第24話 道程

 風呂上がりの潤い残り立ち昇る体臭と洗剤の香り、噎せ返る思春期のフェロモンは強烈な香水と同等で、年頃の男子を虜にしてしまうカンフル剤の役割を果たしていた。

 そして目の保養。

 鼠色のタンクトップから浅黒い影を伝い双丘と谷間を覗かせている。

 勉強に集中しようとノートに目を落としても、静かな部屋に蠢く僅かな呼吸音が葵の心臓を忙しくさせる。


「眠いの?」


 隣の義姉の問いかけにドキリと胸が高鳴った。

「いやそんなこと―――」

「そう?顔紅いけど、疲れちゃった?」

 心配そうに顔を覗き込んでくるが、乗り出した拍子に彼女の胸元が押し潰されて、肩にかかった紐までもが緩みきっている。

「そうじゃないよ、えっとどこまでやったっけ」

 狂わされる調子を諫め自分を律する葵。机の上の時計は十一時を指していたが全然眠くならなかった。

「?」

 首をちょっと傾げただけなのに、可愛らしい日焼けた女子の顔付きが瞳に残る。

 昨日唐突に梨華に口付けをされた。それはほっぺたであったが柔らかさは未だ残っている。そして意識してしまい放課後は避けるように柚香に付き合ったのだが、体というのは正直であの柔らかさについてもう一度確かめたいという欲があった。

(って何考えてんだよ)

 先日恋だとか愛について持論を展開し柚香にぶつけたばかりなのに現金なものだ。

 薄っすら光沢を帯びる唇に意識が向いてしまう。

 それに肩に触れる二の腕の感触。

 中学の時に梨華と横並びで勉強をすることはあったが、流石にここまでではなかった。彼女も自重していただろうし。

 だからこそ打算的ではない、なんの下心もなくこうやってくる義姉は義弟にとって危険だった。


「葵?」


 その呼びかけに答えることもせず、切れ長の横目は段々彼女の方に向いてゆき、


「っ・・・」


 惚けたように見つめてしまう。


(ゴクリ)


 それまで平静を保っていた柚香も流石に喉奥を鳴らす。秘められた器官が滑るように音を発したのを葵は聞き逃さなかった。



 男女が見つめ合ってしまえば、それは何かの合図になってしまう。



 どうでもいい人間ならばそんなことには絶対にならない。

 心通った友人か親友ならなんの気持ちも抱かない。ただ沈黙に耐えきれず視線を逸らすだけだろう。


 けれど葵にとってやっぱり柚香は特別なのかもしれない。


 また柚香にとっても、秘めた想いを打ち明けるに相応しい異性なのかもしれない。


 あの朝、興味本位からきた就寝中のキス未遂ではない、目と目で通じ合う合意のキス。


 この瞬間は廊下と外の暗闇も排除されたのか、耳鳴りを起こすくらいの緊張感が部屋一杯を満たしていた。



 コトリ・・・



 葵は右手に握っていたペンを手元に置いてしまった。

 お互い体を向き合いはしないが、何とも言えない淫靡な雰囲気が漂い始める。

 柚香はかつての同級生の性事情について思い出していた。

 生徒数が数百人を超えれば必ず一人や二人ませている女の子っていうのはいるもので特に彼女が所属していた部活は運動部なのだ、有り余った体力をどこか別のとこで発散させるなんて日常茶飯事で、中二の頃には同級生が先輩とそういう行為をすませたって小耳に挟んでいた。

 柚香だって興味がないといえば嘘になる。憧れを抱いていたわけではないが屈強な体躯の先輩が機敏に動き回り黄色い声援を送られているさまを見て、それとなくあの大きくしなやかに伸びた筋肉質な腕に抱かれたらどんな気持ちになるんだろうって妄想をしたことがある。

 興味のないフリをしても男子更衣室のドアの隙間やデリカシーのない男子が覗かせる割れた腹筋を横目で盗み見て、自分の体に重ね合わせてみたりした。

 けどそれはあくまで妄想の範疇、誰にだってあることだ。

 だがしかし先輩の初めての痛さの詳細や流されてやってしまった同級生の失敗談は現実なんだ。



 そう、誰にでもいつか訪れる現実。



 そのありふれた一篇がこの部屋で紡がれてしまうだなんて、それは正しいことなのか?

「ちょっとタンマ」

 柚香はほんのりピンクに染まった葵の頬をむぎゅっと、親指と人差し指で挟み込む。

「むぐぅ」

 はっと我に返ったかのように正気を取り戻した葵は口を噤んで立ち上がった。


(あら)


 起立したあと柚香に背を向け、ベッドに飛び込む葵。その意味を理解した義姉も追うように立ち上がって、


「また明日にしよ」


 気付かなかったフリをして隣の部屋に戻ることに。


(あちゃ~)


 葵がああなったのは自分のせいなのか?散々あんなことを言っておいてたつとこはたつんだなってちょっぴりショックを受けたと同時に嬉しくもあった。


「あら、どうしたの?」


 自室のノブに手をかけるとちょうどリビングから上がってきた母に出くわす。

「んっ、勉強してた」

「そう、夜遅くまで偉いわね。葵くんはもう寝た?」

「寝た」

「あなたも早く寝なさいよ」

「わかった」

 心理的な変化を悟られないよう顔を背け声色を隠すが、


「・・・」


 母はその微妙な変化を見逃さなかった。


「まっ、ほどほどにね」


 去りゆく背中にお見通しだと警告を発しておくが、この年代の子供に意識するなと言うのは無理だろう。


(―――柚香は芯は強いし流されない子だけど)



 一線だけは超えちゃ駄目よ?



 そんなことを言えない自分に辟易し、同居生活に肝を冷やす亜妃乃なのであった。



 ♦♦♦♦


 明くる日、昨日の緊張感はキレイサッパリ洗い流されていて、気まずくない登校風景が通学路に浮かび上がった。


 それでも昨晩のことを意識してしまうと脳内がチリチリと火花を鳴らすので思い出さないようにしておく両者、凡そ三十分の道を早歩きで通過する。


「おはよ、昨日は改めてありがとう」

 柚香が教室に入ると、それを待っていたのか冬海が近づいてきて口頭で感謝の気持ちを告げられた。

「全然、冬海と話せて楽しかったし、葵もいい機会になったと思うよ」

「そう?それならいいのだけれど」

「それで今日は習い事?」

「ええ、木曜日は華道の教室に行かなくちゃいけないから」

「大変だね」

「別に、慣れたものよ」

「おっはーみやむー」

 冬海と話していると佐藤楓が話しかけてきた。

「おはよ、そのみやむーっての何?」

 会話を遮られて若干不機嫌になる冬海は置いておいて由来不明の渾名について尋ねる柚香。

「いや、愛称だけど?」

「さいですか、柚香でいいのにさ」

「いやいやいきなり女子の下の名前呼ぶ奴って、距離感ヤバすぎっしょ」

 軽薄そうな見た目の癖にそういうところは気にするのか。確かに男子は女子に比べ友好度を悟られたくないと思う節があるから、当たり前っちゃ当たり前か。

「そうだ、楓って勉強得意な方?」

「ん?いやこう見えて苦手じゃないけどさ、得意ってほどでも―――」

「なら放課後、明日のテストの復習でもしない?図書室とか近場のとこで」

 柚香は特に他意もなく、ごく自然に中学と同じように聞いてみた。

 彼は元バスケ部というのもあったしこの高校初の男子の話せる人なんだ、ここで仲良くなっておいて損はないと踏んだ行動。

 しかし結果的にこの光景を目の当たりにした冬海は嫉妬してしまう。もちろん態度には表さないが。

「マジ?」

「えっと、今日って放課後に部活動紹介あったよね?そのあとちょっとだけとか」

「けど何時に終わるかわかんないっしょ?」

 そうこうしている内に予鈴が鳴って、登校二日目の教室はどんどん静かになっていく。

「またあとで話そう。そだ、楓のライン教えてよ」

「おーいいよ」

 あっという間に交換される連絡手段。間近で窺っていた冬海はどうしてか勝手に彼女の行動に失望していた。いや本当自分勝手な理由で。

「私は蚊帳の外ですか」

「ごめんごめん、楓にも紹介するね?この子は―――」

 と言い終わる前にぷいと自分の席に着く冬海。それと同時に担任も入ってきて紹介しきることができなかった。

「わり、俺も戻るわ」

「あうん」

 楓は運悪く一番前の席で慌てるように自分の席に着く。

 柚香もまあいいかと年季の入った座り心地の悪い木製の椅子に腰を下ろし、高校二日目が始まった。


(なんだろう)


 そして斜め後ろの冬海をチラリと盗み見る。

 彼女はまるでいじけた子供のようにむすっと、頬杖をついてそっぽを向いていた。


(うーん、私が楓にとられたかと思った?)


 まさかそんなことないよねと思いながら教卓を注視する柚香。

 しかしその考えは強ち間違いでもなかった。



(・・・なんでモヤモヤしてんのよ私は)



 朝の憩いの時間を奪られた乙女、無意識に気が付かず初めての感情に苛まれる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る