第7話 彼女が求めていたもの

 三十分ほどバスに揺られた後、都会だった景色はハンターバレーほどではないが、住宅が立ち並ぶ田舎の風景へと変わった。ブラックタウンと太字で書かれた大きな看板が通り過ぎた。

「リディア、もうすぐ家だ」

 横で景色を眺めるリディアに言った。

「全然もうすぐじゃないわ。電車で二時間よ? お尻が痛くなるわ」

 確かに二時間座りっぱなしはなかなかつらいものがあるなと苦笑した。

「追手は来ていない?」

 リディアは不安そうに言った。

「ああ、大丈夫だろう、バスに乗られるところは見られたとしても、僕らがどこで降りるかなんてわかりはしない」

 バス停はブラックタウン駅のすぐ横に六つほど並んでいた。僕らが降りた四番乗り場から階段を上り、古ぼけた通路を進んだ。壁はところどころ黄ばんでおり、掃除のやり方はずさんなようだ。

 リディアとはさっきよりお互いに力を入れて手をつなぐようになっていた。なにかにしがみついているように、僕は肌を。リディアは手袋の布を重ねていた。

 切符売り場でカトゥーンバまでの切符を購入する。改札口に向かう途中、自動販売機が目の前にあった。中にジュースはない。その代りチップス系のスナック菓子が買えるものだった。

「何か買う?」

 自販機を指さしながら僕は言った。

「別にいいわ」

 そう冷たく言い放ち、リディアは先に行った。とりあえずシーソルト味のチップスを購入し、ポケットに突っ込んだ。僕のポケットが、また一つ重たくなる。

「別にいいのに」

 そういいながらもリディアの声は少しだけうれしそうだった。

 改札口につき、くぐろうつぃた時だった。改札の向こう側で掃除をしている青年が目に入った。後ろ姿ではあるが見覚えのある、ひょろ長い背中。僕が少ない記憶を探っている間にリディアが予想外の言葉を発した。

「お兄ちゃん?」

 その言葉に青年は振り返る。

「リディアじゃないか! それと、あんたは」

「久しぶりだね」

「バディ? お兄ちゃんのこと知っていたの?」

 驚いてリディアは僕の方を見る。

「ああ、僕の初めての友達さ」

 彼は、あの日ウィンヤード駅で初めてであった清掃員、カミーユだった。服装はあの時と何一つ変わっていない。僕の姿を見て、カミーユはあきれたような笑みを浮かべた。

「やっぱり、そういうことか」

 独り言のようにつぶやくカミーユ。そこから僕は、またあの気配のようなものを感じた。胸の奥がチリチリするような存在感。だが圧倒的な違いがある。彼からは一切の敵意を感じなかったことだ。リディアはなんのことかという風に僕を見た。

「そういうこと? どういう意味だ?」

 カミーユのつぶやきに僕は繰り返す。

「今それを伝えても意味なんかないさ。それよりリディア、学校はもう始まっているんじゃないか?」

 リディアはむすっとして言い返した。

「関係ないでしょ」

「その口癖、昔からだな。ピーナッツのチャーリーブラウンの妹の言葉だっけ?」

「サリーよ、忘れないで」

 どうやら彼女のピーナッツ好きは昔からのようだ。

「でもカミーユ、どうしてここで働いているんだ?」

「そうよお兄ちゃん。ウィンヤード駅じゃなかったの?」

 僕とリディアの言葉にカミーユは答えた。

「駅を変えたのさ。あそこより、こっちのほうが小さくてやりやすい」

「だとしても、妙な話だな。結局やっていることは清掃員じゃないか」

「だろ?」

 カミーユはまた意味深ににやにやと笑いながら僕を見た。

「いやあほんと、こんなことってあるんだな」

「こんなこと?」

 さっきからカミーユの発言には何らかの『意図』のようなものを感じて仕方がない。まるでなぞかけをかけられていて、その裏側に気づかない僕らを、あざ笑うようだ。

「まあ、簡単に言えば、リディアに出会ったことかな」

 まあ言われてみれば、偶然にしてはできすぎている展開だ。初めてであった男の妹と、僕は今行動を共にしているのだから。その言葉に嘘は感じない。だが真実だけでもない。そんな違和感がぬぐえなかった。

「そういやあんた、リディアを送った後は考えているのか」

 リディアは「どうなの?」という風に僕を見た。

「別に、何も考えていない。また自分の役割探しの続きさ」

「それなら心配ないさ、きっとすべてうまくいく」

 確信を突くかのような発言に、眉をひそめる。

「どうしてそんなことわかるんだ?」

「清掃員にしかわからないこともあるんだよ」

 カミーユはそういうと、掃除用具を一通りまとめ、改札の向こう側の曲がり角へ姿を消した。

「お兄ちゃん、何の話をしていたのかしら」

「さあ、どうだろうね」

 もし、カミーユがあの日掃除用具のロッカーを開けてこなかったとしたら。いや、カミーユが開けることが、確定していたとしたら? だとしたらなんのために? 彼は、僕のことを知っていたのか?

「バディ、早くいこ」

 リディアはそういうと僕を駅のホームまで強引に手を引いた。まるでここから逃げ出したいかのように、リディアの足取りは早かった。

 電車に乗り込み、お互い向かい合う形で座席に座る。乗客の数はまばらで、まるで貸切のような空き具合だった。

「まるで私たちしかいないみたいね」

「そうだね」

 僕はポケットからさっき買ったチップスを取り出し、リディアに差し出した。

「食べるかい?」

 リディアは無言で一枚袋からつまみ、パリッとかじった。

「おいしいわね」

「僕のチョイスに外れはないさ」

「ふーん、偉そうに」

「大人だからね」

 思い出は少ないけれど。

「ねえ、バディ」

「なんだい、リディア」

「私がピーナッツを好きな理由、教えてあげようか?」

「ああ、ききたい」

「みんな完璧じゃないの。みんな子供で、どこかかけているの。それでもあの世界では受け入れられているの。だからね、読んでいてこういわれている気分になるの。私は私でいいんだって」

 彼女は照れ臭そうに自分の耳をいじりながら話をつづけた。

「チャーリーブラウンは、何をやってもダメなの。自分が誰にも愛されていないって、本気で思っているの。でもね、スヌーピーのことが大好きなの。それだけは確かなの」

 僕は自分が余計な批評を挟まないよう、ただ聞き続けることだけに徹した。いろんないいところ、悪いところが著名に出ているキャラクターたち。彼女は自分のどういう部分を、その漫画に投影していたのだろう。

「バディは、子供みたいね」

「そうかな」

「そうよ、見るものすべて珍しそうにいつもきょろきょろしている。何気なく通り過ぎるただの人のことを、頭からつま先まで見ているでしょ」

 自分がそこまで意識して人のことを見た記憶はないが、確かにそうかもしれない。自分以外に記憶がある人間が、どんな顔をしているのか知りたくて。

「ねえバディ」

「なんだいリディア」

「あの日、覚えてる?」

「どの日だい?」

「ほら、私が怒鳴った日」

「いつも怒鳴ってるじゃないか」

「もう、意地悪言わないでよ」

 リディアは僕の膝を手袋をはめた手で、弱くたたいた。

「別に、嫌じゃなかったの。ほら、バディが掃除をしてくれたことよ」

「ああ、あの日のことか」

 何でもないようにそう返す。事実、僕は何も気にしていない。

「ただね、役割を取られるんじゃないかって、怖かったの。あれしか、もう私にはなかったから」

 大げさだなあと言おうとしたが、その言葉は飲み込んだ。

「でも、別にいいかって思ったの」

 別にいいか。その結論が出る過程には、彼女の言葉にしにくい心の部分だろう。追求することはできなかった。

「ねえバディ、このまま電車で、誰も知らないところに行ってみない? 私のことも、バディのことも、誰も知らないようなところに」

 電車は走り出した。ブラックタウンの住宅街の風景が、ゆっくりと流れていく。公園で遊ぶ子供。バドミントンをやる夫婦。駆け回る飼い犬。穏やかな風景が、まるで逃げるかのように遠ざかって行った。

「僕も、君と同じ気持ちかもしれない」

「でしょ」

「でも、だめだ」

 だめだ。僕は自分に言い聞かせるようにそう言った。

「君を家に送り届けるのが、僕の役割だ」

「私の役割は、バディのそばにいることだと思うの。それって、いけないこと?」

「ああ、いけない」

「どうして?」

「君には君の役割がある。もっと大切で、それは僕とは一切無関係のものだ」

 冷たい言い方をしたからか、リディアは僕をにらんだ。そして、顔を俯け、肩を震わせた。

「泣いてもだめなんだよ」

「いやよ、私学校なんて行きたくないわ。友達なんていないし、いつも意地悪ばかり言われるの。私はなんであんなところに行っているのか、わからなくなったの」

「君みたいな明るい子が?」

「全然明るくなんてないわ。学校ではいつも本しか読んでいないし、だれと話していても面白くないの」

 彼女は、見た目の年より、はるかに大人に見えた。まるでほかの子供がうろうろと階段の周りで彷徨っている間に、彼女だけエスカレーターに乗ってしまったかのように。

「ハンターバレーだけが、私の居場所だったの。あそこが私のすべてだったの」

 リディアはそれから何もしゃべらなかった。僕も何も言えなかった。ただお互いに無言で、流れていく景色が段々、うっそうと茂る木々に覆われていく過程を眺めていた。

 民家がほとんど消えて、まるで原始時代のような谷が景色を埋め尽くしたあたりで、僕はリディアに声をかけようとしたけれど、やめた。

 僕も、彼女と同じだったのかもしれない。何もわからないまま町に放り出されて、追い掛けられて、孤独につぶされそうなとき、彼女と出会った。彼女も僕も、探していたものは同じだったのかもしれない。

 僕も、役割がほしかっただけなんだ。自分がいてもいいと、感じさせてくれる何かが、ほしかっただけなんだ。

 記憶を彼女は確かに失ってはいない。でも、彼女は僕と同じだ。

 だから、安心できた。お互いに手を取り合うことができたのかもしれない。

 彼女はいつの間にか眠り込んでしまっていた。頭をこくりこくりとうつむかせながら、気持ちよさそうに眠っていた。僕は彼女の頭をなで、目を閉じた。

 頭の中で、君に出会えてよかったよ、と言った。

「バディにあえてよかった」

 リディアの声だった。目を開けるがリディアは目を閉じていた。狸寝入りだったのかもしれない。

 パン屋での時間が終わった彼女はこれからどうするのか。彼女を失った僕はこれからどうしたらいいのか。そんなことを考えた。

 彼女の求めるものが、この先にあればいいことだけを、願った。


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