09 日魚子、墓参りにいく。

 新潟の夏は涼しい、というのは嘘八百だ。

 確かに新潟の冬は厳しい。毎日雪曇りが続いて、日本海に面した故郷の街では、朝夕となくどさどさ雪が降る。けれど、夏も同じくらい厳しい。ひとが生きるのに適していない場所だと思う。

 蝉がわんわん鳴きたてる坂道を、日魚子は花を腕に抱えてのぼっていく。となりでは爽が水の張った手桶を持っている。霊園は高台にあるので、この時期の墓参りはしんどい。辟易としているのか、お互い無言だ。潮風を受け続ける雑木林が細い枝をしならせている。ようやく出口が見えてきて、日魚子は知らず息を吐いた。

「夕方になっても、ぜんぜん気温下がんないね。朝来るべきだったかなあ」

「どうせ変わらねーよ」

 悪態をつく爽は、日魚子よりも芹澤家の墓の位置をちゃんと覚えていて、ちいさな墓をすぐに見つけてくれる。手桶を置いた爽が近くに生えた雑草を摘む。日魚子は抱えていた花を花立に生けようとして、軽く眉をひそめた。花立には枯れた菊の花が無造作に挿してあった。

「ここ、わたしたち以外にも来るひといた?」

「なんで?」

「覚えがない花が挿してあるから」

 日魚子の父や祖父母が眠る墓だが、父に兄弟はいなかったし、日魚子以外で墓参りをするひとが思い当たらない。ひとり思いつく人物がいたものの、すぐにそんなわけがない、と打ち消す。これまで母が父の墓参りをすることはなかった。当然だろう。死んだ父を裏切って、となりの家の妻子持ちの男とお手軽な不倫をした女がどの面さげて墓前に立つというのか。

 けれど、これは母だ。母が手向けた花だと、直感でわかってしまい、日魚子は花立から枯れた花をまとめて抜き取った。「なんだかきもちわるい」と言い訳をして、水分が抜けた菊の花を手折る。爽はちらりと日魚子の手元に目を向けただけで、何も言わずに柄杓で墓石に水をかけた。石が黒く濡れていく。日魚子は手折った花の代わりに、行きがけに買ったみずみずしい白菊を生ける。

 墓石のまえで、ふたりで手を合わせた。

 生まれてすぐに事故で死んだ父の記憶が日魚子にはほとんどない。写真に映る父は、細いフレームの眼鏡をかけた、物腰のやわらかそうなひとだった。大学で文化人類学の准教授をしていたという。日魚子が物心つく頃には、父の部屋は母が子ども部屋に変えていたが、押し入れのなかには父の遺品らしい大量の書物がまだ残っていて、父といえば、あの紙のにおいを日魚子は思い出す。母と縁を切った今となっては、日魚子のたったひとりの家族。言葉を交わした記憶はないけれど。

「ひなはずっと菫をゆるさないのか」

 先に目を開けたらしい爽がふいに尋ねた。

 脳裏に浮かべていた面影を言い当てられて、心臓が跳ねる。

「ゆるさないよ。あたりまえでしょう」

「ひながゆるせないのは、菫が不倫したこと? それとも自分を置いてうちのおやじと逃げようとしたこと?」

 日魚子は頬をゆがめて、爽を睨めつける。父の墓前でそれを訊くのは反則ではないだろうか。だが、父母の不倫は日魚子と爽にいまだに根深く突き刺さっていて、普段はとても口にすることなんかできない。それでも、いつだって忘れたことはないと互いに知っている。爽が深木清文きよふみの息子である限り、日魚子が芹澤菫の娘である限り。

「『すみれ』」

 けれど、口をついて出たのは別のことだった。

「――ってなに。ずいぶん近しい呼び方だね」

「おまえの母親って言ったほうがよかった? これでも気をつかったんだけど」

「そうちゃん、あのひととまで寝てないよね」

 我ながらすごいことを訊いているなと思ったけれど、爽にはなんだかそういうところがある。インモラル? ふしだら? 爽をたとえるにふさわしそうな言葉はたくさんあるけど、でもそうではなくって、爽の愛情はわかりづらくて、やさしさもわかりづらくて、それはふつうのひとの尺度と価値観でそうだとわかるかたちをしていない。だから、考えられないようなことをする。爽は爽の理屈で。日魚子ほど爽という人間を知っているひとはこの世にいないと思うのに、だからこそ爽のことはいちばん謎めいていてわからない。

 爽は軽く目をひらいてから、ふはっと噴き出した。

「俺をなんだと思ってるんだよ」

「なら、いいけど」

 でも、そうちゃんはあのひとと会ってるよね。

 続く言葉をなんとかのみこむ。

 すみれ、という呼び方ひとつでなぜか直感してしまう。爽は母親と会っている。しかもここ最近。寝てはいないかもしれないけれど、あなたはわたしに何も言わずにわたしの母親と会っているでしょう。訊いても爽が口を割るようには思えない。この幼馴染に急に裏切られたような気分になる。

「わたしがゆるせないのは、あのひとの愛が雑だったからだよ」

 ふたつに折った菊の花をさらに折りながら、日魚子は続ける。

「不倫はしちゃいけないことだけど、でも、好きになる気持ちが止められないのはしょうがない。おとうさん以外のひとを好きになるのも、しかたないと思うよ。だって、生きものだもの。死んだひとをずっと思ってるなんてできないよ」

 折り方がわるかったのか、固い茎が日魚子の指先をかすめる。ちくりとした痛みが走る。

「でも、あのひとのあれはそうじゃない。目先の欲に流れただけでしょ。べつにそうちゃんのお父さんじゃなくたって、やさしくしてくれるひとなら誰でもよかったんでしょ。雑だよ。すごく雑」

 母親のことをこんなにもはっきりと爽に語るのははじめてだった。父の墓前という特殊な状況が、普段は固く引き結んでいた口をほどいたのだろうか。それとも、自分に隠れて母親に会っているらしい爽に憤りを覚えたのか。声が苛立っているのが自分でもわかる。このはなしを早く終わりにしたい。これ以上、爽とこのはなしをしたくない。互いの致命傷になるまえに。

「ひなは」

 なのに、爽ははなしを続ける。四方で蝉が騒ぎたてるなか、汗の張りついた爽の背中に緑陰が落ちている。無駄のない骨格のうつくしさに目を奪われる。

「一度の雑さをゆるさないんだな」

「……そうちゃんはゆるすの?」

 おとうさんとおかあさんをゆるしたの?

 ゆるしたから、会っているの? 日魚子には何も言わずに?

「俺はゆるすとかゆるさないで考えたことはない」

 みどりの陰りを帯びた爽の横顔を、日魚子はじっと見つめる。

 目の前の幼馴染が急に知らないひとになってしまったみたいだった。爽は――……爽だけは日魚子とおなじ傷を持っていて、おなじ苦しみとおなじ憤りを抱いていると思っていた。日魚子とは方向性がちがっても、爽の「こじらせ」もそれが原因なのだって。でも、ちがったのだろうか。爽にとっては、爽の父親と日魚子の母親の不倫はたいした傷ではなくて、だから母親ともわだかまりなく会うことができるのか。あの日傷ついていたのは、わたしだけだった?

 過去のよどみに自分だけ置き去りにされてしまった心地がして、日魚子は途方に暮れる。夕暮れになっても一向に和らがない日射しにぐらぐらと眩暈がしてくる。そうちゃん。はばかりもなく、この男の腕にすがりたくなる。

「じゃあ、どうしてそうちゃんは恋をしないの?」

 糸で引かれたように、爽は日魚子を振り返った。

「どうして、女の子をとっかえひっかえするの? そうちゃんもただ雑なだけ?」

 自分のことは棚にあげて、まるでなじるような言い方をしている。

 日魚子は卑怯だ。でもわからない。日魚子はずっと、爽は日魚子の母親を恨んでいて、そのあてつけのように女をとっかえひっかえしているのだと思っていた。あるいは信じられなくなった愛のはけ口に不毛な行動を繰り返しているのだと。そういう爽のいびつさを、日魚子は正しくなくてもいとおしいと思っていた。なのに、すべてがちがってきてしまう。爽という人間が見えなくなる。もう二十年以上、そばにいるのに。

「おまえは俺になにを期待しているんだよ」

 目を合わせたまま、爽は言った。ひどく冷たく、低い声だった。

「おまえのエゴを俺に押しつけるな」

 突き放すような口ぶりに呆気にとられる。

 爽は口がわるいし、つっけんどんな言い方をするけれど、こんな風に根っこから拒絶する言葉を吐かれたことはなかった。顔を蒼褪めさせた日魚子を睥睨し、爽は腰を上げた。空の手桶を取って歩きだす。砂利を踏む靴音に鞭打たれたように、日魚子ものろのろと立ち上がってその背を追いかける。

 エゴを押しつける。エゴ。日魚子のエゴ。

 もしも爽がただ女にだらしなくて、なんの理由も傷もなく、女をとっかえひっかえしているのだったら、わたしはゆるせないのか。爽も、ゆるせなくなるのか。わたしの知る爽ではなくなるから、幼い頃、ナナカマドの下でずっととなりにいてくれたやさしい爽とはちがってしまうから、だからそんな爽はゆるせないのか。

 確かにエゴだ。爽は日魚子の所有物じゃない。

 急にあらわにされた自分のいやらしさを受け止めきれなくて、涙がこみ上げてくる。まるで子どもだ。目のうえに腕をあてて、嗚咽がこぼれそうになる口元を押さえる。霊園の長い下り坂を、爽から十歩ぶんくらいあけてとぼとぼ歩く。

 蝉の声はいつの間にか止んでいた。日がようやく落ちたのか、空がうすべにから群青に移り変わる。夕立が降ってほしかった。びしょ濡れになって、雨と一緒にぜんぶなかったことにしてしまいたい。

 足を止め、日魚子はその場にかがんだ。

 パンプスに押し込めた足が痛かったし、顔もたぶんひどいし、もうこのまま置いていってほしいなって思った。爽は頭がいいから、空気を察してひとりで帰ってくれないだろうか。車内でふたりきりになりたくない。ひとりでいたい。財布はあるから、タクシーくらい自分でどうにかする。

 日魚子が歩かなくなると、十歩ぶんだった爽との距離はどんどんひらいていく。迷子のような悲しみが胸に兆す。子どもの頃、爽と夏祭りにいったときのことを思い出した。下駄の赤い鼻緒が切れて、日魚子はその場から動けなくなった。さっきまで目の前にいたはずの爽が、ひとごみにまぎれていく。そうちゃん。心細さに駆られて呼んだのに、声が届かなくて涙がこみ上げた。そうちゃん、置いていかないで。そうちゃん。

 砂利が擦れる大きな音で、日魚子は我に返った。

 離れたと思った爽がいつの間にか戻ってきていた。嫌味をひとつかふたつ言うかと思ったが、何も言わないで、日魚子の腕を乱暴に引き上げる。奇しくも記憶のなかの、夏祭りのときの爽とまったくおなじ仕草だった。いや、ちがう。あのときは、鼻緒が切れた下駄を抱く日魚子を負ぶって、爽は家まで帰ってくれたのだったか。

 ――あの痩せた背中の熱と汗のにおい。

 日魚子は汗でシャツが張りついた爽の背中を仰ぐ。

 困らせて、試したのだということは自覚していた。わたしはずるい。爽は日の落ちかけた墓地に日魚子をひとり置いて帰るなんてことできない。爽ならできないって日魚子はわかっている。だから、試したのだ。足を止めて、しゃがみこんで、爽が腹を立ててそれでも戻ってきてくれるのを確かめて、このひとはわたしが知っているあの子のままだって思いたかった。

 爽は不機嫌だ。試されたのをわかっているから、わかっていても放り出すことができないから。

 帰りの運転は荒いだろう。車内は気まずいだろう。それでも、爽は日魚子の腕をつかんでいる。そのことにほっとして、またぽろっとこぼれた涙を日魚子は手の甲で拭った。

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