第30話 ふたりの未来
ハインリヒの悲痛な表情を見たあと、ミランダの思考は急激に低下した。記憶も朧げになり、人の言葉も聞き取りにくくなった。呪いの影響で、普通の猫よりも思考力は低くなっていただろう。
ただ目の前の銀髪の青年のことは好きで、そばにいる灰色の猫は信頼できることだけは分かった。その後は何となく見たことのある人たちが目まぐるしく動き、ミランダはぼんやり眺めることしかできなかった。
だから自分を取り戻したときに、キスされている状況をすぐに理解できなかった。しかも相手は恋の相手であるハインリヒ。角度を変えられ、僅かに唇が離れたときにようやく正気に戻った。
「ハ、ハインツ様……もう……」
思わず彼の胸を押してしまった。呪いを解くために口付けをしていたことは分かったが、好きな人にキスされて平気でいられるわけがない。シーツを寄せ集め、顔を隠すように丸くなった。
「解呪は成功したと思ったんだが、丸くなって……アタシの弟子ははじめから猫だったかね?」
「……師匠、私は人間です。ただ現実を受け止めきれなくて。とにかく、ありがとうございます」
シーツの隙間から顔上半分だけだして、お礼を言った。
「ふふふ、まぁ解決して良かったよ」
師匠はホッと肩の力を抜いて笑った。その顔を見て、ミランダの鼻の奥がツンとした。
駆けつけてきてくれて良かったと、人に戻れて良かったと実感が湧いてくる。もちろん解呪できたのは師匠だけのおかげではない。
「ハインツ様も……ありがとうございます」
恥ずかしさで目線を合わせることが出来ない。人の思考が戻ってきたことで、猫の間に伝えてくれたハインリヒの情熱的な言葉まで甦ってきていた。
呪いが解けたということは、ミランダの気持ちも彼は伝わってしまっていて――
「俺の思いが届いてよかった。ミランダが同じ想いでよかった」
シーツの上から頭を撫でる彼の手は、安堵のためか少しだけ震えている。
「ミランダ……これからは俺がずっと守る。だからどうか、俺との将来を前向きに考えてくれないか?」
王子であるなら命じることもできるのに、ミランダの気持ちを汲もうとしてくれる。それがとても嬉しくて、素直に頷いた。
「わ、私で良ければ喜んで」
「ミランダ――ありがとう!」
ハインリヒはシーツに包まったミランダを軽々と抱きかかえた。彼の重心は揺れることなくしっかりとしているのに対し、ミランダの頭の中は揺れまくっている。
「ハ、ハハハハ、ハインツ様!?」
「さぁテーブルから降りて服を着よう。隣の部屋に用意してあるはずだ」
「自分で歩けますので、どうか」
「素足のあなたを降ろしたくない。頼む」
結局押し負けて、ミランダはコクリと頷いた。横目で師匠がニタニタ笑って見ているが、もうツッコむ気力はどこかへ飛んでしまっていた。
隣の部屋には初日から世話をしてくれた侍女が待っていた。ハインリヒは着替え用のカーペットの上にミランダをそっと降ろす。
「俺はまた父上たちのところへ戻るが、ミランダは今夜はもう休んでくれ。明日会いに来るから……いいな?おやすみ」
ハインリヒはシーツの上から額にキスを落とし、侍女にその場を任せ元の部屋に戻っていった。
「――へ?」
ミランダは額を押さえて、まだ上があったのかと思うほど顔を真っ赤にさせた。
ハインリヒが猫に戻るときにしていた当たり前の行動なのに、人の姿でされる破壊力のなんと凄まじいことか。せっかく呪いも解けたというのにまたもや思考力を手放した。
侍女に促されるままに着替え、与えられた部屋に戻りベッドに入る。気持ちが浮つき寝れないかと思ったが、ベルンの肉球とフワフワの頬ずりというラインナップのキャットセラピーにより、その夜はいつの間にか眠りに落ちていた。
◇◇◇
翌朝――ミランダの身は侍女によって丹念に手入れされ、着たこともない高そうなドレスで包まれた。事件の事だけならこんなにも着飾ることは無い。首元を飾る宝石ジェイタイド――翡翠のネックレスが選ばれたことから意味を悟った。
そして準備が整ったタイミングでハインリヒが約束通り、部屋を訪れた。
「ミランダ……すごく綺麗だ」
「……」
甘い言葉を口にしながら微笑む彼の姿を見て、ミランダは目を見開いた。体躯の良いラインが分かる騎士風の上質な礼服姿はまさに王子だった。淡く輝く銀髪とは対称に礼服は落ち着いた色で、コントラストが美しくよく映えている。
ミランダは思わず胸の前で手を組んで拝んだ。
「かっこいい……」
「気に入ってくれたか?」
「はい。見ているだけで幸せな気分になります」
「見ているだけでいいのか?あなたなら自由に触れても良いんだが」
この甘い男は誰だ――とミランダは拝むのを止めて疑いの眼差しを送った。寝ている間に新しい呪いにかかったのだろうか、それとも何かしらの副作用がでたのかと心配するが、魔女の気配は自分のものだけだ。
考えている間に大きな手の平を向けられた。その手にはもう肉球はついていない。
「さぁ行こうか」
「はい」
ミランダが手を重ねると引き寄せられ、自然とハインリヒの腕に誘導されエスコートの形に収まった。歩くスピードはヒールに慣れないミランダに合わせられ、覚束ない足取りを逞しい腕が支える。
一か月ずっと一緒に過ごしてきたけれど、寄り添って歩くのは初めてだ。ハインリヒが改めて素敵な異性であると意識せずにはいられない。
だからこそ不安もあるわけで――
「本当に私で良いのですか?」
ハインリヒとは身分が全く釣り合わない。彼が自分を求めてくれることは嬉しいが、自分のために他の大切なものを捨てるようなことはして欲しくない。
舞い上がっていた気持ちが少し落ち着き、現実にはだかる問題に臆してしまう。
「俺にはあなたしかいない。大丈夫。俺を信じて」
こうしてたどり着いた部屋は国王の私室のひとつだった。国王、師匠、筆頭宮廷魔女、そして近衛騎士のアンダーソン卿が待っていた。
「よく来てくれた。茜の魔女よ、今後について話をしてもいいだろうか?さぁ座ってくれ」
「失礼いたします」
国王に勧められたソファにミランダとハインリヒとが一緒に座る。緊張で俯きたくなるが、そっと背中に添えられた彼の手に勇気づけられしっかりと顔をあげた。
「ハインリヒから君と婚約したいとの話を受けた。しかし身分や立場上そのまま認めるわけにはいかないのは理解しているだろうか?」
「はい」
ハインリヒは次期国王ではなくとも直系の王族。対してミランダは子爵家の出身で、今は家とはほとんど関わりのない平民同然の魔女。身分の差はとても大きい。たとえ国王が認めたとしても、他の貴族の反発を無視することはできない。改めて突き付けられた壁にミランダの表情は陰る。
「そこで提案がある。この婚約の後見人としてアンダーソン侯爵家がつくのはいかがだろうか。茜の魔女の魔法と推理によってマリアローズ嬢の無実が証明できた。アンダーソン卿は感謝のしるしとして名をあげてくれたのだ」
アンダーソン卿に視線を向ければ、彼は力強く頷いた。
「そしてハインリヒから婚約後もずっと茜の魔女が魔女として生きていけるよう協力して欲しいと聞いた。先読みの魔女とも話したのだが、茜の魔女は今後しばらく筆頭宮廷魔女のもとに通ってもらう。宮廷で力を発揮し、実績を重ね、有用性を知らしめるのだ。腕のある魔女と分かれば、その稀有さから反発もでなくなるだろう。ハインリヒも宮廷の騎士団で働く。こやつを使えばいつだって魔法書が読み放題になるのだが、どうだろうか?」
宮廷魔女の様々な高度な魔法を見る機会だけでなく、しっかりと魔法書の閲覧許可まで与えられた。豪華すぎる待遇と約束を果たしてくれたことにミランダはハッと隣を見た。
「ハインツ様……わ、私は魔女を続けて良いのですか?」
「もちろん、ミランダが魔女だからこそ俺はあなたに出会い、助けられた。しばらく成果を知らしめるために、頑張ってもらうことになってしまうが……」
「とんでもありません! 魔法の勉強や仕事を頑張るのは私にとってはご褒美ですから。ハインツ様の隣にいても恥じない立派な魔女になります」
ミランダにとって魔女というものは手放せないものだ。何だって頑張れる自信がある。
するとハインリヒが一枚の紙を差し出した。
「では仮の婚約契約書にサインをして欲しいんだ。あとで父上と俺の手紙を添えて、ミランダの生家――ネヴィル家に書状を送るから」
「本当に婚約できるのですね」
呪いのことに精一杯で、一緒になれるなど昨日まで思ってもみなかった。それが両思いだと分かって、たった一晩たったら婚約。圧倒的な展開の速さに、夢見心地の気分だ。もちろんハインリヒが暗躍してくれたことは明らかで。
「ハインツ様、ありがとうございます。私はとても幸せです」
顔を綻ばせ素直な気持ちを伝えれば、ハインリヒは苦しそうに胸を押さえた。
「どうなさいましたか?」
「俺の婚約者が可愛すぎて辛い」
「か、かかかかかわ? 何か目に呪いが?」
この目つきの悪い顔が可愛く見えるのは重症だ――とミランダは慌ててハインリヒの顔を覗き込んだ。顔だけでなく耳まで赤い。
「これは呪ではなく病気かもしれません。熱があるかも……た、大変!」
「ぷ……ふはははは」
国王がたまらないとばかりに吹き出した。伝染ったように師匠も筆頭宮廷魔女もケラケラと笑いだしていた。
師匠が指先で涙を拭きながらミランダに忠告した。
「ハインリヒ王子は確かに病だねぇ。でも治しちゃ駄目だよ。恋っていう盲目になる熱病なんだからね。何してもアンタが可愛く見えるのさ」
「……ということで俺は大丈夫だ。心配かけた」
「は、はい。なんて恥ずかしい勘違いを……っ」
そのあと事件の報告の時間まで、甘酸っぱいような、甘すぎるような――そんな時間を過ごした。
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