12 爽、逃避する。

 いつもより早く部屋を出ると、同じタイミングでとなりの扉がひらいた。

 こちらにきづいた日魚子が、思わずといったようすで「あっ」と声を上げる。

「……おはよう。もう出勤して平気なの?」

「おかげさまで」

 高熱で朦朧としていた爽を日魚子が病院に連れて行ったのが数日前。

 処方された薬をのんで眠り、翌朝になる頃には熱はだいぶ下がっていた。その頃には日魚子はそばにいなかったが、冷蔵庫のなかには湯せんのお粥やスポーツ飲料が所狭しとおさまっていた。買っておいてくれたのだろう。

 メッセージのやり取りはしたけれど、顔を合わせるのは数日ぶりになる。

「あー、そうだ。タクシー代」

 爽は財布から千円札を数枚取り出す。

「べつにいいよー」と日魚子はわらったものの、「いいから」と押しつけてしまうと、素直に受け取った。

 マンションを出て、駅までの道のりを並んで歩く。会社の人間はこのあたりには住んでいない。とはいえ、さすがに一緒に出社するのは避けたいので、駅で電車を一本ずらすか、車両を変えるか。

 すでに八月も終わりに近いが、残暑は引かない。じりじりと焼けつくような陽射しに辟易としつつ、数歩まえを歩く日魚子に目を向ける。夏になってから、日魚子はセミロングの髪を後ろでまとめていることが多くなった。白く透きとおったうなじがブラウスの襟首からのぞいている。

「あのさ、そうちゃん」

 ふいに日魚子が振り返る。べつにやましいことを考えていたわけではないのに、視線が急にかち合うとぎくっとする。

「あの夜……」

「夜?」

 訊き返すと、日魚子はためらうように口をひらいたり閉じたりしてから、「やっぱりなんでもない」と首を振った。歩調がすこし早くなり、爽との距離がひらく。

 熱で朦朧としていたため、あの晩起きたことについて爽はほとんど覚えていない。

 ――ということにしている。

 そんなわけがない。そう都合よくひとの記憶は問題箇所だけ飛んだりしないし、何もかも覚えている。唇を合わせたときに吹き込まれたあえかな吐息や、指に絡んだ髪がすこし冷えていたこととかまで。

 ただ、日魚子を引き寄せたときは夢だと思っていた。

 日魚子はその日は大地とのデートがあると言っていたし、部屋の合い鍵を渡したままだったことも忘れていたので、目をひらいたら、突然かたわらに日魚子がいたように思えた。高熱でいろんなものが緩んでいた。夢なら何をしてもいいか――と油断したのが失敗だった。

 きづかれただろうか。爽は注意深く日魚子の背を見やる。

 爽が別の女と日魚子をとりちがえた、と先に言ってきたのは日魚子だ。すぐに同意したが、正直、あのときの自分の演技にあまり自信がない。万一、日魚子が爽の想いにきづいたとしたら――と考えて、それはない、とすぐに断じる。

 いったい何年この関係を続けてきたと思っている。一緒に暮らしていたときですら、日魚子と爽が色めいた雰囲気になったことはなかった。ただの一度も。

 それに、ひとの心の中なんて結局他人には測りようがない。あの晩のことは忘れた、覚えていないと爽が言い張れば、その真偽を推し量るすべは日魚子にはない。はじめからぜんぶなかった。なかったことにできる、今なら。自分の親たちの二の舞は演じない。

 女の背から視線を外し、爽は胸のなかでだけ、ごめん、と謝罪を口にする。

 

  ◇◆


 シャワーを借りた浴室から出ると、美波みなみはベランダで煙草を吸っていた。

 短パンとキャミソールに室内着のカーディガンを羽織っただけの恰好で、夕暮れの街を眺めている。風が荒い。夜半過ぎに台風が関東地方に接近するというニュースを今朝がた見たことを思い出す。

 爽にきづいた美波が「吸う?」と煙草の箱を振る。とくにそういう気分でもなかったので、「いらない」と言って熱の引いたベッドに寝転がった。

 美波が喫煙者であることを爽は部屋に上がるようになってから知った。

 外での美波は、いかにも女子っぽいゆるふわパーマにフェミニンな服とメイクを好み、煙草もお酒も苦手です、という顔をしている。でも実際に上がり込んだ部屋は、物が少なくシンプルで、冷蔵庫にはビール瓶とつまみがどかっと入っている。薄荷のような冷たい香りがする煙草が美波の好む銘柄で、夜ひとりでくゆらせているのを見ることがある。

「咽喉かわいた」

「冷蔵庫から適当に出していいよ」

 遠慮せず、勝手に冷蔵庫をあけて、小ぶりのビール瓶を取り出す。キッチンの壁にかけてあった栓抜きで、王冠型の栓を抜いた。

「爽くんってなんだか猫みたい」

「そうかな」

 爽がマンチカンを飼っている話は美波にはしていない。

 携帯用の灰皿に煙草の灰を落とし、美波がふふっと咽喉を鳴らす。逆光で表情はよく見えないが、苦笑しているようだ。

「だって、わたしのことそんなに好きじゃないよね」

「好きだよ」

「そう? たくさんある家のひとつってかんじ」

 よく勘違いされるが、爽は二股をかけたことはない。ただ、つきあうのと切り捨てるスパンが異常に早いだけだ。美波とは五月の合コンのあと何度か寝て、そこで途切れたつもりだったのに先月あたりからなんとなくつきあいはじめた。はじめは日魚子にまとわりつきそうなら、適当に弱みを握って追い払おうと思っていた。けれど、何度か会ううちにわかってきた美波の性格は存外さばけていて、日魚子にも興味はなさそうだった。

 日魚子は美波をマウント女子だと称したが、ひとを見境なく貶める美波の本性は、悪というより虚無で、味のついていないサイダーをのむようだ。空っぽだからいつも落ち着かなくて、中に何か詰まってそうなひとを見ると無性に苛立って攻撃する。嫌な奴だと思う。でも爽はそういう美波がわりと好きだ。物が少ない部屋のシンプルさとか、勘が鋭いところも。嫌悪と好意はわりと両立する。

 美波のほうはばっさりと爽の顔が好きだ、と言う。

 ほかはどうでもいいらしい。顔のいい彼氏を持っている自分に浸りたいから、次の彼氏ができるまでは爽とつきあってもいい、と言う。爽はだから近頃、仮住まいのように美波の部屋に入り浸っている。

 あの晩以来、爽は日魚子がいる時間にあまり部屋に帰っていない。

 爽が夕飯前に帰宅して、日魚子も家にいると、ふたりで夕飯を食べるのが自然な流れになる。それが億劫だ。かといって、一緒に食べなければ食べないで、何かを意識しているようでおかしい。

 結局、爽は彼女とのつきあいで忙しいということにしている。日魚子も日魚子で、大地とはうまくやれているはずだから、休日はいない日のほうが多い。こんな風にすれちがったまま、数か月くらい経てば、またもとに戻るだろう。そのための仮住まい。

 事情は話してはいないが、美波はときどきふらっとやってくる爽を好きにさせている。美波にとっても次の彼氏までのつなぎ。互いの穴を埋めているだけの相手は、後ろめたさを感じなくて済むから楽だ。

 煙草を吸い終えた美波は、ガラス戸を締めた。

 昼の熱を残した夕風がするんと吹き込んで途切れる。ベッドのスプリングを軋ませて、美波は爽のとなりに腰掛けた。

「春から会社に入った新人の女の子、きもいんだー」

「ふーん?」

「ときどきいるよね、ああいう天然育ちのいい子っていうか。いつも一生懸命で、明るくて、愚痴のひとつもこぼさないで、もうおなかいっぱいってかんじ。訊いたら、高校時代の彼氏とずっとつきあってるんだって。漫画かよって」

「で、また陰口叩いてんだ?」

「叩かないよ。いま叩いたら、わたし、イタいひとだもん。まあ彼氏と別れたら、尾びれと背びれと胸びれくらいはつけるかな?」

 さすが美波はひとを叩くときの時機みたいのがわかっている。

 そういえば、日魚子が取引先の妻子持ちと不倫した噂を流したのも、ふたりが破局した直後だった。たぶん美波が好きじゃない人間はそこらじゅうにいて、その誰かがぐらつき始めたとき、ここぞとばかりに攻撃を仕掛けるのだろう。性悪女だが、美波という人間自体はさらっとしていて他人に無関心だ。日魚子のこともたぶん、再会するまで忘れていたと思う。

「ひとを貶めるのって楽しい?」

 とくに責めるでも軽蔑するでもなく爽は尋ねた。

 爽もあまりひとに胸を張れる行いはしていないが、わざわざひとを貶めるのはカロリーを消費するので面倒くさい、と思う。美波は爽とちがって、ひとを貶めたときに脳内に快楽物質が出るのだろうか。

「べつにたのしくない」

 美波はふるっと首を振った。爽の膝のうえに甘えるように頭を横たえる。

「というか、なんであのひとたち、みんな楽しそうなんだろうね? わたしからしたら、そっちのほうが不気味だよ。もっと俯いて生きろよ」

 美波の言い方があまりにあけすけなので、爽は思わずわらってしまった。

 顔を上げて生きろはよく聞くが、俯いて生きろははじめて聞いた。

 でも案外、みんな他人にはそんなこと思ってそうだなって思う。爽も思っている。たとえば大地とか。苦手だ、と思いつつ、ほんとうは大地のどっしりした寛容さとか、さいごに絶対まちがえなさそうなかんじとか、羨ましくて、妬ましくて、だからこそ、ヘマをすればいいのに、とどこかで思ってもいる。日魚子の歴代彼氏みたいに、こいつもただのクズだったら――クズだったらたぶん爽は本気で憤るのに、きっと安堵もする。

 爽はほんとうに日魚子のしあわせを願っているのだろうか。実はずっと死ぬまで、不幸でいてほしいんじゃないか。そのほうが爽には都合がいいから、日魚子のそばにいられるから。考えていると、結局どこまでもクズなのは自分のほうで、それ以上突き詰めるのがしんどくなる。楽なほうに、流されたくなる。美波のただしくなさは、居心地がいい。とても。とても。

「あんまり入り浸ると、貸しひとつにするよ」

 爽の膝に頬をくっつけたまま、美波がくすっとわらった。

「今、人恋しいんだよ」

「猫のくせにね」

 笑みを深めて、美波はゆるやかに身を起こした。爽の首に細い腕をまわすと、猫のようにじゃれついてくる。


 その日は結局、泊まりはせずに美波の部屋を出た。

 台風の接近で、大雨注意報が出始めている。電車が動いているうちにマンションに帰ったほうがいいと思った。

 最寄り駅に着くと、すでに小雨が降りだしていた。木の葉を揺らす荒っぽい風に髪をかき乱されながら、爽はまだ夜九時前なのに人気が失せた道を足早に歩く。

 ほどなく見えてきたマンションのエントランスで、微かに言い争う男女の声が聞こえた。こんな日にいったい何で揉めているのだろう。辟易としつつ目を向けると、

「なあ、頼むよ。一晩でいいから泊めてよ、ひなちゃん!」

 聞き覚えのありすぎるなまえが飛び出した。

 日魚子の両肩にすがるように手を置く男は大地ではない。もっと年上の、爽は知らないひょろっとした男だ。傘を持っていないのか、髪やシャツからは水滴がしたたり落ち、声の荒げ方からしてふつうのようすではない。男は必死の形相だが、日魚子の表情は無である。といって相手の手を振り払うでもない。

 息をつくと、爽はふたりのあいだに割って入った。

「あんた誰?」

 日魚子の肩から無理やり男の手を外して、ねじり上げる。

 痛い、痛いっ、と喚く男がうるさくて、ぱっと手を離すと、「き、君こそ誰だよ!」と目を赤くして言い返される。ポメラニアンがきゃんきゃん吠え立てるのをほうふつとさせる男である。見たところ、爽より十歳ほど上――三十代半ばか。

「こいつの隣人だよ。で、あんたは何。こいつに何の用?」

「なんだ、ただの通りすがりか」

「ああ?」

 ただでさえ、面倒ごとに巻き込まれて苛々しているので、怒りの沸点が低くなっている。それに日魚子で男とくれば、ろくなことじゃない。こぶしを固めて男の襟をつかみ寄せようとすると、「そうちゃん、待って! ちがうから!」と日魚子があわてた風に口を出す。

「何がちがうんだよ」

 爽は冷めた眼差しを日魚子に向けた。

「おまえこそ、きやすく肩をつかませるな。振り払えよ。ずるずる流されて、おまえはいつもそうなんだよ」

 日魚子はさっと傷ついた表情をした。でもだいたい真実だ。どうせまた過去に惚れたダメ男のひとりだろう。情にほだされて、流されて、深みにはまる。いつもの日魚子のパターンだ。

「ごめん……」

 唇を噛んで、日魚子は爽の腕に触れた。

森也しんやさんは、前の会社の取引先のひとなの」

 その説明で爽はピンときた。

「……妻子持ち不倫男か」

「ソレです」

「なんでここにいるんだよ」

 妻子持ちがバレたあと、日魚子とこいつは素っ裸のまま殴り合いの喧嘩になって、最終的にこいつは日魚子に歯を折られて別れたんじゃなかったのか。

 無意識にか、あのとき青あざを作った頬に指で触れて、日魚子は口をひらいた。

「わたしのことが今さらばれて、家を追い出されたんだって。ネカフェを転々としてたけど、貯金がなくなっちゃって、あと台風が来そうだから、一晩泊めてほしいんだって」

 淡々と告げる日魚子に、さすがの爽も呆れた。

「なんだその虫のいいはなしは」

 やっぱり一発殴ればよかったのか?

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