後日譚

ex1 日魚子と爽のはなし (1)

 そうは最近、大量の岩牡蠣を手に入れたらしい。

 真牡蠣とはちがって、ごつごつした岩礁にくっついて生息するから「岩牡蠣」。爽の姉の透子とおこが知人からもらったものだそうで、翔太しょうたとふたりじゃ食べきれないからと冷凍便で送られてきた。そういうわけで、最近の爽の夕ごはんは牡蠣尽くしでぜいたくだ。

 じゅうじゅうと牡蠣を揚げるよい音を聞きながら、日魚子ひなこはローテーブルを台拭きでふく。去年引っ越した爽の新居は、日魚子のマンションからは電車で三十分くらいのところにあって、いまだに若干見慣れない。日魚子の隣室はまだ空いているので、「戻ってくればいいじゃん」と試しに言ってみたら、「敷金礼金また払うのかよ」とばっさり切られた。爽はへんなところでリアリストだ。日魚子だったら、べつに敷金礼金また払ったってとなりに住むと思う。だって、そばにいたいし。

 台拭きを畳んだ日魚子は、キッチンで牡蠣フライを皿に上げている爽の背中を確かめる。スーツにベストの三つ揃えは着替えて、無地の長袖にスウェットである。部屋にいるときのいつもの爽だ。

 爽がまだキッチンから離れなさそうなのを確認すると、日魚子は充電中の爽のスマホにそーっと手を伸ばした。そーっと、そーーーーっと。けれど、ケースの角に指が触れたところで、半開きだったリビングのドアがあいた。

「それ、俺のスマホですよ、芹澤せりざわさん」

「えへ。まちがえてしまいました、深木ふかぎくん」

 とりあえずにこっと笑ってみたが、爽は端正な顔を思いっきりしかめた。揚げたての牡蠣フライをいささか乱暴にテーブルに置くと、充電中のスマホをもぎとる。

「なに見てたわけ」

「いや、見れてないけど。メッセージアプリとか? 写真フォルダとか?」

 浮気の証拠って、だいたいそのへんに転がっている。過去の彼氏歴から、定期的にひとのスマホを確かめずにはいられない日魚子なのである。社会人になって三番目の彼氏は、実際それで妻子持ちなのが発覚したし。

「きもい」と爽は吐き捨てた。褒められないことをしている自覚はあったので、「すいません……」と日魚子は素直に謝る。

「でもそうちゃんもよくないと思う」

「なにがだよ」

「いまだに頭おかしいくらい女の子ほいほいじゃん。なんなの、稲刈り機でもめざしてるの? 女子ぜんぶ刈るの?」

 爽は女遊びをやめたが、依然たいへんモテる。

 社内の女子は相変わらず爽に熱視線を送っているし、取引先の女の子たちも根こそぎ爽に落ち、加えてカフェの店員やらクリーニングの従業員やら果ては病院の看護師さんまで、もう出会うひと出会うひとが爽に落ちる。すこしは漏れ出るものを控えてほしい。日魚子の見立てでは、隣室に住んでいる女子も爽に落ちている。日魚子は爽の部屋に入り浸るようにしている。爽の背中にこれは日魚子のものだって貼り紙をしておきたい。

「たとえが意味わからん」

「そうちゃん、最近女の子に誘われた?」

「……誘われてない」

「今、三秒間が空いたよね」

「べつになにもなってないから」

 うんざりした風に息をつき、爽は腰を上げて、炊飯器の保温ボタンを切った。うまく逃げられたような気もしつつ、これ以上詮索するとさすがに機嫌を損ねそうなので、日魚子は黙る。

 岩牡蠣はフライと酒蒸しになって出てきた。このあいだ食べたときは牡蠣の刺身と牡蠣グラタンだった。岩牡蠣は真牡蠣より身がおおぶりで、食感がよいのだ。ほかにはじゃことししとうの炊いたん、ごぼうサラダ。帰りにふたりで寄った酒屋で手に入れた辛口の純米吟醸をあける。いがいがした気持ちを吹き飛ばすように爽のつくるごはんはおいしい。

「……怒った?」

 ごはんを食べ終えて、食器を片付けると、日魚子は爽のとなりに座った。

 爽のとなりというのは、ここ最近日魚子が手に入れた場所だ。

 まえは対面だったり、斜め向かいだったりした。でも、どちらともなくとなりに座るようになった。それは日魚子のとてもすきな場所だ。所在なく抱えた足の指をもぞもぞさせたりしつつ、「もうしません」と日魚子は言う。スマホのことである。

「俺のスマホ、指紋認証だからあけられないと思うけど」

「んー、でも認証失敗したあとのパスワード画面が勝負なんだよ」

「きもい」

「はい」

 悪態をついているが、爽のまとう空気はおだやかだ。

 なので、頭を倒して肩に擦り寄せてみる。ちゃんとサインを受け取って、キスが降ってくる。日魚子はわりとキス魔だと思う。するのもすきだけど、されるのもすごくすきだ。キスしてキスしてって送るサインに爽はだいたいこたえてくれる。爽はキスが巧いと思う。でも爽がキスが下手でも、日魚子はいくらだってしたがると思う。

 たくさんキスをしたので、日魚子は爽の指をすこし引っ張った。

 これは別のサインである。今日は金曜の夜で、日魚子はこっそりメイクをがんばったし、ブラウスの下に着けているのは厳正なる審査を重ねた勝負下着である。レモンイエローでレースがかわいらしくふちどっているやつ。黒の総レースとか赤のシースルーとかでもよかったんだけど、やりすぎると噴きだされそうなのでやめた。

 頭に回っていた手が髪を撫でて、あらわになった日魚子の耳に唇が触れる。ひゃっとへんな声が上がった。噴きだされる。いや、そこは噴きだすところじゃない。爽は日魚子に回していた腕を解くと、床に転がっていたリモコンのボタンを押した。テレビがつく。よくわからないけれど、今日のいちゃいちゃはこれで終わったらしい。あれっと日魚子は思った。いちゃいちゃはやっぱり終了したらしい。


 実は勝負下着は一度も勝負してない。

 爽と日魚子がつきあいはじめたのが二月で、今は六月。もう四か月も経つのに、キス以外ほんとうになにもしていない。予想外だ。なにしろ爽である。あの女と寝ては捨て、寝ては捨てた爽である。

「じつはわたしたち、ほんとうはつきあってないんじゃないか」 

 ランジェリーショップのマネキンがつけているパールブルーの上下を眺めつつ、日魚子はつぶやく。最近見つけたお気に入りのショップなのだけど、この下着を手に入れたところで使うことはないのかと思うと、若干むなしくなってくる。

 いっそ黒にでも挑戦するかな、と首をひねっていると、

「あれ、芹澤さん?」と後ろから声をかけられた。

 相手を見て、日魚子は目を瞬かせる。

水城みずきさん」

 総務部の先輩、水城ひかるだった。

 いつもはシャツブラウスにスラックスのオフィスカジュアルが多い水城だが、休日だからか、かわいめのニットにオレンジのロングスカートをはいている。ちなみに日魚子はTシャツにオーバーオール、髪は後ろでまとめてピンを挿していた。

「買い物?」

 含みなく尋ねられ、「あ、えーと……」と日魚子は言葉を濁す。

 つられたようにショーウィンドウに目を向けた水城が「はっ」とあからさまに動揺した。日魚子が熱心に見つめていた先のトルソーが着ているのは黒のガーターベルトつきの下着である。控えめに言ってえろい。

「あの、買い物、今日はしないことにしたので……」

「あ、そうなんだ」

「はい……」

「……ええと、じゃあせっかくだし、近くでお茶しない?」

 微妙な空気を流すように水城が誘ってくれた。

 目を丸くしたあと、日魚子はちょっと感動して「はい!」とうなずく。

 日魚子は昔から友だちが少なくて、いまはほぼいないに等しい。当然、誰かとお茶するなんて、めったにない。

 水城は近くのデパートで、切れていた化粧品を買った帰りだそうだ。つれだって、パンケーキの写真が大きく出ているカフェに入る。

 休日だからか、店内はそれなりににぎわっていて、水城はコーヒーとリコッタチーズパンケーキ、日魚子は紅茶とミックスベリーパンケーキを頼む。どちらも生クリームが鬼のようにどっさりのっている。爽だったら、まずこういうお店には入りたがらないはずだ。ちなみに森也しんやとか大地は甘いものが好きで、女子が好きそうなカフェでもふつうに入ってくれた。

 話題は自然と恋愛のはなしになった。直前に日魚子が下着をガン見していたからかもしれない。水城は三年つきあった年下の彼氏とそろそろ結婚したいらしい。でも相手は結婚する気がないっぽくて、ちょっと困っているんだとか。

「芹澤さんは営業部の大地くんとつきあってたんだっけ?」

 リコッタチーズパンケーキを切り分けつつ、水城が尋ねた。

「あ、それは……」

 大地との仲は、公言していたわけじゃないけれど、知る人は知っていた。日魚子がわかりやすいので、水城も察していたらしい。周囲に向けて別れたという話はしていない。わざわざするような話でもないし。

 どうしよう、と考えたあと、結局素直に「わかれました」と日魚子は言った。

「いまはべつのひととつきあってます」

「ああ、そうだったんだ? わたしも知ってる人?」

「あー、幼馴染ですかね……」

 水城さんもご存知の営業部の深木爽です。

 ――って言ったら、どういう顔されるかな。引かれるだろうな。

 営業部の深木爽にちかづくな、と入社直後、親切で教えてくれたのは水城である。

 水城は爽とほとんど接点がない。それゆえに爽に気を引かれたこともないし、あいつ女をとっかえひっかえするやばいやつだって、軽蔑する目で見つめている。悪気はないし、水城はまともだと思う。

「そのひと、ずーっとわたしのそばにいたひとで」

 生クリームののったパンケーキを口に運びつつ、日魚子は言った。

「すきだったんですけど、そういう意味ですきって思ってなくて、でも最近わたし、このひとがほんとうにすきだったんだなってわかって、つきあうことにしたんですけど、いつまでたってもぜんぜんそういう雰囲気にならないというか」

「あー、それで下着……」

 やっぱりしっかり見ていたらしい水城がつぶやいた。

「ガーターベルトの力を借りるべきですかね……」

「それ日本人には難易度高くない?」

 真顔で返された。

 水城は基本的に常識人である。

「ずっと一緒にいると、切り替えるのがむずかしいのかもね」

「そうですか? わたしはわりと切り替えられましたけど」

「んー。じゃあ、相手が奥手なんじゃない?」

「おくて!?」

 日魚子はナイフとフォークを取り落とす勢いで顔を上げた。

「なんでそんなに驚くのよ」

「いや、ちょっとイメージが。あまりにちがくて」

 爽が奥手だったら、世の男たちは総員ひきこもりだろう。

 ただ、確かに切り替えというのはあるのかもしれない。とにかく一緒にいた時間が長すぎるのだ。いつもだったらつきあいはじめはもっと化粧だったり服だったり、相手の好みを探っていろいろ気合を入れるのに、二月以来、なんとなく爽の部屋に入り浸って、ごはんを作ってもらったり、だらだらお酒をのんだりしているうちに時間が過ぎてしまう。つきあうまえとまるで代わり映えしない。キスはするけど。

「水城さんは彼氏さんと普段なにしてます?」

「うーん、ふつうに買い物いったりとか?」

 スーパーならよく一緒に行くな、と日魚子は考えた。

「映画見に行ったり」

 そうちゃんとは映画の趣味があわないんだよな。

「あとは家……?」

 日常すぎてどきどきがどこにもない。

 というか、日魚子は過去にひと月くらい爽と暮らしていたことがある。

 森也と殴り合いの喧嘩をして別れたあと、仕事をやめて、生きる力がゼロになっていた日魚子を爽が世話していたのだ。ぐんにゃりして動かなくなった日魚子を爽は自室に連行して、うどんとかお粥を作ってくれた。あの頃は爽のベッドを借りて寝てたし、洗濯もしてもらってたし、はじめのほうとか髪も洗ってもらってた。日魚子がぐんにゃりしてほんとうに動かなかったので。

 爽からすれば、いまさらおまえの裸体に目新しさもねえよってやつなのかもしれない。

 あのひと、日魚子がへんな声出したら、噴きだしたし。

 そういう空気のときに噴きだすってひどくない?

 ――恋。

 恋ってなんだろう。

 あのひとのことすきだけど、すきの時間が長すぎて、今さらどきどきも、きゅんきゅんもない気がする。一生、お互いない気がする。もうすこしふつうの出会い方をしていたら、せめてふつうの幼馴染とかだったら、世の中と同等品っぽい恋ができたのかもしれないけれど。たとえば、手をつなぐだけでどきどきしたり赤くなったり? ありえなすぎていっそわらえる。

「でも確かに気をつけたほうがいいとは思うよ」

 リコッタチーズパンケーキをぺろっと胃袋におさめた水城は、お代わりしたコーヒーに口をつけた。

「友だちからはじまるとそれで関係が固まっちゃうというか。十年つきあったのに結局別れて、三か月つきあっただけのひとと結婚したとかよく聞くからね」

「十年つきあってわかれる……」

「いや、もしもの話だよ?」

 ひえっと日魚子は息をのんだ。

 思った以上にまずい状況かもしれない。

 なにしろだらだら二十年以上つきあってきた相手である。

 このままだらだらを続けると、あっというまに五十になってしまう。

 まずい。勝負下着、勝負してない場合じゃない。


「そうちゃん、デートしよう」

 水城と別れると、日魚子はさっそく爽に電話をかけた。爽は夕飯の下ごしらえの最中だったらしい。火をとめる音がして、「は? なに?」と訊き返される。

「デート。どこか行こうよ。ほら、もうすぐわたしたちの誕生日でしょ?」

 日魚子と爽はおなじ街でおなじ日におなじ病院で生まれた。

 子どもの頃は一緒に誕生日を祝ってもらっていたくらい。

 ちなみに大人になってから祝い合ったことはない。互いに相手がいるときは別々に過ごしていたし、そうじゃないときも、日魚子はひとりぶんのケーキを買って、爽はケーキはいらないって言って、代わりにちょっと高い日本酒をあけるくらいで済ませていた。今年から急に祝うのはへんなかんじだけど、とりあえず一緒にはいたい。幸い、誕生日は休日だ。

「いいけど」

 爽はあっさり了承した。

「どこ行きたいわけ?」

「えっ」

 勢いで電話したので、行き先は考えていなかった。

 えーとえーとと考えて、「あっ」と思いつく。

「水族館。水族館いきたい!」

 爽はちょっとへんな間をあけたあと、「いいよ」と言った。

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