八、

「へぇ、いい話ですね。」

 深夜。おれを外界とつなぐ唯一の道具であるスマホから、阿修羅あしゅらの声がする。人の声はやはりほっとする。

「でもどうして、そんな話をあたしにしてくれる気になったんですか?」

「さあ、よほど聞いてほしかったのかもな。」

 それは本当だった。一人で寝ていたら頭の奥からガンガンと音がした。最初は頭痛のせいかと思ったが、やがてそれはおれの自意識からくるものだと気がついた。これしきの症状でと思われるかもしれないが、おれは心身ともに、とんでもない恐怖に取り憑かれていた――今まであった自分という存在が、この世から跡形もなく消えてしまうかもしれない。感じてきたこと、経験してきたことも、すべて無になってしまうのならば、せめてその前に他の誰かの記憶の中に保存しておきたかった。

「どうだ、少しは小説のネタになりそうか?」

「んー、あたしが書いてるのはファンタジーですからねぇ……」

 アプリ通話の向こうで体をひねる音がする。阿修羅はまだ作業中なのだろうか。

「それよか、ユーキさん、体調よくなったら動画見てくださいよ。今度のはユーキさんの好きなメメラちゃんのコスプレです。きっとコアファンの人にも喜んでもらえる出来ですから。」

 おれは耳からスマホを少しだけ離し、枕元にある緑の髪をした女の子のぬいぐるみを抱きしめた。ミカと結婚している間は隠していたが、おれはゲームリリース当初からメメラの大ファンだ。うつす心配をしなくていいから、今おれの恋人が人間でなくてよかった。しかしウイルスをたっぷり含んだおれの汗と涙が染み込んだこのぬいぐるみは、体調が回復してもコインランドリーに持っていっていいものだろうか。

「しかし、そんなにしょっちゅうコスプレって、よほど好き……」

 おれの呟きは、阿修羅の鼻息混じりの言葉に遮られた。

「何言ってるんですか、少しでも閲覧数稼がなきゃ……」

「ちょっと、おれはまだ病人なんだ。大声は勘弁。」

 阿修羅はたちまち愛想のいい口調に戻って「じゃ、ぜひ見てくださいね」と通話を切り、その直後にメッセージで動画のURLを送ってきた。開いてみると、画面の中の彼女は背景もメイクもウィッグも実に手が込んでいて、まさにおれがイメージするメメラそのものだった。空を漂い、人間の世界を見下ろす孤高の美少女。おれのお気に入りの決め台詞まで吐いている。「それは待望のユートピア、それとも新たなディストピア?」

 阿修羅はおれのシェアハウスから最初に退去した今年二十歳になる女の子で、しばらく連絡が途絶えていたが、ある日突然メッセージが来た。コスプレ動画と同人小説の投稿を始めたから見てほしいという。おれはてっきり趣味に付き合わせるつもりかと思ったら、感染症流行のせいでアルバイトがなくなり、広告収入を学費の足しにしているのだそうだ。大学も、通っていたところは辞めて、今は実家に戻って学費の安い通信制大学で経営の勉強をしていると言った。

 彼女は入居してきた時から、おれに本名ではなく阿修羅と呼んでほしいと言った。下の名前は「古臭くて平凡」だと言い、珍しい名字は実家の地元固有のもの、だが最近そこから全国を震撼させる性犯罪者が出てしまった。犯人と血縁関係はないものの、ニュースで名前を聞くたび恥ずかしくなるのだという。

「田舎ってそういう時怖いですよ。」

「ああ、ここもおれが子供の頃は、充分田舎だったけど。」

「だからあたし、いっそ普段から動画で使ってるのと同じ『阿修羅』で通そうと思って。『修羅場はいつでもやってくる』って座右の銘なんです。」

 その時おれは、若い女の子がとんがった自己主張をしているだけだと思った。そこまでこじらせたことを言わなければ、普通に可愛い子なのにな、とも。まさかそのたった数ヶ月後、世界各地で本物の修羅場が繰り広げられるとはつゆ知らず。阿修羅の言葉は、不気味な形で的中してしまった。

 おれは動画に「いいね」を一つつけ、再生回数が少しでも増えるように繰り返し見てやった。画面の中で、超ミニスカートのメメラに扮した阿修羅のタイツに包まれた太ももや、Vネックからのぞく胸元が揺れる。昔のおれだったら興奮して見入っただろうが、今はただ、日向ぼっこをするようなほんわかした気持ちになるだけだ。ウイルスに体をやられる前からすでに、おれは女に興味がなくなっていた。おれは少し迷ってアプリ通話を発信し、「素晴らしいが、しいて言えば露出がちょっとあざとすぎる」と感想を述べた。

 すると阿修羅の返事はあっさりしたものだった。「じゃなきゃ再生数稼げないですから」。

 おれはそれで――思い出したくもないのに――またミカを思い出して比べてしまった。ミカは時間をかけて、自分の美貌と色気を一番高く買ってくれる、たった一人の男を探していた。それに比べたら、この阿修羅の色気はなんと薄利多売なのだろう。おれは増えていく動画の再生回数を思い出し、その中の何パーセントかはきっとかつてのおれのような、画面に向かって人前ではできないことをしている輩だろうなと想像した。接触が制限されているこの世界でも、想像することは自由だからだ。

 おれはミカといた時、自分が誰かと交換可能な「モノ」になることが恐ろしかった。だが今は阿修羅の太ももを見て寂しさを紛らわす男の一人になるのも悪くないなと思った。顔も見たことのない世界中の誰かと繋がっている感じがして、またほんわかした気持ちになる。

「あ、あとね、さっきユーキさん、『おれはもう女に欲情しない』って、あんなの、よく嫁入り前の娘を相手に白状する気になりましたね。」

 おれは自分の弱みを握られた気がして、恥ずかしくなった。確かに寂しさのあまり、言わなくてもいいことまで喋ってしまったかも知れない。

「思い切って言っちゃうけど、つまりまだ女性に未練タラタラなんですよ。」

「うるさい、おれはもう欲から解放されたんだ。」

「今まで女性と感じていたつながりを肉親との関係に置き換えただけ……男女の愛だろうが家族愛だろうが、ユーキさんは結局、誰かとくっついていたいんでしょう?」

 おれは黙って、メメラを腹に押し付けた。

「投稿サイトの恋愛小説ならすっごくベタ、作者が自分の乏しい才能に嫌気がさして更新を止めちゃうパターンですね」と阿修羅は自分なりのブンガク論を語り、だが少し言い過ぎたと思ったのか「もっとも、小説の中には排泄介護までするキャラはなかなか出てきませんから、ユーキさんは偉いと思いますがね」と付け加えた。

 おれはだるい体をうーんと伸ばした。辰起といいこいつといい、どうしてこうも次から次へと言葉が出てくるんだろう。それから、阿修羅が学生を本業としていることを思い出し、「もう寝ろ」と会話を切り上げた。

 また、闇と無言の世界がやってくる。

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