第29話 銀泉

 白いもやが漂い。

 乳白色の湯が満ちて。


 柔らかい香り。

 中は。思ったより広い。

 黒土壁とひのきの床。ランプは天井近くの高いところをぽつぽつ灯し、薄暗くも幻想的な空間を醸していた。

 ひのきの湯船。四、五人が入っても、手足を存分に伸ばせそうだ。

 湯は、あくまでも白く。

 白濁した湯は、光を散乱させ通さない。


 そう。


  

 


 勇者は呆然としながら、見詰めた。

 ・・美しい。

 

 むろん。明らかなる世界には、更なる光が満ちていよう。

 だが。密やかなる風景の。

 纏わりつくような、魅惑。

 消え入りそうな、儚さ。

 不明瞭で。未確定の。

 ・・故に引合い、求め合う。


 相関することで定まり、発現する。

 物質の根源的な、さがだ。



 ・・太古の森の奥深く

 隠れし泉は白銀の

 星降る夜に人目を避けて

 秘かに浸る天女あまびとの・・


 ・・長い黒髪 巻き上げて

 桃の白肌 朱に染めて

 犯せし男の視線を逃れ

 顎の下まで湯に沈め・・


 

 勇者はその美に、呆然とする。

 幽玄たる湯気をまとい。

 桜色の頬。熟した耳。

 ほつれた髪は、光る首筋に張りついて。

 伏せた瞳は、睫毛に隠れ。艶かしく。

 ・・得もいわれぬ、悩ましげなる姿。


 首から下は、白濁の湯に隠れたる。

 なのに。

 かほど官能的エロチックに魅せるのか?



 娘はちらりと勇者を見る。「きゃあ!」と叫んで背を向けた。

 「へ?」と慌てる勇者。一体どうした?

 後ろを振り向き、周囲を見回す。

 ・・特に、なんら異変もなく。


 あ。・・これかっ!!


 美がもたらす呆然たる感覚は。この世を際立たせ、自らを一介の観者へと引き離す。

 しかして。受動も能動も曖昧となり。

 やがて。

 枠は、溶け消え。


 ・・天へと回帰し。

 全ては、交ざり合い・・



 つまり、自らの有り様も忘れ。

 なにがしを、隠し忘れていた。

「しっ、失礼っっ!」


 なにがしを手拭いで隠そうとする。しかしなにがしは隆起を以てそれに雄々しく反発した。仮に姿は隠せても、その躍動は隠せない。生命が持つ力そのものだからだ。

 隠蔽を諦めた勇者は、手拭いを捨て手桶を持ち、白濁の湯を身に掛けた。そして素早くどぼんと白濁に身を投じた。湯はさほど熱くない。なにがしは白濁に消えた。いや、見えなくなった。


 見えぬモノは、却って人を呪縛する。同時に、無かったものと放逐し得る。窮地にある娘とは逆に、勇者は後者を選んだ。

 肩まで湯に浸ったまま、娘目掛けてすーっと進んだ。



「す、ストップっ!」

 娘が声を上げた。緊迫した声音だ。対する勇者は、うまそうな果実を眼にした猿のように、高揚を隠さずに応えた。

「え?なんで?隣に行きたい!」

「だめ!そこでストップですっ!」

「遠すぎるよ!2メートル以上離れてる!」

「お話もできるし充分ですっ!」


 確かに。充分であるはずだ。

 勇者はこれまで、幾度となく娘の行水姿を堪能してきた。その白く美しい裸体を秘かに愛でてきた。だがそれは、勇者のフレームで勇者世界の対象物を鑑賞したに過ぎない。

 だが今や。手の届かぬ距離とはいえ、身体をタオルで油断なく包むとはいえ。勇者の存在を明瞭に認識し、その羞じらいで全身を染め上げ縮こまる娘が居る。時と場を共有する二人が、今ここにある。

 勇者は白濁も澄み渡れとばかりに凝視し、娘は靄と共に消え隠れたいと汗を流す。

 互いの存在が、互いに相乗する。・・充分な効果だ。


 しかし。可能性のある限り、衝動に駆られどこまでも求めるのが人間だ。いや、生命の本性だ。


 勇者は、娘を真っ直ぐに見据えた。


「・・僕は今。リンちゃんと対面しその美を見詰めている。僕の眼には、余すとこなくリンちゃんの姿が映し出されている。あまりの可憐さに、身も心も蕩けそうさ。・・だが。その眼福を悦びつつも、リンちゃんの隣に並んで、その視界を共感してみたいとも思う」


 百も承知で狡いのだ。適度な距離で対峙すれば、なるほど隈無く観て取れる。逆に、近しく隣接すれば、理屈上は視野が狭まる。『そこに留まれ』と言うことが、『隈無く観て取れ』と云わんばかりの構図と成った。

 娘は頬を膨らませながらも、やむを得ないとばかりに俯いた。

「・・・触ったり、だめですよ・・」

「うん。大丈夫っ!」


 勇者はすーっと湯を進み、ぴとりと隣に陣取った。甘く柔らかいミルクのような香りが勇者を包む。娘は少し横に逃げた。もちろん勇者は横へ追った。

 娘の緊張が、湯を空気をぴりぴりと震わせ伝わってくる。だから、勇者はその心と裏腹に呑気な声を上げてみた。

「はあ~、いい湯だねえ~」


 呑気な声は、湯気とともにふわふわと天井まで昇る。天井を灯すランプの火が、微笑むように優しく揺れた。

 だが。顎まで湯に浸す娘は固まっている。

 勇者は構わずに進めた。

「古来から。温泉は信仰の対象だったものが多いけど、解るような気がするね。これは、つまり羊水だ」

「・・・羊水?」

「うん。体ばかりじゃない、心もほぐれるんだな。だからね、壁が崩れて除かれる」

「・・壁?」

「うん。人間なんて不自由さ。習慣、形式、建前、規則。なんだかんだと理屈をつけては型を作って填めていく」

「・・・」

「型はやがて、身の丈を越えて壁となる。そんな壁をせっせとこさえては、その中で窮屈な思いをしながら生きるんだ」

「・・・はあ」

「赤ちゃんはね。温かい羊水に包まれ心地よく眠ってる。壁などなく、もちろん裸さ」

「・・はい」

「僕らは知っているのさ。満ち足りた世界を。そこから追放され、だから躍起になって求めようとする。・・でも、僕らはもともと裸だったんだ。・・湯は、それを教えてくれるんだよ。まるで、神のごとしだ」


 場がほぐれる。かみ御業みわざか。

「なんだか。・・良いお話に聞こえます」

「ありがとう。壁は少し崩れたかな?」

 勇者がそう言うと、従者は少しムッとした顔で返した。

「壁なんて、そんなのないですっ」

「そう?壁と云っても色々だよ。常識だの羞恥心だの。・・でもね、僕は恥じらうリンちゃんが大好きなんだ。だって、恥じらいこそが人間最大の能力だから」

「はあ?」

 従者は怪訝な顔をした。勇者はにっこりと笑う。そして、白濁した湯のなかにある手を娘の太もも辺りに軽く置いた。

「ちょ、ちょっと!」

「恥ずかしい?タオルの上からなのに。大切なことだから、よく考えてみて。僕の掌がリンちゃんの肌に、直接触れているわけではない。リンちゃんの肌は、タオル生地を通じて

ごく僅かな圧力を感じているに過ぎないはずだ。ところが、まるで電気が走るようにびくりとして、身体が震えるほどの羞恥心に襲われる・・なぜか?」

「な、なぜって!」

「前にも話したけど、『羞恥心』というものは非常に重要なんだ。性愛のバロメーターにして、より良き姿を見せたいという、願望。そしてなにより。人間の『特殊能力』に深く関わっている」

「・・・・と、特殊、・・能力?」

「うん。好奇心と羞恥心。この二つが特殊能力を育む糧だ。好奇心とは謂わば『見たい』という欲求。対する羞恥心は『見られたくない』という表層を持つ、実に複雑な願望だ。好奇心は他の種族も備えるけれど、羞恥心を持つのは今のところ人間だけだ」

「・・・」

「だから人間は、他種にはない特殊能力の保有に成功した。羞恥心こそが、鍵なんだ」

「・・分かりましたから。・・手、どけて下さい」

「解っちゃいない」

「なんでっ!」

 娘がきっと眉を逆立てる。怒ったような表情が、何故だかまた色っぽい。

 見惚れる勇者は、娘に触れる掌の圧を、ほんの少しだけ強くして言った。

「リンちゃんに触れているのは、僕の掌そのものではない。触れているのはバスタオル生地だろう? 本来なら、バスタオルの感触を太ももで感じるだけのはずだ。ところが、実際のところはまるで違う。バスタオル生地の感触など消え失せて、『僕に触られている』という感覚だけが充ちている。そうだよね? これは、脳の働きによる結果だよ。脳内で活性している『重要な働き』に忙殺され、本来の感覚認識が疎かになっているからだ」

「・・・」

「つまりね。リンちゃんが羞恥心を感じるのは、脳内で『もしかしたらあんなことや、こんなことが始まってしまうんじゃない?』と空想しちゃっているからだ。なに、リンちゃんがしたくてしてるんじゃない。脳が勝手に始めるんだ。脳は知っているんだ。その空想がより深まれば深まるほど、それが現実に繋がり得ることを」

「・・・?」

「空想と相互作用するのが知識であり、それを産み出すのが観察だ。いや、観察こそが世界を組成していくのだが。・・まあ兎も角、空想を深めていくことが重要なんだ」

「・・・」

「思うに。好奇心や羞恥心によって深みへと達していく空想。それこそが、僕らの奥底に横たわる、生命の深淵が求める世界だ。僕らが勝手に作っているのではなく、生命の深淵が僕らに見せている世界なんだよ。・・つまりね、好奇心や羞恥心は、『導き』を知り悟る心、というわけさ」

「・・全然、わかりません」

「恥ずかしいのは、リンちゃんばかりじゃない。・・僕だって同じだ」

「・・え?」

「身体が震えるほどの羞恥心。・・なんでもない様な顔して、しゃあしゃあと喋っているけどね、本当のところ、僕だってくらくらしてぶっ倒れそうなのさ」

「・・うそ」

「本当だよ。掌、よく感じてみて。どうしたって、震えが止まらないんだ」

「・・・」

「恋い焦がれる人に、触れる。それは、猛烈な羞恥心を生じさせる行為だ。受け身ばかりじゃない、能動的な行為のなかにも羞恥心は生じるんだ。自らを、どこかで俯瞰しているからさ。その根底は、見られたときに生じる羞恥心と同じだ。より良く思われたい。より良く感じて貰いたい。ならば、その『より良く』とは、なんなのだろう?・・思うに、それこそが『深淵が求める世界』への道標みちしるべであろうと」

「・・こ、恋い焦がれる?」

「もちろん。寝ても覚めても、僕の頭のなかはリンちゃんで一杯だ」

「・・・」

「そのリンちゃんに、触れる。いや、実際に触れているのはタオル生地だろう。だが、リンちゃんが僕に触られていると思うように、僕は確かにリンちゃんを触っている。掌に、リンちゃんを感じているよ。タオル生地を乗り越えて、僕はリンちゃんと繋がっている。なぜなら。僕らはともに『羞恥心を共有している』からだ。・・共に導かれて、深淵が求める世界を通じ、僕らは繋がった」

「・・・つながった?」

「うん。深淵が求め創造する世界で、僕らはいま繋がっているんだ。触れ合い、羞恥心を共有することで、一方的な感情が双方向に交わり得る土壌が構築された。そして、僕らは更に空想する。『これからどうなるのだろうか?僕の掌は、この先どう動くのか?』・・リンちゃんは、どう思う?」

「・・わ、わかりません・・」

「思うところを有りのままに教えてほしい。共有したいんだよ。羞じらいのなかに潜むものは何だろう?・・期待?恐れ?」

「・・ちょっと、・・こわい、です」

「うん。恐怖は好奇心の裏返しだ。全く正当なんだ。リンちゃんが羞じらい恐れるもの、もしくは、僕の羞恥心と好奇心とを掻き立てるもの。それこそが、生命が求めるものだ。僕ら人間は、羞恥心と好奇心を原動力とする空想によって、生命が求める世界を知ることができる。だからね、リンちゃん」

「・・はい?」

「僕らは。・・リンちゃんが羞じらい恐れることを、推し進めていくべきなんだ」

「な、なんでよっ!」

「想像してみて。・・恥ずかしくて、こわいことを。より深く、より細やかに。それを想像したときの、自らを省みながら。その空想は、リンちゃんの心と身体を、どう変えていくのか。注意深く、見守って欲しい。僕もリンちゃんに伝えよう。僕がリンちゃんにしてみたい、数々のことを。それを想像すると、心や身体がどうなってしまうかも。・・おそらくその先に、生命が求める世界が、ある」

「・・・」


 娘は首まで真っ赤だ。普段、涼やかなその目元は、今にも涙が溢れそうだ。

 勇者ははっとした顔をして、慌てて頭を下げた。

「ご、ごめんなさい!つい調子に乗って、べらべら喋ってしまった!のぼせちゃった?」

「・・え?・・い、いえ」

「長湯し過ぎちゃったよね!本当にごめん!直ぐに退散します!七秒で服着るから直ぐ出てくれて大丈夫だから!廊下で待ってる!」


 言うなり勇者は立ち上がった。

 ・・なにがしもやはり、立っていた。

 潔くも赤裸々に。それは、娘の目の前で、天に向かって咆哮しているかのようだった。

(つづく)

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