立ち、口中より噴煙のような息が漏れる。小さく嘶き、

踏鞴を踏み出した。全身が薄く発光している。

「どうした? 何を恐れている。」

風祭も愛獣の変異に驚きながら声を掛けた。


「感情の抑制が未発達のようだ。」

二人が振り向いた先に、狩羅少将が佇んでいた。

逆光の中でその灰色の瞳が異様な光りを発し、モウカ号を射すくめるように

見つめている。

モウカ号は首を振り、呻くように咆えながら後退しようとする。

「まだ、若い。」

狩羅が手をゆっくりと振ると、モウカは膝をついて首を下げた。

初めて見る反応に驚きながら、二人は敬礼をした。

「良い随獣ですね、大佐。」

「狩羅隊長。」

狩羅は、その感情のない瞳で桔梗に視線を送る。

「玉杉桔梗中尉であります。」

「ああ、貴方が。」

「大佐と共に、護衛任務に尽力をお願いします。」

二人はもう一度敬礼する。

緩やかに答礼した狩羅は静かに去った。





怯えるモウカ号が落ち着きを取り戻した頃、随獣番に任せて二人は本部の門を

くぐる。夕食に番町の表街道に繰り出したのだった。

玄嶽本部にも隊士向けの食堂はあるが、いつも坊主頭の巨漢でごった返している。

たえず風祭の横に恐縮しながら座り込む者が多く、やや辟易していた。

「玄嶽の隊士達は玲さんと話したいみたいですけど、何も言わずに食べ続けるか、

ちらちら見るだけですね。」

「ちと鬱陶しい。今夜は私の好きな鍋を食べに行こう。」

「はい。何というお鍋なのですか?」

「柳川だ。」

「あ、私も大好きです。」

うきうきとした桔梗の顔をみて、風祭の気持ちも解れる。


「モウカの反応に驚きました。」

「うむ。狩羅少将を恐れていた。あの勇猛な子が。」

「なぜ少将をあんなに怖がるのでしょう。」

「あの反応はモウカだけではない。狩羅少将の特有の御力と聞く。」

きょとんとした桔梗の顔を見て風祭は少し考え込んだが、やがて口を開いた。

「あまり表立った話ではないが……。本閥主将はそれぞれ隊の長たる能力と共に

強力な異能を持つ。狩羅隊長は随獣に対する影響力がずばぬけて強いと聞く。それ故、環太積……。いや、いい。」

話の途中で口籠った風祭を、桔梗は慮った。

「玲さんは、狩羅少将が苦手のようですね。」

「お前には隠せないな。確かに苦手、というか何か強い力を感じて一歩引いてしまう。人からは感じない空恐ろしさがある。」

苦痛を反芻しているような風祭の横顔を桔梗は見つめる。

「玄嶽の呉越隊長はいかがですか? 」

「実直で厳格なお方だ。岩のような、というか岩が声を発しているような」

風祭の言に桔梗は声をあげて笑っている。

「環太積の誓野隊長はどんなお方ですか? 」

「そうだな。厳しいお方だとは思うが、実の所御頭によく似ている。長く戦列を共に

されていたそうだが。」

「直接お話した事はないですが、とても怖いお方に見えます。」

「うむ。」

「じゃあ、玲さんにとって、御頭はどんな方なのですか? 」

「御頭は、御頭だ。」

桔梗の問いに風祭はすこし困った表情を見せる。

「きさまら、ってやんでえ。」

突然の桔梗の伊庭の声真似が思いのほか似ていて、風祭は吹き出して笑った。


*


番町の外れ、瀟洒な造りの料理茶屋に本閥主将達の姿があった。

暁輝隊長の狩羅光臣、副長の宇都見双角。膳を挟んで玄嶽隊長の呉越蒙尊、

参謀長及び副長の遠山勘解由である。

狩羅は酒を一息に飲み干し、小さくため息をついた。呉越はその様子を窺いながら、

合わせるように杯を空ける。

「呉越殿はいかがお考えか。」

おおむね、狩羅隊長に同意しておる。」

「幕僚の意図が掴みかねる。」

武官でありながら、異色を放つ程の冷静さで滅多に感情を面に出さぬ狩羅の

静かな怒りを感じる。  

両隊長の思惑は、危険を伴いながらも統合観閲式を行う事の是非であった。

暁輝は要人の空路での移送は出来ない。

それは瑞獣が士魂を持たぬ者の搭乗、運搬すら拒絶するからである。

これは、いかな絶大な影響力を持つ狩羅でも使役叶わぬ。  

それ故、護衛業務につく本閥隊士の幇助としてしか任務を全うできない歯痒さが

ある。

玄嶽は大掛かりな全隊の移動による防衛力低下の危惧、またそれに伴う活動予算の確保、というより、尤も支援が厚い和賀藩に頼らざるを得ない経済状況が好ましくない。

が、絶対君主制である日の本において、上意を覆す事は叶わぬ。


「それ程までに、新型塊音兵装の披露目に重要な意味が。」

「知っての通り、内実はお上と幕僚長、開発担当の浪華技研しか知らぬ。このような厳しい緘口令は初めてだ。」

いくさの趨勢を握るという事に真実味が出て参りました。」

「左様。が、官僚の出した護衛計画は」

「このような。」

呉越の言葉を受け、遠山が膳の器から、ひょいと蓮根のあんかけを摘む。開いた穴から、たれがぽたぽたと落ちている。その場が少し和んだ。  

「双角と共に護送日程の変更と人員配置の穴を埋めまする。」  

「からし、でも詰めると良かろう。」 

馴染んだ食物に例え、呉越と狩羅はしばし笑い合う。  

二人は同郷であり、元は環太積所属の上司と部下であった。

一刻程酒食を共にし、狩羅が席を立った。

「それでは、呉越殿。」

「うむ。光臣。不知火、環太積共に思惑を同じくしている。信じる事だ。」

暁輝隊長は深々と頭を下げ、宇都見副長と共に退席した。

遠山が呉越の杯に酒を満たす。

それを持ち上げると、しばし行燈の灯を見つめた後、杯を置いて目を瞑った。 





幕僚、本閥との観閲式の開催計画の議より三日後、不知火、井上源三郎が番町本部に到着し、風祭と桔梗に須鶯宿での悪兵衛らの戦闘の一件を伝えた。

また、同日午後に暁輝より幡殖宿での戦勝の報があり、観閲式にむけての動きは

やにわに決まる。


翌日、井上は蜻蛉返りで不知火本部へ帰所する。

早朝、風祭と井上の姿が番町本部の門前にあった。

「源三郎、街道筋で異変があった場合、すぐにこちらに戻れ。」

「承りました。お嬢様もお気をつけて。」

風祭家の侍従長であった井上は、玲の不知火入隊と共に軍属となった。

生まれた時から玲の側についていたせいか、二人の時はつい本家の呼び名が口に

出てしまう。また風祭もそれを咎める事はしなかった。

早朝から人びとが行きかう明國街道、西に向かう井上の小さな背を見送った。


朝食を終えた風祭と桔梗は出立の準備に追われる。

昼前には東京を発たねばならなかった。

最終的に行われる計画は、玄嶽一大隊及び日の本兵二千名で洲干大港まで将軍、幕僚長を護送、環太積と日の本軍船により海路で那賀斗を目指す。

不知火両名は一部官僚の陸路の護送と決まった。

本丸の警護につかぬ事に桔梗は不満を漏らす。

「お上の警護に我らがつかぬ事、口惜しく思います。」

「心身をすり減らして任務に就く事もあるまい。官僚の警護で那賀斗へ向かう長旅だ。やおら動けばよい。」

微笑を浮かべた風祭は取り合ってくれず、桔梗は頬を膨らませて脚絆をつけた。


番町本部、南側に位置する佐護門を二人はくぐる。

風祭は純白に淡藤あわふじ色の炎の紋様が美しい外套に、陣笠、長着姿。桔梗は同じく純白の半合羽。両名共、魁音刀を差し、足回りを固めている。

門前には五百名からの玄嶽大隊が本隊の警護の為の待機をしていた。

一斉に風祭に向かい、敬礼する。

答礼した風祭は部隊を率いる藤本重義少佐に声をかける。

「護送の成功、安寧な道程を祈る。」

「感謝します。大佐。」                               

二人の簡素な会話の終わり際、輿と共の者が現れた。

不知火の二人が護送する、幕僚次席書記官である。

籠回りの老齢な日の本兵二名、草履取りに女官一名、後は駕輿丁かよちょうと呼ばれる

輿の担ぎ手が二名のみで、書記官の位が伺い知れる。

定刻通り、風祭率いる一団は発った。


*


本部、作議所に玄嶽主将と参謀達が最後の打ち合わせと出立の用意を行っている。

そこに、狩羅が通された。

「呉越殿。お話したき議が。」

「人を払おう。」

「いえ、このままで結構。参謀連の皆にも聞いて頂きたく存じます。」

狩羅の言に一同は改まり、頭を下げた。


「鉱須街道での暁輝の護送が退けられました。」

狩羅の言葉を聞いた玄嶽参謀連は一呼吸置いてざわついた。

現在、東京から海岸沿いを西進する統界街道、北西方面の山岳を超える鉱須街道

への二経路の移動計画が決まっている。

その内、将軍、幕僚長の護送経路である統界街道に細かく暁輝を配置し、連絡を

密にするべしとの達しが下ったのである。

すべからく、もう一方の経路に避ける人員と随獣はいない。


「幕僚長は狩羅の進言ならばという事で承認した、と。」

「私の知らぬ所で官僚が動いた模様です。恐らくは黒田左近。」

呉越は厳しい表情のまま、狩羅の言葉を咀嚼している。

「鉱須方面に展開するのは、都外縁みやこがいえんに一中隊であったな。。」

傍らの遠山に確認する。

「は。中継地の須和國すわくににさらに一中隊です。」

「移送予定の幕僚は。」

「四組十六名になっております。」

「よし。もう二中隊出し、それぞれにつけよ。」

呉越の指令に遠山は急ぎ、作議室を出た。


「呉越殿。それがしの力足らず。」

暁輝隊長は深く頭を下げた。

「狩羅隊長のせいではない。しかし、妙な事を。小早川。」

参謀連末席の小早川真治郎中佐に、呉越はなげかけた。

「はは。かねてより黒田左近は本閥のかじ取りを欲しておりますれば、護送計画の

成功をすべて自らのものにすべく、また鉱須街道に不祥事生じたならばすべて暁輝の

不手際と言う事で、自らの」

髪を振り乱して身振り手振りで声を発する小早川を、隣席の精悍な男が止める。

「もうよい、真治郎。」

「まだ終わってはおらぬわ。そちこそ黙っておれ。」

「総司令はすべてわかっておられる。この粗忽ものめ。」

呉越は苦笑し、二人を留める。

「東堂、小早川。ご苦労。」


狩羅に向き直り頷いた。

「不知火は発ちましたかな。」

「先ほど、小杉に入ったと報せを受けました。」

「本丸こそ枢要。我等もお上のもとへ。」

狩羅と呉越はたち上がった。





風祭率いる官僚の護送隊一行は、小杉街道を西進、洲干大港の北西に位置する

碌浦ろくうら村にて一泊する。幕府直轄領であるこの地は外屋敷が多く、その内の旗本の

屋敷に逗留したが、桔梗はついぞ護衛している幕僚と対面する事はなかった。

翌朝、一行は村を離れ、街道を南に向かう。

海岸線で統界街道本線と合流すると、にわかに道幅も広く行合う人々、牛車、馬車の数も多くなる。

眼前の佐南湾はその東西を突き出した半島に囲まれた温暖な海峡で、凪いだ海面が

春の陽に輝いている。


「山本様、と伺いましたが。まだどんなお方かわかりかねます。これでは護衛として情報が不足であると思います。」

朝から籠の中で、侍達に姿を見せない官僚に桔梗は不服を漏らす。

風祭は困った表情で桔梗の言に頷いている。

「お前がそういうのも一理ある。しかしこれは山本様の意向なのだ。」

「玲さんが直接聞かれたのですか?」

「そうだ。」

一行は不知火の両名が先行し、籠、日の本兵の二名、草履取りの女という順で

進んでいく。不満顔の桔梗は後方の老兵まで下がる。互いの氏素性は昨日の

顔合わせで明かしている。

太賀たいが殿。少々伺いたい事が。」

「何でしょうか、玉杉中尉殿。」

随行する兵は太賀と浦部と名乗り、すでに退役した軍人で予備役と言う事で

あった。桔梗が声を掛けた太賀は白髪頭に痩身、白い眉の垂れ下がった温厚な

男で、今一人の浦部は大柄でごま塩の頭に目が小さく、開いているかつぶっているかわからない。寡黙な老兵である。

「桔梗で結構です。我らの護衛している山本様、お会いした事は? 」

「ありませぬ。作戦目的を告げられただけです。よい眺めですなあ。」

「……太賀、任務中だぞ。」

浦部が小さく叱責した。太賀はそしらぬ顔で目を細めて海原を見渡している。

「浦部殿は如何ですか? 」

「は。それがしも存じ上げておりませぬ。」  

浦部は一言答えると石のように押し黙った。

桔梗はため息をつき、最後尾の草履取りの下女にも声を掛ける。折網傘を目深に

かぶり、細面で無口な女である。年の頃は桔梗より少し上であろうか。

「かなえさんは、お屋敷付きですよね。」

「いいえ、違います。こたびは主人にいいつかり、そのまま主家筋にお手伝いに

あがりました。」

取り付く島がない。駕輿丁の若者二人、喜三郎と四郎太はいわずもがな、である。

桔梗は諦めて先頭に戻った。

左手に砂浜、右手に森林を見ながら西に向かう。

途中、茶屋で休憩をとりつつ、その日の夕刻には佐南藩を抜けた。

駿州、塙陀はなだ藩の関所をくぐる。通達を受けていた藩兵が無言で通す。

そのまま、街道より逸れ、奥まった林の中の敷地の瀟洒な屋敷を宿とした。


桔梗はこの地に思い入れがある。

口外はせず、態度にも出してはいなかったが、ここは播磨悪兵衛の出生地である。

幼いころを過ごしたと聞き、一日は外で見聞きしたかったが、任務中にそれは叶わない。

夜半、襖を開け、小振りな庭と静かな林を眺めて物思いに囚われる。

悪兵衛は須鶯宿での戦闘に打ち勝ち、そのまま幡殖に移動し戦列に加わったという。

敵の新兵器に苦しめられながらも、伊庭隊長の戦術決戦魁音撃にて、勝利を得たという報告を受けている。

懐から小さな数珠を取り出し握りしめる。戦神に悪兵衛の息災を祈った。


*


翌、早暁に一行は宿を発った。

予定よりやや遅れが生じた為、その日の旅程は強行する旨が伝えられている。

夜明け前、遠くに潮騒を聞きながら林道を進んでいく。

峠を一つ越える頃、ようやく東の空が白んで来た。夫々が提灯の火を落とす。

山道に入った街道筋に、一行以外の人影はない。


まだ店を開けていない茶屋の庭先で歩を止める事になった。

林道にかかっていた靄が晴れ、木々の間から黄金色の光が漏れる。

峠の先は雲海が広がり、朝日に照らされた霊峰、富士が現れた。

桔梗はその美しい稜線に目が奪われる。その刹那、風祭の鋭い声に我に返った。

「喜三郎、四郎太。どこじゃ。」

駕籠舁きの若者二人の姿がない。

当たりを見回しながら籠に駆け寄る。いち早く風祭が官僚の安否を確かめる。

やがて、風祭が立ち上がった。

「桔梗、大事ない。二人は周囲の確認に散っているだけだ。」

桔梗は安堵する。が、奇妙な違和感を覚えた。風祭の言の通りならば、籠の官僚が

それを単独で命じたようだ。何の為に?

四半刻も待たず、喜三郎と四郎太はそれぞれ街道の上り筋と下り筋から姿を

現した。周囲の状況を籠の中に報告しているようである。


訝しむ桔梗を他所に、太賀と浦部は籠の前に膝を着く。

同時に風祭も下がる。桔梗はわけもわからず、風祭に寄添い、同様に膝をついた。

籠が開き、頑健な体格に鋭い眼差し、矍鑠とした動作の老侍が立った。

「富士か。ふもとより見るのは久方ぶりだの。」

統合幕僚長、玉杉蔭隆その人であった。

桔梗の実父である。





洲干大港を環太積の巡洋艦「ありあけ」が出帆して一日。

現在は出津しゅっつ半島の沿岸に沿って航行している。

安宅あたけ船と呼ばれる箱型の軍艦で、遠距離航行用の帆を大きく膨らませている。

屋形にて玄嶽隊長、呉越蒙尊と参謀長、遠山勘解由中佐。環太積副長、不破典命准将と参謀長の霧島歌右衛門大佐が作議を終えた所である。

「如何でしょう、呉越隊長。作戦行動のご報告等、やはり幕僚長にお伝えいたしたく

存じまして。」

霧島が苛々とした様子で声をあげた。

「無用だ。そう幕僚長から言い含められておる。」

「しかし……。」

「無用」

「霧島、下がってよい。」

不破の言葉に霧島も引き下がる。

「は。それでは、ご用命の際はいついかなる時も。」

霧島は不承不承に退出した。

不破は視線を海原の先に戻す。この船と運航作戦全般を預かり、環太積副長を

務める男は、この年五十三。見上げるような長身に厳しい表情を浮かべている。


遠山が口に手を当て吹き出した。

それを見て呉越も苦笑を浮かべた。

「勘解由。お前は時々意地悪な男になるな。」

「さにあらず。総司令の部下なれば。」

遠山の言に呉越と不破は静かに笑った。

霧島は幕僚長が護衛と共に乗船していると信じ込んでいる。

影武者、であった。

統合観閲式の挙行にあたり、最終的な幕僚の決定としては、将軍は参加は取りやめ。

幕僚高官は影武者を立て、それぞれの護送計画に沿って移動というものであった。

その概要はごく一部の者、本閥主将、その代行者、幕僚高官にしか伝えられていない。


「おお。総司令。あれを」

遠山の明るい声に視線をあげると、半島の向こう、朝日に照らされ、青銀に輝く

富士が見える。

遥拝ようはい用意。」

呉越の声に遠山は脇差を抜き、額にかざして宗波を飛ばす。

前甲板、居住区、後甲板に待機する三百名の玄嶽隊士に呉越の思考が波及していく。皆、直立不動で富士に向かう。

統合陸軍である玄嶽は、桜と富士を崇める隊内信仰が根強い。

不破は元玄嶽であり、遠山と同様に頭を下げ、目をつぶっている。

「玄嶽隊士、遥拝。阿佐真神あさまかみ福慈神ふくじかみ、なにとぞ導き給え。護り給え。

我等の勝利は富士のもと。」

「日の本あるところ玄嶽あり」

隊士達の応えが強靭な意思と共に反響している。


*


統合幕僚長擁する不知火隊は眼下に塙陀湾を見下ろし、右手に大きく富士を仰ぎ見る街道を下りつつある。

風光明媚に目もむけず、桔梗は不機嫌に鼻を鳴らし、大股に歩く。

その様子を見て風祭は苦笑を漏らした。


「玲さん、幕僚長の事ご存じだったんですね。」

「無論だ。他に本閥主将と幕僚高官の一部のみ通達されておる。」

そこまで言われ、桔梗はこの作戦の秘匿性を思い知り、表情を変える。

「太賀殿と浦部殿は。」

「知る由もない。が、あの二人はこういった任務の時に復員する予備役の侍だ。

薄々感ずいてたのではないか。」

ここまで聞いて桔梗は下がり、太賀と浦部を交互に睨んだ。二人は昨日までと

変わらず、のんびりとした様子で歩いている。

「太賀殿。私が幕僚長の事を伺ったとき、知らないと偽りましたね? 」

「とんでもございませぬ。桔梗殿は山本様とお会いしたかと聞かれた。

知らぬ故そうお答えしましたまで。」

「左様左様。」

浦部まで素知らぬ顔であいずちを打つ。食えぬ老人達であった。

桔梗は歯噛みして、最後尾のかなえにも聞く。

「かなえさん、ご主人にいいつかって同行したと聞きましたが。どなたか。」

「桜花進勅聯隊、玄嶽。特務機動隊、東堂士郎少佐より指令を受けました。」

「……ではあなたは。」

「同じく特務機動隊、麻生叶中尉であります。」

周到に用意された人員であったかと、桔梗は絶句する。

確かに、玉杉幕僚長の護送という任務を把握しているのは風祭だけであった。

桔梗はさらに任務の重さを感じ、表情が強張る。


「桔梗、それほど力を入れずともよい。刀から手を下せ。」

風祭の言に、我知らずいつでも鯉口を切れるよう、鍔にかけていた親指を

おろした。

「それ見よ。最初から任務の内実を知っていたら要人護送しています、と顔に

出でしまうではないか。」

涼しく微笑む風祭につられて太賀も浦部も笑っている。

桔梗は顔を赤くして頬を膨らませている。麻生が横につき、力が入るのも

当然、と桔梗を慰め、他の人々に抗議した。





富士を背後に見つつ、塙陀湾沿いの街道を進む。

府中と呼ばれる塙陀藩の首府は迂回し、日の本一とも呼ばれる漁獲を誇る葦薙あしなぎ港を

目指している。

名君とも名高い藩主、但嶋景昌の元、街道は整備され治安もすこぶる良い国であった。幕僚の移送は通達してはいるが、特別な送迎は行われてはいない。

そこにも質実剛健な治世の思惑が見える。


葦薙港に入る最後の峠に差し掛かった時、浦部が風祭に近づいた。

「大佐。一刻程前より、追跡されています。」

「何者だ。」

「わかりませぬ。数は一名で武芸者風の者です。着かず離れずの距離を保って

おります。太賀とも確認しました。」

一行は茶屋で小休憩の後、歩み出す。

樹海のすそを縫うように山道が続いている。行きかう人々の影も少なくなった。


編笠に黒の帷子、茶の裁着たっつけ袴、振り分け荷物姿の男が不知火一行が山道の先に

見えるか見えぬかの距離で静かに歩みを進める。

やがてその背後に、太賀が追い付く。

武芸者が視線を上げると、待っていたかのように籠が止まり、不知火の二人と

浦部が立ちはだかっている。その横で麻生に声を掛けられた、をかぶっていた旅装の者が、一行と武芸者を見比べながら逃げる様に立ち去った。

茶屋にいた旅の商人に、一時的に太賀の身代わりを頼んだのである。

「尾けていたな。何者じゃ。」

浦部が太い声を掛ける。太賀が背後より近づき、刀の鍔に手を掛けている。

「答えぬか。」

浦部が大股で歩み寄る。

「待て。俺は」

武芸者が顔を晒すと意外な程若く、少年の面影を残した容貌。が、老侍二人は

抜刀と同時に斬りつける。

男が身を翻したと同時に軽い爆発音と、白い煙が噴き上がった。

一瞬で視界がかき消える。

浦部と太賀は微動だにせず、刀を構えたままである。

男の気配を感じたならば、見えぬまでも攻撃する確固たる意思の表れであった。

風祭と桔梗、麻生は駕籠を囲むように立ち、四方に意識を這わせ警戒する。

数瞬後、煙が薄まると、眼前の人影を確認した太賀が気合声をあげる。目前の影も

それに答えるが、その声は浦部の物とすぐにわかった。

武芸者姿の者が忽然と姿を消している。


「頭の固い爺が護衛とはな。」

頭上から声が落ちる。道の傍ら、太い松の樹上に武芸者の姿があった。一息で

登れる高さではない。

編笠の下の表情と声を聞き、桔梗が飛び跳ねるように太賀と浦部の前に立った。

「太賀殿、浦部殿。剣を納めて下さい。あれは隠密です。」

「名乗れ。」

風祭が静かに誰何した。

「隠密諜報部隊、月光。卍組、朧丸。」


*


夕刻、予定通り葦薙港に入り、宿を取る。

初めて玉杉蔭隆幕僚長が、夕食の膳を護衛の者達と共にした。

すでに身分を隠す事が無くなった以上、護衛との距離は近い方が良いという

判断である。

日中、一行が遭遇した隠密は、幕僚長と風祭に連絡があるという事であったが、

人目のある街道筋は避け、宿舎に再度訪れる事を言い残し、姿を消した。


膳にはかつおの刺身、焼き物、しらすの釜揚げ、筍の煮物、金山寺味噌のかけられた

大根が並ぶ。

「玲さん、からしがないです。」

「ほんとうだ。どこかに……」

「こちらでは醤油だけで食べまする。」

このあたりの文化に詳しい太賀の言葉に、桔梗と風祭は頷き、おおぶりなかつおの刺身を醤油で口にした。その濃厚で厚みがあり、酸味の残る味に思わず微笑む。

「こんなおいしい鰹は初めて食べました。」

麻生も眼を白黒させている。

浦部が上座に座る玉杉幕僚長に擦りより、手元の笹包みを差し出す。

「おお、格。これは」

「酒盗でござります。いきがけの市で手に入れました。」

「でかした、格之進。」

いつも厳しい表情の玉杉が相好を崩す。

浦部が差し出したのは鰹の内臓の塩漬けであった。庶民の食物ではあったが、旧知の

玉杉がこれを酒と共に食すのが好物なのを覚えていた。

「おやかたさま、ご相伴に。」

さも当然の顔つきで太賀がその隣に膝を進めた。浦部が文句をぶつける。

「なんだ、太賀。図々しいぞ。」

「やかましい。儂はこれをお館にお持ちしたわ。」

太賀は手元に地元の酒蔵の夏酒をよく冷やした甕にいれ、もちあげた。

長年の戦場を共にした二人の老武士と杯をかたむける玉杉は、

幕僚会議ではついぞ見せた事のない表情をしている。

風祭は、にこやかに話しながらぱくぱくと食べている桔梗と麻生、顔を赤くした

太賀の話に笑う幕僚長を眺める。ふと、家族と共にいるような感慨が胸にあふれた。


行燈の周りを、季節にはまだ早い蜉蝣かげろうがひらひらと舞っている。

玉杉蔭隆は目を細めてその繊細な姿を見つめながら、酔っていたせいか思わず

言葉が出た。

「これ、桔梗。」

玉杉の言葉にうなずき、飛び回る蜉蝣を見た桔梗はその動きを追いつつ、つい、と箸を伸ばして蜉蝣をつかんだ。そのまま障子の外に逃がしてやる。

「おお、桔梗殿。」

麻生がその手技に瞠目した。生半可な剣士が行える技ではない。

不意に、桔梗は幼少の記憶を呼び起こす。

まだ五つになったばかりの頃。実家で膳を囲んでいた。

年の離れた二人の姉はもう嫁ぎ先が決まっていて、母と共に食事の間も、楚々としたものであった。

庭からまだ小さい揚羽蝶が入り込んできた。

桔梗はとっさに箸でつかみ、外に逃がす。母や姉達は悲鳴をあげ、ひどく叱られたの

を覚えている。武家の子女の行いではないと。

ひとしきり躾けられた後、縁側で蝶を見ていた桔梗を父、蔭隆が抱き上げ、

膝に乗せた。

桔梗に優れた剣の才覚を感じていた蔭隆は、陰では殊更に桔梗を可愛がった。

目じりを下げた、優しい笑顔でいつも桔梗の頭を撫で、褒めた。

「桔梗や、良し。良し。」


白髪が目立つようになった蔭隆を桔梗は見つめる。あの時と同じ笑顔であった。

風祭が部屋に入り込んだ羽虫や蜉蝣をひょいひょいと何匹もつまみ、外に逃がした。

「私もよくやって叱られたものだ。」

太賀、浦部、麻生はあっけにとられて言葉が出ない。

「桔梗、上には上がおるのう。」

桔梗は父の言葉に、笑顔で頷いた。





翌朝、朝食の膳を片付けた後に、護衛団を前に蔭隆は向き直った。

「昨夜、件の隠密が報告に来た。」

「我等と同時に発ち、鉱須街道を進んでいた幕僚の一行が何者かに襲撃され、

官僚三名が斬られ、護衛が全滅したという事だ。」

「玄嶽中隊が後を追っている最中で、間に合わなかった。」

沈黙する一行に対し、風祭が言葉を繋いだ。

「襲撃者の正体はわかってはいない。が、その手口より目的は官僚の殺害である。」

「大佐、弥者ですか。」

太賀が前のめりに聞いた。

「いや、遺体を検分した結果、刀傷のみ、複数であった。」

「徒党を組んだ暗殺者という事か。武士であろうの。」


「風祭大佐より、この地に一旦潜伏し護衛を待つ案もでた。が、儂はこのまま出立しようと思う。」

一行は普段と変わらぬ様子の蔭隆の言葉の真意を求めている。

「野良侍の十や二十、お前達の敵ではあるまい。観閲式に遅れるわけにはいかぬ。」

蔭隆の言に、太賀と浦部は鼻息あらく昂昂然と胸を張っている。老いてなお意気軒高であった。表情を引き締める桔梗と麻生と老侍を見比べ、風祭は口を開く。

「他官僚の護衛に玄嶽がつく。矛先をこちらに変えたとしても、我等は本日鳴海入りし、後は海路である。追いつく術が無い。しかし、暗殺団が元々二手に別れて

いた場合、その限りではない。気を引き締め任務を全うせよ。」


*


鳴海は日の本のほぼ中央に位置する大都市である。

洲干大港に次ぐ巨大な港湾を擁し、様々な航路をもつ。不知火一行は終日移動の後に到着予定であった。

白浜を左手にみつつ、街道を西進する。やがて道は内陸に続き、山道へ入っていく。剣呑な地形の封馬峠であった。道幅が狭まり、深い樹林を抜けると富濃山の外縁の谷川沿いの街道が続く。

標高があがり肌寒く感じる頃、前方の渓谷の入り口に幾人かの人影が見える。

「あれは。」

太賀が声を発し立ち止まった。浦部も前方を見つめたまま絶句している。その様子に風祭が全隊の進行をとめた。

「大佐、橋がおちておりまする。」

渓谷の前方、深い谷川を両断する吊り橋がその柱木だけを残し、消失している。

旅の人々が渓谷を見下ろし、途方に暮れている。

「宿場で橋の崩落の達しは受けなかったが。」

風祭は腕組みで前方を見据える。駕籠から蔭隆も姿を現した。

周囲を調査した麻生が戻ってきた。すでに下女の姿ではなく、玄嶽の紋入りの長着に旅袴姿である。

「破壊工作と思われます。基幹の釣り縄の切断痕、落下した橋桁の残壊を確認いたしました。工事や事故ではありませぬ。」

「我等の足を止め置いたか。」

蔭隆が呻いた。

「若し、これが暗殺団の仕業であるならば我らの足をこの先ではなく、峠を迂回する海岸沿いに向かわせたいようです。」

風祭が旅程図を蔭隆に差出す。

「戻り一日の遅れ、鳴海に到着が三日遅れ程になるか。」

「御意。」

太賀と浦部も地図を眺め、思案している。


「お館様、あの時と似ておりますな。あの、紀正の峠の……。」

「ああ、隧道を埋め立てられて」

太賀と浦部が懐かし気に語るのは、三十年程前、本閥が設立間際の頃の記憶であった。

弥者との全面戦争に踏み切った幕僚に対する反勢力との内戦が勃発し、その追討戦のさ中、蔭隆率いる一軍が進行を破壊工作により足止めを食った時があった。

「賊軍は我等の足止めの後、迂回路で襲撃する目論見であったな。」

蔭隆も目を細めて当時を思い起こす。

「どのような対処をされましたでしょうや。」

風祭の問いに、老侍達は楽し気に笑った。

「埋められた隧道の上方、断崖を上ってな。敵の裏をかいて進行したのよ。」

墜下ついかで二人、命を落としましたな。」

「慌てて追ってきた敵勢力を逆に待ち伏せして討ったのだ。」

無謀ともいえる若かりし頃の戦話いくさばなしを聞かされ、風祭はため息をついた。

「大佐。」

背後の木陰から朧丸が現れた。つかず離れず随行していたようである。

「迂回した際、立ち寄る宿場町の調査に手下てかを向かわせている。」

朧丸の手配に頷き、一呼吸思案する。

「朧丸、谷を渡る準備をした場合、どれ程の時間がかかる。」

風祭の問いに朧丸は頷き、橋のふもとで渓谷とその周囲を調べ始めた。

「副長、もしや」

「うむ。幕僚長の以前の戦のように強行し、敵の裏をかくのは妙策であるように

思える。」

桔梗と風祭の会話の後、周囲を調査した朧丸が戻る。

「鋼線を谷に渡し、一名ずつ渓谷を縦断出来そうだ。対岸に渡り装置を固定するまで半日、全員が渡りきるまで一刻。」

「鋼線の敷設作業はどのように行う? 」

「手下に工作の準備をさせ、その間俺が谷を渡る。対岸で投擲された鋼線を俺が受け取り固定する工事を行う。」

「峡谷越えは、自分が行います。」

麻生叶が進み出た。

「中尉が渓谷を渡り切り、対岸で工作を行うのにどの程度かかるか。」

「半刻あれば。」

「よし、では朧丸より鋼線の工事の手順を確認、進行せよ。」

朧丸をして半日要すると言わせた縦断を、わずか一時間程で行うという麻生に、

朧丸はいぶかしげな表情のまま打ち合わせを進める。

それを終えると、自ら工作の手配の為に峠道を走り去った。

「谷越えですか。」

「危険ですな。」

太賀と浦部の言にも、蔭隆は微笑んで動じない。

やがて、足回りを固めた麻生が風祭に敬礼する。

「麻生叶中尉、状況開始します。」

「はじめ。」

風祭の言葉を受け、麻生は谷に向かった。

「あっ」

麻生の姿が掻き消えた。谷底に飛び降りたのである。桔梗が思わず声を上げ、

橋のたもとまで駆け寄る。谷底に土煙があがり、低い炸裂音が遅れてこだました。

「破双落ちと呼ばれる降着法だな。」

風祭も見下ろす。峡谷の底まで百尋はある。

一息に飛び降りるとはさすがに風祭も予想していなかった。やがて土煙の中より

麻生が現れ、流れの早い渓流に迷う事なく飛び込む。

激流に押されながらも力強く泳ぎ切ると、対岸の岸壁に取り付き、休む間もなく登攀とうはんを始めた。

「連者隊の本領発揮よの。」

蔭隆が満足気に漏らした。





半刻を過ぎた後、朧丸が配下の者を従え、鋼線の束を用意して戻った。

「麻生中尉は。」

「ほれ、あれに。」

断崖の向こう、太賀の指差す先に打合せ通りに目標となる大樹に白の布が巻いてあるのが見える。

内心舌を巻きながら朧丸は準備を進める。

「投擲の為の器具は何を使うのじゃ。」

浦部が心配顔で訊ねる。

「侍の目は節穴か。目の前にいる。」

やや侮蔑のこもった朧丸の物言いに太賀と浦部は顔を見合わせた。

「人の手で投擲するのか。ゆうに二百米はあるが。」

風祭の問に朧丸は立ち上がった。

「例え大人一人と荷であろうと、二人だけでお前達の早足に遅れる事なく、休み無しで歩き通す駕輿丁をおかしいと思わなかったか。」

朧丸の言葉に風祭と桔梗ははっとし、無口な若者二人に視線を走らせる。

「喜三郎、四郎太。どちらがやる。」

朧丸の呼び掛けに。兄であろう喜三郎がおずおずと進み出た。

鋼線の先を手頃な丸石に巻き付け、それを手渡し、対岸に向かって手鏡で合図を送る。

「この者達は月光、白組だ。」

朧丸の答えとともにきらきらと対岸より光が帰ってくる。

「よし。やれ。」

石をうけとった喜三郎は予備の動作もなく、斜め上方に石を放り投げた。弩弓で撃ち出した矢のような速度で石は消え、丸めた鋼線が見る見る減っていく。

「見ての通り、この者達は剛力の異能を持っている。が、刃を恐れ戦闘はまったく

出来ぬ。同行はここまででよろしいか。」

朧丸の言に風祭は頷いた。兄弟は手を合わせてほっとした表情をしている。よほど、暗殺者に恐れを抱いていた様子であった。


対岸より麻生の鏡による信号が光った。鋼線を固定した合図である。

「先鋒は桔梗、次に太賀、浦部が幕僚長と共に。私、最後が朧丸で鋼線の後処理。」

風祭の指示に一同は動き出す。

腰回りと鋼線を繋いだ桔梗が、一番手であった。

が、命綱が無い物の様に桔梗は空中に飛び上がった。

そのまま破双で中空を舞う。速度が落ちた所で再度破双を発動、

全行程の三分の一を一気に渡り切った。その後に鋼線に捕まり、

きびきびと進み始める。

滑車に鋼線を繋ぎ、簡易な籠のようにして太賀と浦部、蔭隆を連結させて進み出す。

物見遊山な気分の太賀はうきうきとしているが、浦部は高所が苦手と見え、土気色の顔色をしている。蔭隆は笑いながら手を貸し、四半刻以上時間をかけてようやく渡り切った。

幕僚長一行の渡口を確認すると、風祭は一気に走り込み、桔梗と同様に二段破双で

距離を稼ぎ、渡り切る。

殿しんがりの朧丸は鋼線上に飛び上がると後の者に指示をあたえ、弾丸の様に駆け出した。

指の先程の直径の鋼線上を地上と同様に疾駆し、一行は驚きの表情を浮かべたまま、朧丸を迎えた。

「月光は水上を走破出来ると聴いた事があるが、本当のようだな。」

風祭の言葉に、朧丸はにっと笑って返した。


*


蔭隆の片足には古傷があり、長時間の歩行は困難であった。

が、本人はその苦痛を表に出すことは無く、黙々と進む。麻生が木切れと荒縄を

組み合わせ、膝の添え木と杖をその場で作り出した。

当初の予定からは二刻程の遅れであったが、一行は峠を越えた先、こじんまりとした

宿場町に到着する。すでに水平線に日は落ち、二軒しかない旅籠は向かい合わせで

旅人を取り合う様に呼び込みを行っている。

早々に床についた一行は、打合せ通り夜半に宿を発った。

仮眠の後に夜を徹して進行し、鳴海に到着後、速やかに環太積と合流する

手筈である。


月のない夜であった。

静まり返る林道を夫々が持つ提灯が揺れる。

前後に人の気配はない。


「止まれ。」

朧丸の言葉に一同はなにごとかと立ち止まる。

朧丸は両の手の平と耳を地べたにぴったりと貼り付け、身動きしない。

「なんだ、どうした忍び。」

太賀の言葉に朧丸は人差し指を口にあてる。

「前方に馬だ。歩みを止めている。」

「数は。」

「三頭はいる。」

朧丸の言に風祭は考え込む。

「賊ならば我らを待ちうけての事か。」

「馬ならば槍で現れそうなものを。」

太賀と浦部の言葉も反芻する。麻生が口を開いた。

「大佐。もしや我等の存在を。」

風祭は目で頷いた。

本閥の侍に騎馬は相手にならない。

また馬に限らず戦闘用の犬、猛禽等動物を使った攻撃やそれに伴う

行動は無意味である。

士魂によってどんなに訓練された動物であっても、その行動を制御

されてしまうからであった。

意のままにという程ではないが、通常の騎馬であれば気合い一閃で

戦闘を放棄させる事は容易である。

また、弥者、狗族との戦闘が前提の本閥自身も、騎馬等通常の動物は使役しない。

如何に人間に忠実な使役動物であっても、生物として上位と捉える狗族には

本能的な恐れを抱き、いくさに参加させる事が不可能であるからだった。

風祭と麻生はそこに思考を及ばせていた。

「朧丸、元の宿場町から馬で先回りした場合の時間はわかるか。」

「俺もこの土地は初めてだ。わからぬ。」

「副長。前方の者が暗殺団であったら」

「うむ。本閥との戦闘を知っている者達である可能性がある。」

「皆、灯を落とせ。夜目になるまで後退。」

風祭の号令と共にあたりは仄暗い闇で満たされ、足元も見えない。

「大佐、斥候に出よう。」

「よし。……月光は暗闇を見通す術でもあるのか。」

「いいや。俺はずっと目を殺して音でついてきていた。」

朧丸のその言葉で、初めて目隠しをしたまま行動していた事に

気付く。風祭は瞠目した。





林道の入り口まで後退した。前方の漆黒からは未だ人の気配は無い。

背後は暗く凪いだ海辺が見える。闇に目が慣れてきていた。

「副長、この状況で魁音刀を抜くのは。」

桔梗は学舎での戦闘の座学を思い出していた。

「うむ。刀拆とうたく光がまずい。目が眩む。」

「閉眼して抜くべしとの教えでしたが。」

「隙になる。本閥を知っている者であればそこをついてくる。唯一の弱目で

あるといえる。」

風祭の言に桔梗は考え込む。魁音刀を抜刀する際、込められた士魂により

激しい火花と光を生じる。その現象を刀拆と呼ぶ。

「こうするのじゃ。」

風祭は鞘ごと腰から抜いた。桔梗は微笑んで頷く。

そのまま組紐で鍔を巻き、抜けないよう固定した。


前方の闇から生まれ出た様に朧丸が現れた。

「浪人のような者達が六名。徒歩でこちらにむかっている。」

「やはり暗殺団か。」

「返り討ちにしてくれる。」

太賀と浦部が鼻息荒く捲し立てた。

「太賀、浦部の両名は背後に警戒しつつ幕僚長の警護、先士さきんじ

我等二名、麻生は中間で防御しつつ支援。月光は」

「賊の背後を突こう。」

「よし、準備。」

一行は俄かに位置どりをはじめ、朧丸は再び林道に消えた。


*


程なく前方より足音が近づいてくる。

微かな鞘鳴りに、複数の者が刀で武装している事がわかる。

「風祭大佐、尋問用の者を残すが良い。」

「承りました。」

蔭隆に答えると静かに前方を見据える。

やがて、黒い人影の一団が現れた。朧丸の報告通り六名に見える。

風祭と桔梗はなんら臆する事なく立ちはだかった。

無言の一団はするすると刀を抜き、闇夜にその刃が微かな光を反射させる。

「麻生中尉、戦闘不能の者を拘束せよ。」

「承った。」

その言葉が引き金になったように、男達は物言わず突出した。

桔梗は刀を振りかぶった男の懐に飛び込むと同時に、その眉間に縦の拳を突き立てた。

鋭い衝撃に頭を抑えながら男は横薙ぎに刀を振る。桔梗はそれを見越して一歩下がり、

また飛び込んで膝頭を男の顎目がげて突き上げた。

二度の頭部への衝撃で、半ば酔ったような足取りで男は刀を振り上げる。が、その

速度は遅かった。しっかりと両の足底をつけ、体重を乗せた桔梗の左拳が鳩尾に

突き入れられ、旋風に巻き込まれたかのように回転しながら男が吹き飛んだ。

拳環である。

二手に囲まれた風祭は魁音刀を鞘ごとふるい、一度の斬撃でほぼ同時に

両名を撃った。抜刀せずとも、魁音刀の高鳴りで士魂が流れているのがわかる。

瞬間に刀の質量を消失させる魁音撃、知久手であった。あまりの速度に、

剣を振るったのが一度にしか見えない。

一人は右上腕の骨を砕かれ刀を取り落とし、今一人は首筋を撃たれ血泡を

吹いて意識を失う。

背後の者が不知火の両名の間隙を縫うように小弓を引いた。

桔梗は瞬間、蔭隆の身を案じ動きが止まる。

飛来する矢羽は麻生が懐刀で叩き落した。第二射も事もなく払う。

その背後で太賀と浦部が目を白黒させている。

風祭が前進と同時に独特の爆破音が響いた。炸裂した四股が、敵弓手を

吹き飛ばした。転がりながら意識を失う。


その刹那、桔梗の腰元の魁音刀が尋常で無い力で引かれた。

組紐は千切れ、鞘ごと刀は抜かれて吸い込まれるように暗闇に消失する。

それを待ち受けていた最奥の者の手に飛び込んだ。

男はそのまま、背を向け、走り去る。その手前の者もまた従った。

破双で一息に距離をつめた桔梗に、男は振り向きざまに抜刀し、斬りつけ

ようとした。が、かちり、と金属音を鳴らすだけで、桔梗の刀は抜けない。

体の動きで察していた桔梗は、地を這う様な回し蹴りを繰り出した。

男は飛び上がって避けつつそのまま林道の奥に消える。

遠ざかる足音を聞きながら、桔梗は立ち上がった。


程なく、全身を鋼線で雁字搦めに捕縛された男が朧丸と共に現れる。

魁音刀を奪った男と共に逃走を図った者であった。

残りは意識を失っている者三名、上腕を押さえて呻いている者が一名。

拘束された襲撃者達は尋問により容易にその素性を明かした。

金子で雇われた浪人と放蕩暮らしの武家の三男で、逃走した者が首長で

あるという。

遊ぶ金欲しさに依頼を受け、標的は阿漕あこぎな商売をしている大店の店主と

その用心棒と聞いていた。斬って当然の相手とも。

首長が何者なのかは杳として知れない。武家である、という事だけであった。

風祭は桔梗が魁音刀を奪われたのは俄かに信じがたい。

その詳しい状況を尋ねた。


「隙をみせました。意識を賊の弓音に気を取られた一瞬に。」

「……鍔の鳴りと抜かれた速度は、<網打ち>の様でした。」

桔梗の言に風祭は絶句する。続けて朧丸も口を開く。

「その首魁は逃走に戦技を使用した。破双、であったか。一気に距離を取られ、

いま一人を捕縛中に馬で去った。」

風祭は頷く。

「本閥の侍と言うことか。」

風祭の言葉に一行はざわめく。

「本閥の者が襲撃を企てたとな。」

「なぜお館様を」

皆の動揺の言葉が止むまで待ち。蔭隆が口を開いた。

「再び襲撃を行うか。」

その問いに風祭は黙する。賊の目的が暗殺のみでは無かったとしたら。

先行きの予測に自信がなかった。

「奪われた私の刀は使用叶いませぬ。」

桔梗が静かにいった。

「どういう事じゃ。」

銀疾風しろはやちは、私の魁音刀は、私しか抜けません。」

「敵にとって武装としての意味はありませぬ。」

桔梗の強い眼差しを受け、蔭隆は言葉を飲み込んだ。

暫し、今後を話し合った一行は敵の報復前に林道を抜け、宿場町を目指す。



十一



朝焼けに輝く緑の畑、その周りには段々畑が日を浴びている。

林道の途中、打ち捨てられた馬に蔭隆と太賀、浦部を騎乗させ足早に一行は

進んでいた。

「桔梗殿の言葉通りであるなら刀は使えぬわけであろう。賊はどうするつもりじゃ」

「売りさばくつもりであろうか。」

太賀と浦部の会話に麻生が口を開く。

「魁音刀は全てその使用者に紐付けられ、幕府によって厳密に管理されている。

表も裏も、流通させる術はありませぬ。本閥の者ならばそれは重々承知して

いるはず。」

「あとは……国外か。」

蔭隆の言葉に一同は絶句する。

「法外な値段で魁音刀が海外に流出した事があると聞きましたが。」

「うむ。それに纏わる者はみな極刑じゃ。無論使用者も腹を切る。」

毅然とし、まっすぐな背筋で歩む桔梗を風祭は見つめた。

「桔梗、銀疾風は絶対に取り戻す。」

「はい。」

いつもの笑顔に、風祭は無表情に歯を食いしばった。


*


鳴海湾、陽を受けて輝く海面を玄嶽参謀長、遠山勘解由が見つめている。

幕僚長護衛の為に本隊から外れ、巡洋艦「つしま」で待機していた。

その背後に東堂士郎少佐が現れる。

前特務機動隊総隊長、柏崎壮之助が亡き後、総隊長職に就いたばかりの

玄嶽生え抜きの侍である。

面長に短髪、厳しい表情。細身ながら、鍛えに鍛えた肉体が内から圧力を

噴き出しているような侍であった。

「参謀長、麻生中尉より定時の報告がありませぬ。」

「遅れか。原因はわかるか。」

御岳おたけ町に待機している荒井より、未だ到着叶わずとの事。道中で

なんらかの問題が生じたと思われます。」

「件の暗殺団絡みかもしれぬ。東堂、連者隊全隊で急ぎ不知火と合流せよ。」

敬礼を返し足早に退出した東堂の逞しい背を見送り、遠山はまた視線を

港湾の先の鳴海の街並みに戻した。

春の日の輝きに対し、その胸中に黒雲のような不安が広がる。

全幅の信頼を置く風祭を想起し、その思いを払拭しようとした。


*


芳雲寺と彫られた石標が苔むしている。

薄暗い山中、廃寺と思わしき荒れた寺社がひっそりと佇む。

閉め切った本堂の奥、暗闇の中に地虫のように蠢く一団がいた。

「くそ、さっぱりわからぬ。何の仕掛けが」

荒んだ身なりの武士が、その身に似つかわしくない純白の拵えの刀を

抜こうとしているが、かちかちと音を立てて鯉口を切る事が出来ない。

「鍵のような物が必要なのか。しかし羽のように軽い刀だな。」

「先生でもわからないので? 」

刀を受け取った総髪のさむらいが首を振った。

「あとふたり、おった。得物を持っているのは一人だったが、刀拆光に目が眩むのを

防ぐ為、鞘ごと剣を振っておったわ。今一人も短刀で矢羽をはたき落としていた。

使い手共だ。」

「本閥の侍とみて間違いありませぬな。」

「うむ。繋ぎが伝えた者以外では、駕籠かきはいなかった。峠越えで離脱したと

見える。」

「先生、如何しますので? 」

浪人と思わしき男達の数は十を超えた程、その中心に件の総髪の男が座り、魁音刀を

見下ろして酒を啜っている。

「鍵があるというのなら頂く。もう一本はあの女から奪うのは難しい。この一本はもし抜けずとも、鞘を砕いて流せば我等全員一生分の食い扶持にはなろう。」

その言葉に蠢く者達の目がぎらぎらと光る。

「ついでに件の官僚の命も奪えば良い。」

先生と呼ばれた男は刀袋に魁音刀を納め、ぼんやりとそれを見つめながら

茶碗酒をあおった。


*


春の空はかき曇り、重い雲が陽光を遮っている。

不知火一行は御岳町というこじんまりした宿場を通過、鳴海まで二里を

残し、西進している。

目立つ馬は宿場に置き、駕籠かきをあらたに雇った。四人の中年の駕輿丁が

汗をかきながら威勢よく歩く。

背後に遠くなった富士を見つつ、一面の緑の葦原に入った。

「朧丸。」

風祭の言に頷くと、編笠を脱ぎ、朧丸は先行した。

「賊は現れるでしょうか。」

「わからぬ。」

桔梗と風祭の言葉を聞き、太賀が歩み出る。

「恐れながら」

「連中は大佐の魁音刀を狙ってくるのでは。」

「何。」

浦部も恐る恐る口を開く。

「奴ら、暗殺が目的ではないように思いまする。」

「今朝の襲撃が千載一遇の好機であったはず、しかし差し向けたのは

雇われた野良浪人共。」

「使い捨てにして桔梗殿の刀を奪って逃げたようにしか思えませぬ。」

「私の刀が抜けない事を知れば、後は副長の……。」

「そう言う事で。」

会話が終わり、俯いていた風祭は顔を上げ、笑みを浮かべている。

「なるほど。では、望むところ。」


四半刻も進んだ頃。

前後に人の姿は絶え、吹き抜ける冷たい風に葦が波打っている。

見渡す限りの緑の原。

突如として葦を掻き分けて先行していた朧丸が現れた。

駕籠かき達に休憩を取らせ、護衛団は朧丸の元に集まる。

「街道で待ち受けている。数は五名。浪人だが今朝とは比べ物にならぬ。

戦支度をしている。軍上がりに見えた。」

「本閥の者はおったのか、忍び。」

「わからぬ。刀袋を持つ者がいた。恐らく玉杉中尉の魁音刀だろう。」

「よし。このまま進む。麻生と朧丸は先行し、退路を絶て。」

「承った。」

風祭の命を受けた二人は、葦の中に入っていく。すぐにその気配は

消え去った。

「太賀と浦部は駕籠の守り、襲撃があった場合、駕輿丁と共に戦線から

下がれ。」

二人は頭を下げると駕籠を挟むように陣取る。駕籠かき達は汗で塗れた顔を

強張らせている。あらかじめ襲撃の件は伝えてあった。

風祭は脇差を鞘ごと抜き、桔梗に渡す。桔梗は首を振った。

「本閥の者ならば、魁音撃で誅します。」

風祭はふと考え、その言葉を飲み込むように桔梗と頷きあった。


*


魂が冷えるような疾風が葦の原に波をかたち作る。

五名の浪人と思わしき者達が既に抜刀し、立ち並んでいた。

対峙する風祭は夫々の差料を一瞥し、中央の総髪の男に目が留まる。

手にした安物の拵えの刀とは別に、かすりの刀袋を持っている。

その視線に応えるように、男は袋の組紐を解き、純白の魁音刀を取り出した。

間違いなく、桔梗の銀疾風であった。

男は、骨ばった長身に浅黒い肌。顔に深い皺を刻み、髪の間から底光りする双眸が

見え隠れしている。風祭と桔梗を改めてゆっくりと眺めている。


黒髪をなびかせ、頬に朱を浮かべた桔梗の凛々しい瞳。

風祭は外套を脱ぎ捨て、均整のとれた長身に二刀を刺した武者姿。

男はやがて、口元を歪めた。

「うつくしい、出立ちだ。」

「不知火と見受ける。」

男達の背後の葦を掻き分け、音もなく朧丸と麻生が現れる。

男のことばに風祭は答えない。無表情に見つめながら、桔梗にだけ伝わる

囁きを漏らした。

「自らの魁音刀を持っていないな。」

「本閥の者ではないのでしょうか。」

「いや」

風祭はふと考え改めて口を開いた。

「本閥、吶喊白兵衆参、不知火。副長、風祭玲大佐である。」

堂々たる名乗りに歪んだ男の口元は閉じられ、凶暴な臭いを放ち始める。

「武士ならば名乗れ。」

踏み出そうとした脚が、風祭の一喝に留められた。

男は眉間に皺を寄せ、複雑な憎悪の表情を見せていたが、ふと、

全身の力を抜き、所在なく立ち尽くした。

「木屋宗蔵。元、玄嶽中尉。」

虚ろに名乗ると、片手をあげた。

一行の左右と背後を囲む様に葦の中から浪人達が立ち上がった。

手には火縄銃を持ち、手元からはすでに細い煙が上がっている。

数は六名、皆駕籠を狙っていた。

銃口が向けられた太賀と浦部は微動だにしない。

「幕僚を護送しているのは知っている。」

「この刀。抜く方法は」

木屋と名乗った浪人は銀疾風を掲げた。

「この者専用に打たれた刀だ。本人以外は抜けない。」

「ほう。では大佐、あなたの刀もか。」

男の言葉を受け、風祭はゆっくりと馳駆紫を抜いた。

鮮烈な白の火花が噴き上がり、低い振動音を発しながら刃が現れる。

「正式採用の刀だ。誰でも抜くことは出来る。士魂あらば。」

刀を抜いた本閥の侍に、浪人達は畏怖の表情を浮かべ急激に戦意が

萎む。が、木屋だけは鈍く光る眼差しで風祭を射るように見据えている。

大きく息を吸い、声をあげようとした刹那、気先を制される。

「交換だ。お前が奪った刀と。」

木屋はにやりと笑った。続けて風祭は叫ぶ。

「幕僚の殺害は我々の落ち度にはなるが、痛くも痒くもない。

撃つならばうて。報復としてお前達はこの場で鏖殺する。」

抜き打たれた刃のような言葉に、火縄を構えた者達にも動揺が走る。

仲間の動揺と恐怖を感じ取った木屋は叫んだ。

「待て。交換だ。我等はそれでいい。」



十二



風祭と木屋、互いに刀を差し出して、同時に網打ちで引き合う。

それが取り引きの約定となった。

冬のような風が二者の間を吹き渡っている。

駕籠の左右に立ち尽くす太賀と浦部は固唾を飲み、桔梗は半目で黙想する

ように静かに見守っている。


「ひとつ、ふたつ。」

「みっつ」

同時に刀が網打ちに引かれ、交差した。

「えい! 」

桔梗の気合い声がつんざく。

風祭とほぼ同時に桔梗が繰り出した網打ちが、空中の抜き見の馳駆紫を、

引いた。くるくると回転しながら飛来する馳駆紫を桔梗が掴む。

同時に風祭も銀疾風を握り、にやりと笑った。

「貴様」

「射刃」

木屋の怒号と桔梗の声が同時に奔った。

射出された桔梗の射刃は、通常の半分以下の攻撃範囲しかない。

が、その速度と距離はすでに魁音撃の基本である射刃と言えない程の

強力な技であった。

切先と物打ちと呼ばれる部位の範囲の爆壁が驚異的な速度で、

標的を撃ち抜く。網打ちの姿勢のままの木屋の左脇を疾風が走った。

同時に、鮮やかな血が脇から噴き上がる。

「先生。」

「こやつら」

跪いた木屋を見た浪人達はにわかに声を上げる。風祭は左手に

銀疾風を持ち、右手で脇差を抜きながら滑る様に前進した。

浪人者が懐から横笛を取り出したのを桔梗は見た。

吹き矢と気づき、魁音刀を握った時、我が身の不調に気が付く。

魁音撃を射出するだけの士魂が体内に残っていない。

大量の魁音撃を噴出し続ける攻撃、風祭の玉閻を使役するその馳駆紫は、

士魂の流通が太く大きく通る様、内部の芯鉄が変質していた。

使用者の「癖」を刀が受けているのである。

射刃の一射で桔梗の士魂は大量に消費されていた。

眼前の浪人者が笛を構える。風祭は気付いていない。

「とうりゃああ」

全身奮い立たせ、桔梗は破双で飛び出した。

空中でするどく脚を交差させ、笛を構えていた浪人の側頭部を

膝で撃ち抜く。全体重と破双の爆発力を利用した打撃に浪人は

吹き飛んだ。


葦原の中、火薬を撒き着火した朧丸は、飛鳥のように空中を駆ける

桔梗を見た。

突如として身一つで飛び込んできた女侍に浪人達は恐慌を来たす。

それを静かに歩み寄った風祭が、稲を狩る様に脇差しで斬っていく。

首筋を抑えて三人が倒れた。血煙が漂う。

「撃て、撃て」

周囲の火縄を構えた者達が絶叫した。

「ご忠信」

「お館様、ご忠信」

浦部と太賀が叫んだ。駕籠の左右に両の手を広げ立ちはだかる。

直後、重なる銃声と共にその身に銃弾を受ける。二人は崩れ落ちた。

射撃した者達は位置を変えながら第二射の為の弾を込め始めた。

が、すぐにその視界は煙で消失する。風上の朧丸が焚いた葦が大量の

白煙をあげている。

「見えぬ」

「先生は」

「やられたのは見た。」

叫んだ浪人は、煙と揺れる葦の先で、仲間が飛び掛かってきた者に

打ち倒され、胸に刃を突き立てられたのを目撃した。

火縄を投げ出し、腰の刀を半分抜いた所で背後から組み付かれ、

首筋を断ち切られる。

末期の力で刀を抜き切る寸前、眼前に回った女は柄頭を手で包み、ゆっくりと

納刀させた。刀を納めると同時に視界が真横に倒れていく。

息を引き取る寸前に玄嶽の紋を背にした女が、葦を掻き分けて

消えるのが見えた。


木屋宗蔵は脇の血の道を断ち切られ、左腕を抱えるようにして倒れ込んでいる。

地に自らの鮮血が広がっていく。止血もすでに手遅れであった。

怒号や刃鳴りが遠ざかる。視界がゆっくりと暗くなる。

その眼前に、桔梗がしゃがみ込んだ。

美しい純白の拵えの魁音刀を手にしている。

「抜いてみよ。」

桔梗の声に左手を差し出すが、血まみれの我が手に気づき、下げた。

ぶるぶると震える逆の右手をさしだして、柄を握る。

力が入らない。が、その刃はゆっくりと滑りながら姿を見せた。

白銀に輝く峯に雪のような白の刃文が散っている。ごく薄い刃は蜻蛉の

羽のようであった。

「銀疾風は滾らせた士魂を絹糸の様に細めて通さねば抜けない。

今のお前のように。」

桔梗の言葉を聞き、瞳に涙を溜めた木屋は柄から手を離した。

「うつくしい」

木屋宗蔵は絶命した。



十三



駕輿丁の一人が駕籠に駆け寄り、叫んだ。

「助三郎、格之進。」

その声に座り込んだ二人はよろよろと立ち上がった。

「お館。ご無事で。」

「見てくれ、浦部。掌に穴が空いたわい。」

撃ち抜かれた手の平の銃痕から太賀が向こうを見通し、笑っている。

蔭隆は偽装していた担ぎ手の頬かぶり姿で、安堵の笑みを浮かべた。

無論、狙撃された駕籠はもぬけの空である。

「よくぞ無人の駕籠を護られました。」

懐刀を下げた麻生が葦原から現れる。その顔、長着に返り血を

浴びた壮絶な姿であった。

浦部と太賀は懐から鉄の胸当てを取り出す。どちらも黒い弾丸が

食い込んでいる。

「誇りを捨てた侍は火筒を使う、か。朧丸に助けられたわい。」

「朧丸。かたじけない。」

太賀と浦部は姿勢をただし、同じく葦を掻き分けて現れた朧丸に

頭を下げた。

「頭の硬い爺には思い至らぬことだ。」

「こやつ、何でも煙に巻きおって」

老侍達は朗らかに笑っている。


風祭と桔梗は互いの刀を、腰に刺した。

「桔梗、よくぞ網打ちで馳駆紫を取り戻す意図がわかったな。」

「副長が抜いた時にわかりました。私が魁音撃で誅するといったので、

馳駆紫を使え、と言われてる気がしました。」

風祭は桔梗の言に満足気に深く頷く。

「それに」

「玲さんは、馳駆紫と引き換えにでも銀疾風を取り返してくれると

思っていました。その責めを負って切腹になるとしても。」

桔梗はまっすぐに風祭を見つめていった。

「馬鹿な。もう剣を奪われるような事はあってはならんぞ。」

あらぬ方を向いた風祭の横顔に桔梗が微笑んでいる。


*


東堂士郎少佐率いる連者隊二十名と不知火は合流した。

麻生叶中尉が直立で経過を報告している。

葦原を抜け鳴海平原のほぼ中央、幡川が鳴海湾に注ぎ込む中洲で、

全隊は急遽野営する事になる。

捉えた浪人達を早急に吟味する為であった。

捕縛された者共は、みな薊党であると名乗った。

和平派の幕僚を狙う極右集団である。

党内で流された情報により、私利私欲の為に戦を阻もうとする

幕臣を討つと思い込んでいた。

直接の吟味を行ったのが、玉杉蔭隆幕僚長本人であると知り、

驚愕する。それゆえ薊党内で流れた情報の出所は洗いざらい話した。

元々は敵対する同幕僚からもたらされたものであるという事で

あったが、事実と違う情報で体良く操られていたと見られる。

また、用心棒として雇われた「本閥くずれ」の木屋宗蔵の出自は

不明のままであった。

問題は情報を流したのが幕僚内の誰であったのか、という事である。


襲撃の翌日、不知火率いる護衛団と幕僚長は、連者隊と共に鳴海に入った。



十四



鳴海湾に面した環太積駐屯地。

広大な敷地に兵舎と作議所、兵站を備える基地である。

その武道場に幕僚長、不知火の二人と麻生、朧丸の姿があった。

見所けんじょに蔭隆と風祭が座し、その背後に麻生が控える。

三名が見下ろしている桔梗と朧丸は道着姿で、畳張りの道場の

中央で対峙、座している。


「大佐、桔梗は褒美が欲しい、といってな。」

蔭隆が微笑みを浮かべている。

「その褒美が此度の。」

「うむ。護衛任務を成功させたのだから、月光と模擬試合をさせろ、とな。」

「なるほど。そうでしたか。」

「あの忍び……朧丸は我が隊の頭目との模擬試合で勝負を分けた事が

あるのです。桔梗は今度は自分が、と常日頃申しておりました。」

「そうか。」

蔭隆は笑いながら膝をさする。

麻生は風祭の言葉を聞き、目を剥いている。


「はじめ。」

風祭の号令で二人は立ち上がる。無手での試合であった。

摺り足で距離を詰め、互いの攻撃範囲を確認するように拳を

ゆるゆると突き出す。

桔梗は朧丸の手刀を警戒し、屈みながら半歩下がる。その息を読み、

朧丸は鋭く踏み出し、打ち下ろすような下段の蹴りを放った。

桔梗の膝下、ふくらはぎ上部を音を立てて蹴りが痛打する。

桔梗の脚は跳ね上がるように飛ばされたが、一歩引いて脚を引き、

朧丸の動向を見る。

息をつくに見せかけて朧丸は再度踏み込み、逆の脚で桔梗の内腿に

下段蹴りを繰り出した。

派手な音と共に内腿が蹴り上げられ、桔梗は脚を投げ出すが、

その場でくるりと周り身構えた。

<柳、だ。>

朧丸は内心歯噛みする。

桔梗の細い脚に渾身の蹴りを当てても、吹き飛びはするが手応えがない。

またなんの損傷も与えていない事がその動作でわかる。

柳の枝を棍棒で払うようなものであった。


悪兵衛は超攻撃型の剣士である。先ずるのは炎のような気迫と共に

相手を滅ぼす激烈な攻撃である。

それを生み出すのは生来の気性と共にその体の遣いかた、特に独特な

上段構えからの撃剣であったが、当然全身の力と体重を対峙する

相手方向、前方に強くかける。

それゆえ、その芯となる利き脚を撃たれると、効く。

対して桔梗はあらゆる状況に対応する汎用型の剣士である。

その構えの体重の中心は中央からやや後ろにかかり、極端な話、

片足でも行動できるよう均衡を保つ姿勢をしている。

朧丸の蹴りの威力は知っていた。やや脚を浮かせるだけで、衝撃を

逃がし、ほぼ無力化出来る。そして……。

「打ってくるぞ、合わせろ」

風祭はつぶやく。自然、拳を握っている。

攻撃の起点である下段蹴りがそのままでは効かない事に、朧丸は

瞬時に対応した。踏み込み、平手での攻撃に切り替えたのである。

桔梗はそれを防御せず、突き出された平手に頭を向け、額が

擦れる様にすんでの距離でかわしつつ、自らの掌底を朧丸の右側頭

に当てた。

二人が同時に詰め、激突したかに見えたが、桔梗の強烈な掌底で朧丸は

意識が飛び掛けている。

「よし、みぞれで詰め。」

風祭は我知らず叫ぶ。それに応えるように桔梗は左右の縦拳、

連続の膝蹴りを繰り出す。朧丸は朦朧としながらもその連続攻撃を

上半身の運動と掌の払いで致命の打撃を躱す。

<鋭いが、軽い。決定打になるとすれば>

朧丸は劣勢でありながら、冷静に格闘の推移を考える。

<中尉が出すのは、あれだ。>

回し蹴りを仰け反って避け、そのまま後方転回で距離を取ろうとする。

三歩の距離が開いた瞬間、桔梗の戦意が大きく膨れるのを感じた。

「とりゃああああ」

裂帛の気合いと共に桔梗が破双で飛び出した。

刹那のその動きを、朧丸は捉えていた。

<そうだ。この膝打ちだ。そして>

桔梗の強力な飛び膝打ちを朧丸は読んでいた。命のやりとりを刀

では無く、無手で行う経験に裏打ちされた洞察であった。

あとは足刀を前蹴りで突き出せば、距離に勝る攻撃は桔梗の鳩尾に

決まる。終わりであった。

中空を駆けた桔梗は膝を繰り出さなかった。

前蹴りを突き出した朧丸の上半身にふわりと接触する。

柔らかく握られた右手首に倒れ込む桔梗の全体重がかかり、

ふり上げた脚が朧丸の首を挟み込む。

巻き込まれる様に二人は転がり、朧丸が畳を叩いて受け身をとった時、

すでに桔梗が腕十字を極めていた。

右腕に痛みよりというより、重い痺れが襲う。完全に関節を取られている。

朧丸は大きく息を吸い、身体を反らせる。

ごく、と太い音と共に肩甲骨の関節窩かんせつかから上腕の骨頭が外れた。

桔梗の力が抜けた一瞬を見計らい、朧丸は回転しながら脱出して

立ち上がる。右腕はぶらぶらと揺れ、筋が伸び切っている。

「そこまで。」

蔭隆が声を掛けた。

「幕僚長、まだ終わってはおりませぬ。」

朧丸は平然と声を発したが、額から頬にかけて玉の汗が吹き出している。

想像を絶する激痛に苛まれていた。

「それ以上の身体の損傷は任務に支障をきたす。認めるわけにいかぬ。」

静かな蔭隆の言葉に、両名は姿勢を正し、礼を交わした。

風祭が見所を下り、朧丸の右手を両腕で掴む。

「よし、肩をいれろ。」

頷いた朧丸は一歩引いて思い切り身体を引いた。肩を手で押さえて

片膝をつく。額から汗が流れている。

やがて立ち上がり右腕を回した。関節は元に戻されている。

「かたじけない。」

「よく冷やせ。筋が炎症を起こす筈だ。」

右手を握りしめながら、朧丸は桔梗に視線を移す。

「玉杉中尉、俺の負けだ。次は剣で勝負を受けろ。」

「のぞむところ。」

「朧丸。肩が平気なら今度は私だ。」

麻生中尉が拳をぼきぼきと鳴らしながら道場に降り立った。

「播磨少佐と分けたそうだな。私は一本取られた事がある。腕試しを

させろ。」

「待て、肩が痛い。」

「黙れ、陰足の話を信用できるか。」

「くそ、亀の石頭め。」

朧丸は壁を蹴ると、武者窓に肘を当てて格子を折る。半身を出して、

そのままするりと外へ逃げ出した。屋根瓦を走り去る足音がしている。


「桔梗」

満面の笑みを浮かべた風祭が桔梗を抱き上げた。

麻生も笑っている。

「桔梗殿、あの極め技は。」

「これは、もともと関節が得手なのだ。」

「飛び膝と霙打ちは、玲さん直伝です。」

三人の明るい笑い声が道場で響く。

桔梗はふと、父の顔を見た。

懐かしいあの笑顔であった。口元の動きで言葉がわかる。

「桔梗や、良し、良し。」





蜻蛉 了

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