猫の異世界旅行生活

渡辺猪狗

第1話 まあまあな猫生

 ご主人は時々異世界がなんとかと独り言を呟くことがある。イセカイ? と最初は思ったが、今日飼い主の読む小説の題名を見てようやく文字として理解することができるようになった。なるほど、「異世界」と書くのか。

 しかし文字なんて書き方すら知らない俺にとっては異世界なんて文字知ったところで何の意味もない。それより、もうそろそろ昼時だから大好物の鯖の缶詰が欲しいところだ。

 飼い主はいつも壁をカリカリしてやると缶詰をくれる。最近では爪研ぎよりもこっちのほうが目的で壁をカリカリすることが多い。

 やっと気づいてくれた。そうそう。それだ。その缶詰。

 ご主人が缶詰の蓋を開けて床に置くと、俺はさっそく鯖に食いついた。

 この魚の味、たまらない。

 食べ終えるのはあっという間だった。もっと味わって食べればよかったといつも後悔するのだが、この後悔は数歩歩けばすぐに忘れてしまう。

 さて、暇になってしまった。飼い主はまた本に夢中になっているし、玉を転がすのも少々飽きてきた。鼠の人形も餌じゃないと分かれば捕まえる意味がない。

 その時、窓が開いていることに気が付いた。おやおや、箱が積んであって階段になって上りやすくしているじゃないか。ご親切にどうも。

 俺は階段の丈夫さを確認してから登り始めた。もし不安定だったら、崩れてご主人に外に出ようとしていたことがばれてしまう。

 窓の縁に立つと、一度ご主人のほうを見た。日が沈んできたら帰る。

 俺は高くジャンプして家から飛び出た。外に出るのは何日ぶりだろうか。久々に隣の黒猫にでも会おう。

 俺は隣の家の柵を飛び越え、庭に入った。庭のど真ん中にその黒猫はいた。前回会ったのは一か月前だったか。前回あった時よりもまた太ってやがるな。

「よう」

「ん、ああ。お前か」

 黒猫は転がるようにして俺の方に体を向けた。俺は黒猫の目の前で腰を下ろした。

「お前の家の飼い主はどうだ。相変わらずかわいがってくれてるのか」

「ああ。おかげさまでまた一回り太っちまった。お前のところはどうだ」

「ご主人は本に夢中さ。異世界がなんとかかんとか」

「イセカイ?」

 俺が最初に思った時と同じ表情をしている黒猫を見て俺はにやりと笑った。

「そう、異世界」

「イセカイってなんなんだ」

「知らない」

 俺は肩を竦めた。

「ご主人は「異世界に行きたい」と言うから、恐らくこことは違う場所のことなんだろう」

「イセカイなんて場所聞いたことないけどな」

「ご主人が行きたいって言うほどだから、きっと天国みたいにいい場所なんだろう。俺も行ってみたい」

「俺は行きたくないね」

「なぜ」

「行くのが面倒だ。行くくらいならここで寝転がってたほうがまし」

 そんなに太ってたら歩くだけでも面倒だろうな。

 黒猫は突然驚いたように顔を上げた。黒猫と同じ方向を見ると、黒猫の飼い主が立っていた。黒猫は逃げようとしたが、何しろ太っている。簡単に捕まり、家の中に連れていかれてしまった。

 俺は庭から出ると、歩行者用通路を歩いた。珍しく誰とも会わない。

 静けさを堪能しながら歩いていると、小さな籠を持った男と出会った。何か嫌な予感がする。籠には何も入っていない。これくらいの大きさの籠ならぎりぎり俺は入れるが、まさか……。

 俺は男に警戒しながら脇を通り過ぎようとした。刹那、男とは反対の方向にある木々の影から、虫取り網を持った別の男が現れ、俺はまんまと捕まってしまった。

 

 それからのことは覚えていない。

 狭っ苦しい籠の中に入れられた俺は逃げることに必死で何も考えきれなかった。ただ扉を引っ掻くだけ。

 籠から出されたと思ったら、俺は暗い部屋の中にいた。他にも数匹、犬や鳥がいた。彼らもあの男たちに捕まえられたのだろう。

 何か変なにおいがすると思い、部屋の隅を見てみると、鍵のかけられた扉の隙間から白い煙が入ってきていた。なんだこの臭いは。過去に一度、飼い主に連れられて温泉に行ったときに似た嗅いだ。

 他の動物たちは藻掻き苦しみ始めた。唯一落ち着いていたのは俺だけだろう。俺は微笑を浮かべた。

 まあ別にいいさ。生きてたら誰だっていつか死ぬものだろう。別に何かやり残したことなんてない。唯一あるとしたらご主人に別れを言い忘れたことかな。まあ今となってはもう何もかもどうでもいいが。まあまあな猫生だった。

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