廻 一日目の終わり

 同じ一日の繰り返しに囚われていることに気が付いたのは、いったいどれほど前のことだっただろうか。


 日数を数えようにも、記録は巻き戻しと共に最初からなかったものとして失われてしまうので意味はない。では己の記憶力を総動員して何日経ったかを頭に刻み込めばいいのかといえば、そういうわけにもいかない。よほど強靭な精神力の持ち主でもない限り、同じ一日を何回繰り返したかそんなことを強く意識し続けるなどということは自殺行為に等しい。俺自身、試してはみたものの、三日で発狂しそうになってやめた。……あるいは、とうに狂ってしまっているのかもしれないが。

 そもそも、同じ一日の繰り返しから先に進めない時点で、それを数える意味はあまりない。今の俺を取り巻くこの世界自体、実質的な時間経過の概念があるかどうかさえ怪しいものだ。

 何よりこの繰り返しの原因に見当がつかないものだから、尚のこと性質たちが悪い。

 それこそ俺自身の記憶であるとか、精神的な疲労の蓄積の実感だけがあったところで、この現象を認識できている同じ境遇の人間が──持ちうる情報を擦り合わせ、何が起きているか確かめ合える相手が──見当たらない以上、何を考えたところで結局は俺の一人相撲でしかない。

 考えるだけ不毛だと、俺はに結論付けていた。

 それでも不意に意識してしまう瞬間はあるわけで。その度に、俺は世界から弾き出されたような孤独感を味わっていた。

 それに、毎日がの月命日だというのも考え物だ。

 ──せめて、繰り返すのが今日でさえなければなぁ。

 嘆息と共に、微苦笑しながら墓石を撫でる。

 六月二十五日。

 黒を基調とした長袖に、夏至も過ぎたこの時期の陽気は、少々こたえるものがあった。

 月命日の展墓も、その際の服装──といってもカウルネックの白チュニックシャツにフード付きの黒カーディガン、黒のチノパンと、カジュアルなことこの上ないのだが──も、俺が勝手にやっているだけで、それこそという性質のものではないし、こうして毎日墓前に来たところで、都合良く誰かが応えてくれるはずもないのだが。それでも、これまで続けてきたある種の習慣を、今更崩すのは憚られた。

 それに。

 ──もしかしたら、今日という日六月二十五日の繰り返しは今回が最後で、次に目が覚めたら何の変哲もない明日六月二十六日になっていて、あぁ昨日は月命日六月二十五日だったのに結局墓参りに行かなかったなと後悔することになるかもしれない。

 いつかこの繰り返しから抜け出せる日が来るかもしれない、などという希望的観測を捨てきれないがゆえの幻想に過ぎないのだが。その希望にすがることすらやめてしまったら、決定的に何かが終わってしまうような気がして、俺はこの不毛な習慣のやめ時というものを見失っていた。


「──?」

 ふと顔を上げた時、俺は墓地の敷地の前を足早に通りすぎていった誰かの姿を視界の端に捉えた。

 深い色の長い髪。

 俺と似たり寄ったりの黒装束は、やはりこの季節には些か不似合いな印象のものに思えた。

 ──女?

 一瞬のことでよく見えなかったが、年代は近しいような気がした。もしかして、同じ葉桜ようおう大学の学生だろうか。

 それにしても、そんなに急いでどこへ行こうというのだろう。

 ──今日は日曜日なのに。

 やけに急いでいるように見えたが、進行方向は駅とは真逆だ。

 今日大学で特別講義などがあるという話も聞かない。卒業論文に追われる先輩か、はたまた院生だろうか。

 あるいはアルバイト。スーツではないようだったので、この場合面接ではなく通常の出勤だろうか。

 ──昼過ぎまで寝坊したのかな。

 見知らぬ人の事情を詮索しても仕方がないのだが、際限のない繰り返しの中で、すっかりそういった些末なことをあれこれと考える癖がついてしまっていた。

 そうやって気を紛らわせてでもいないと、やっていられないのだ。


「さて」

 ──今回の今日は、これからどうしようか。

 そう考えながら墓地を後にする。

 墓参りこそ固定の用事と化しているものの、それ以外の過ごし方については特段こうしなければならないというものを定めてはいない。

 普段はなかなか行かないような場所へと足を伸ばしたり、財布の中身も巻き戻されるのを良いことに豪遊したりと、色々と変化をつけることで、バラバラに崩壊しそうになる心をどうにか繋ぎ止めていた。

 将来のためにと学術書を読み漁って、公的・民間問わず資格試験の勉強をしようとした時期もあったのだが、繰り返しから抜け出す糸口もないままいくら知識を積み重ねたところで、その知識を活かせる未来も、資格の試験日も半永久的に来はしない。

 この異常な現象から解放されるのが、もしもこれから体感で数十年ほど経過した後であったなら、今の俺が詰め込んだ知識など、その頃にはほとんど抜け落ちてしまっているだろう。

 ──いや、そもそもそんな解放される日は来るのか。

 ──その頃には、精神だけが枯死こししているのではないか……。

「……」

 やめよう、と不穏な想像を追い払う。

 とにもかくにも、先が見えない。

 そのことが、少しずつ、しかし確実に、俺の心を蝕みつつあった。

 気晴らしがてら、気になりつつも行けていなかった古民家カフェにでも行ってみるかと、俺は半ば強引に気持ちを切り替えたのだった。


   ◆


 ドアを開けると、ドアベルがカランカランと小気味良い音を立てた。

 古民家カフェ『メビウス』。

 この店名は、店主が愛読していた漫画の作者の筆名ペンネームからあやったものであるらしい。

 快活そうな印象の女性店員が、きょろきょろと店内を見回す俺にそう説明してくれた。

 なんでも大正時代の古民家をリノベーションしたそうで、店内には柱や梁を活かした暖かみのある空間が広がり、和洋折衷の調度品が『レトロでありつつも古めかしすぎない』、落ち着いた雰囲気を演出していた。


 小腹は空いているものの、夕飯にはまだ早い時間帯。

 あまり重たいものは入りそうにないな、と思いながら、メニューを眺める。

 オムライス、マルゲリータ、キッシュ──……。

 喫茶店料理の写真が並ぶ中、ホットサンドのラインナップの充実具合が目を惹いた。

 詳しくない俺でも、ハムやチーズ、卵や野菜はごく一般的であるように思う。あんこバターやバナナなどは、美味しそうではあるがあまり見かけないような気がした。

 ハンバーグのホットサンドは、ハンバーガーとはどう違うのだろう。

 そんなことを口に出して訊いたら笑われてしまいそうだな、と思いながら、スープやカフェラテと共に注文オーダーした。


 結論から言えば、ハンバーガーと比べて全体的に素朴でありつつも、だからこそ誤魔化しがない、といった感じだった。いや、誤魔化す必要がない、と言うべきか。

 繰り返しが始まる前に時々食べていたような、前日作ったハンバーグの余りを漫然と食パンに挟んだものともまた違う。

 パンは温かく、表面がこんがりと焼かれていて、その間にと詰まったハンバーグは肉そのものの味をスパイスの香りが引き立てていた。

 ……結構良い肉を使ってるんじゃないか、これ。

 たかがハンバーグサンドと侮るなかれ。これはれっきとした料理だ。

 思っていたより量があり、どっしりとしていたが、食べやすく、もたれない。

 ぺろりと完食できた。それでいて腹持ちも良さそうだ。

 つつがく会計を終え、俺はほどよい満腹感と共に店を後にした。


   ◆


 ふとある考えが浮かんで、俺はそのまま葉桜大学の構内へと足を運んでいた。


 オカルト科学研究会。

 胡散臭いことこの上ないこの団体には、普段の俺ならまず近付かない。

 しかし、この馬鹿げた現象繰り返しについて、常人に相談したところでらちが明かない。それに、巻き戻しと共に相手は忘れてしまうために社会的な不利益はないに等しいとはいえ、正気を疑われているであろう反応は、たとえその日限りのことであってもなかなかにこたえるものがあった。

 その点、オカルト科学研究会にいるような手合相手であれば、こんなことを話すことにも、その結果返ってくるであろう反応にも、引け目を感じなくて済むだろう。

 この大学におけるオカルト科学研究会は、どういうわけか公認サークルであるらしい。……俺としてはいまひとつ釈然としないのだが。

 とはいえサークル棟の一室が所定の活動場所として割り当てられているというのは、この時ばかりはありがたかった。探す手間がかからない。

 相談したところで解決の糸口が掴めるとは思わないが、愚痴ついでに俺自身の思考を整理することぐらいはできるだろう。

 そう思いながらドアの前に立つ。が。

「……?」

 部屋が暗い。

 やはり日曜日では分が悪いか。

 当然と言うべきか、サークル棟内の人気ひとけ自体もまばらであったし、そう都合良く会員がいるわけが──……。

 ……いや待て、ドアの磨りガラス越しに目を凝らすと、遠くにうすぼんやりと光源が見えるような。

 恐る恐る手をかけた引き戸に鍵はかかっていなかったようで、戸は抵抗なく開いた。

 甘いような、独特の香気に出迎えられる。

 やはりと言うべきか、奥には人影があった。

「あン?」

 不機嫌そうに振り返ったのは、声の調子からしておそらく女だった。何か調べ物でもしていたのだろうか、パソコンやタブレットの画面が室内の光源の正体であったようだ。

「ノックもなしになんだ、お前は」

 ……舌打ちされた。

 非はこちらにあるとは言え、随分と険のある態度だ。

「あー、すみません。てっきり鍵がかかっているものだと……」

「あぁそうかよ。単なる施錠確認なら、目的はこれで済んだだろう。悪いが帰ってくれ。その様子じゃ、入会希望というわけでもないんだろう」

 尊大かつぶっきらぼうな口調でそれだけ言って、彼女は俺に背を向けて椅子にもたれ掛かり、腕を組んで項垂れた。……寝る体勢に入った。

「あの、」

 なるほど寝起きだったのか、と得心しつつ、俺はおずおずと語りかける。

「お休み中のところ、失礼しました」

「……」

「俺、学部2年の南雲なぐも あおいといいます。確かに入会希望ではないですが、今日はちょっと相談……というか、聞いてほしいことがあってここに来たんです。おかしな現象に巻き込まれていて……」

 ぴく、と僅かにじろぎした気配があったが、何も言う気配がない。

 内なる緊張感と焦燥感の高まりから、俺は急速に畏縮してしまった。

「えっと、やっぱり聞く気にはなれませんか……? それなら俺、出直すので。でも、今日この部屋に他の会員さんがいたかどうかと、わかればその時間帯、大体でいいのでそれだけ教えてはいただけませんか」

 かなり個性的エキセントリックな人物であるように思われたので、ならば次回はもっと早い時間に訪室し、他の学生に話を聞こうと思ったのだが。

「……何故」

「え?」

 女性にしては──寝起きのためか──やや掠れたハスキーな声で問われ、俺は戸惑う。

「何故、今日のオカ研ウチの会員の出入りを問題にした? ウチの奴らが何かやらかしたか?」

 それとも、と彼女は声のトーンをひとつ落として核心を突いた。

でもあるのか?」


「単なる巻き戻し──同じ世界、同じ時間軸の繰り返しの中で、お前だけが記憶を引き継いでいるのか。そうではなく、酷似した平行世界をお前だけが移動していて、それぞれの世界のあたしたちお前以外は案外何事もなく明日六月二十五日を迎えているのか、現時点の情報では何とも言いがたいな」

 俺の話を聞き終えて、冴島さえじま 杏華きょうかさんは開口一番そう言った。

 彼女はひどく嫌がっていたが、ここは無理を通して照明を点けさせてもらった。

 人工的な照明下で見る冴島さんは、紫がかった赤い髪と抜群のプロポーションが印象的な美女だった。血を思わせる赤を基調とした服と共に、独特な威圧感を纏っており、近寄りがたい雰囲気がある。

「お前以外に同様の事象に囚われている人間がいるかどうか、これも重要な要素になってくるだろう。もし仮にがいたとしたら、そいつとお前にとってはお互いが鍵になる」

 部屋に鎮座していた水煙管で一服しながら語ってくれた。最初に感じた独特の香気は、どうもこれによるものだったらしい。

 第一印象と比べると存外饒舌な人物のようだったが、それにしても堂々と水煙管をサークル棟の一室に持ち込んでいるというのは如何なものか。

「そんな奴いない、と安易に断言してくれるなよ。悪魔の証明の研究がやりたいと言うならあたしは止めないが、何にせよは困難だ。既に超常現象と称される事象の中にいると主張するなら、お前がそれを真に解明しようと思うなら、尚のこと真剣に胸に刻んでおけ」

 大真面目に、冴島さんはそう語った。

 俺は黙ってコーヒーをすする。先程冴島さんから二人分淹れるように言われて、俺が淹れたものだ。……冴島さんはともかく、部外者の俺がサークルの備品をいじっても良かったのだろうか。

「そもそもなんだがな。オカルトとされている諸事象そのものが、いくら現代の常識に照らして荒唐無稽に思えたとしても、主観的・偶発的要因の大きさゆえに客観的な観測や人為的な再現が困難だったとしても、だ。それをただ一時の噂話や娯楽として消費するのではなく、と思った時点で、その思考も、採りうる手法も、もはや科学に近い」

「はぁ」

 そうだろうか、と内心首を傾げていたのが冴島さんにも伝わったのだろう。彼女は俺をぎろりと睨んでから、煙と共に深く息を吐き出した。

「いいか。まず必要なのはと、だ。見たこと、聞いたこと。変わったこと、変わらないこと。客観的な観測が可能なこと、己の主観のみに限られること」

 つまりはだな、と冴島さん。……身も蓋もない。

「お前の言う、この事象の観測者はあくまでお前だ。あたしじゃない。どんな些細な情報も見逃さない、それぐらいの気概でいろ。お前の得た観測結果を踏まえて、同様かあるいは類似の事例の報告がないかを調査する──これはどちらかと言えばオカ研ウチの領分だな」

 彼女は現在は大学院生であるが、学部生の頃からオカルト科学研究会に所属していたらしい。なるほど対応が堂に入っているが、そのこと自体がなかなかに奇特な人物であることの証明になってもいた。

「とはいえ、あたしはお前と同じ視点も時間の流れも共有していない。基本的に、こっちは毎日になるだろうし、お前の話も、がどの資料をどこまで引っ張り出してきたのかも、お前にとってのは引き継げないものと思っていいだろう。そのあたりは、……まぁなんだ、お前が頑張って覚えておいてあたしに聞かせろ」

「え」

「情報量が蓄積されてくるとなかなか大変だろうがな。お前にとって既知の事例や情報を、あたしがいちいちダブりで提示する必要性はあるのか? 単なる時間の無駄だろう。それでは一向に先へは進まないぞ」

 いいか、と前置きされる。

はお前とお前の語る事象に興味があるが、それは今日お前がオカ研ウチに話を持ち込んだからだ。はお前が介入しない限り、そもそも知りようがない、ゆえに興味もない。お前がその事象をどうにかできようができまいが、あたしは困らない。だからまぁ、お前があたしのところに話を持ってくるかどうかは、本質的にはどうでもいいことなんだ。それこそ独力でどうにかできる見込みがあるとか、諦めたとか、奇人変人あたしたちに餌をやりたくないとか、そういうことであれば。そこはお前の自由だ」

「……」

「だがな。オカ研ウチにわざわざ話を持ち込むなら、もしあたしを利用してやろうと思うのなら。をしろ。『無為に繰り返していましたでも助けてください、なんでもいいから先行事例や手がかりをください、あぁ貰っておいて申し訳ないですがこの情報は前の周回であなたから貰ってました』とでも言うつもりか? そんなのはただの怠慢だろう」

 そう釘を刺して、彼女は続ける。

「話が逸れたな。……で、だ。そうして集積した情報──お前の観測結果と先行事例を元に、多角的かつ複合的な視点から分析、考察していく。超常的な事象オカルトなんてを相手取る以上、その特殊性ゆえに、おおよそ形而上学であるとか、隠秘学や神智学といった領域の観点も必要にはなってくるだろう。だが、では不十分だ。体系化されたな知識や理論──統計学、物理学、生物学、民俗学、心理学、医学など、多岐に渡るわけだが──そういったものとも照らし合わせながら検討していく必要がある」

 そこまで語って水煙管を吸い、煙を吐き出して。彼女は唇の端を吊り上げた。……悪い笑い方だ。

「地道なもんだろ? あやふやなものを相手にする以上、こっちも相応の観点や情報を以て挑むがな。いかなオカルトと言えど、その検証にあたって人間側あたしたちがやれることに飛び道具なんざない。オカルト研究は科学たり得ると、あたしはそう考えている」


   ◆


 冴島さんの話を思い返しながら、俺はサークル棟を後にする。

 時刻は既に十八時近かったが、なにぶん日が長い時期であるため、空はまだ明るかった。

『いいか、人にものを頼もうと思うのなら、相応の対価が必要だ。にあたしに相談しようと思う時がもし来たら、その時はお前が持つ当該事象の情報、それと甘いものと辛いものを手土産に持ってこい。……いいか、脳の養分甘いもの脳の刺激剤辛いものはそれぞれ別だぞ、くれぐれも甘辛いもの一個でコトを済まそうなんて思うなよ。それぐらいあれば、を差し引いた情報収集調べものと、第三者兼オカルト愛好家としての見解の提示ぐらいはしてやるよ。たとえそれがでなくても、な』

 別れ際、冴島さんはそう言っていた。理屈はわかるが、なんとも横暴である。

「……甘いものと辛いもの、か」

 ──果たして何がいいだろうか。

 あまりありきたりなものでも、奇をてらいすぎたものでも不興を買ってしまうような気がする。

 の姿が目に入ったのは、そんな他愛ないことを考えながら大学構内を歩いていたその時だった。


 深い色の長い髪。

 俺と似たり寄ったりの、黒を基調とした些かこの季節に不似合いな服装。

 俺が昼間に墓地から見かけたのと同一人物とみて間違いないだろう。

 彼女はいわゆるビショップスリーブのブラウス──遠目には黒に見えたが、どうやらかなり濃い紺色だったようだ──を纏っており、襟元には華美なフリルやレースの類のないシンプルなジャボを着けていた。

 膝上丈の黒スカートには要所で切り替えが入っており、裾にかけてプリーツが緩やかに広がっていた。プリーツの内側には異なる色の布が使われているようで、彼女の歩みに合わせて見え隠れする赤系統のチェック柄が差し色のような役割を果たしていた。

 光沢の感じからして、スカートの下に穿いているのは単なる黒ストッキングやタイツではなく、レザー調のレギンスパンツの類のようだ。

 同じくレザー調の、かかとの低い靴は、黒ではなくキャメルブラウン系のツートンカラーだった。


 ──同じ大学の学生だったのか。

 俺はどうしてか、他人のような気がしなくて、放っておけないような気がして、名残惜しく見送る心積もりで眺めていたのだが。

「!?」

 その結果、彼女がキャンパスの中央の広場にそびえる時計塔──立入禁止のはずの扉の向こうへと消えていくのを見てしまい、ぎょっとして後を追う羽目になった。

 彼女が入っていった金属製の扉の前へ駆け寄ってみると、やはりでかでかと『立入禁止』との貼り紙がされていた。これが彼女の目に入らないということはまずあり得ないだろう。

 そうなるとやはり、彼女な故意に侵入したということになる。が。

 ──一体、何の目的で?

 胸騒ぎがした。

 ドアノブを捻るが、押しても引いても開かない。

 当然だ。安全管理上、機械類の点検・整備に来た技術者や清掃業者でもない無関係の人間が入り込むことがないように、通常この手の扉は施錠されているものだ。

 しかし、ドアノブを捻った時の手応えや、先程の彼女の挙動から、俺は既に答えを手にしていた。

 ドアノブを再度ゆっくり捻っていき、、という角度で手を止め、身体ごと押し込むようにすると、扉が開いた。……元々の構造的欠陥なのか老朽化によるものなのかはわからないが、大学側は鍵を交換したほうがいい。

 内部は大学側の倉庫も兼ねているようで、雑然と積まれた荷物はどれもうっすらと埃を被っていた。

 それらの隙間を抜けた奥、壁面から連なる階段を駆け上がる。

 ──いない。

 ──どこだ。

 息を切らしながら、最上段までたどり着く。

 開け放たれた扉の、一歩先は空。

 その境界に佇む彼女の影のあるほうへ、俺が足を踏み出した瞬間、既に彼女は境界の向こうへ消えていこうとしていた。

「……ッ!」

 声が出ない。

 ──間に合わない。

 軋む身体を叱咤して、それでも俺は走った。

 呆気なく、彼女は虚空へと身を躍らせた。足が床面を離れ、数瞬前までいた場所から遠ざかっていく。

 つい先程まで彼女が立っていた場所に、俺はやっとたどり着く。


 届かないと知りながらも、落ち行く彼女に手を伸ばす。


 なびく長い髪。

 意思の強そうな眉に、すらりと通った鼻梁、薄い唇。

 俺の姿を映した大きな目が、驚いたように見開かれて。


 その瞬間の表情の移り変わりを、何と言い表すべきか。

 驚愕。

 困惑。

 絶望。

 悔悟。

 ──そして、何かを諦めたような、寂しげな微笑。


「──……」


 彼女が地面へと叩きつけられるまでの、永遠にも似た刹那の光景が、俺の目に鮮烈に灼き付いた。


 不思議なことに、他人であるはずの彼女はどこか俺と似ていて。

 でも俺はまずしないであろう、あまりにも印象的な──言ってしまえば絵になる──表情の変化を見せられたものだから。

 どう考えてもナンセンスで、不覚なのだが。

 ……美しい、と。

 そう思ってしまったのだった。


  ◆


 数時間後。

 警察による事情聴取からやっと解放され、俺は自宅アパートの一室でベッドに横たわっていた。

 思考がぐるぐると渦巻いて、眠れそうになかった。

 状況から犯人扱いされるのも無理はなかった──施錠されているはずの時計塔の中に男女が侵入し、女が転落死したとあれば、痴情の縺れによる自殺や、男が突き落としたというセンを、誰だって一度は想像するだろう──が、俺の頭を占めていたのは、事情聴取で犯人扱いされたことへのショックではなかった。


 ──どうして。

 ──


 落ち行く彼女の姿を目にした瞬間から、俺の思考はそんな混乱で塗り潰されてしまっていた。

「……」

 俺は嘆息し、しばし思索にふけることにした。


 確かに、同じ一日六月二十五日を繰り返してきたと言っても、そのすべてがまるきり同じということはなかった。

 元より人間は気まぐれで、俺が関わろうが関わるまいが、それぞれの行動は微妙に異なっていた。それによってもたらされる結果も、確率はあくまで確率といった感じで、必ずしも一定というわけではないようだった。

 それこそ死亡事故が起きたり起きなかったり、当事者となる人間の構成や被害の程度が少し変わったりといったことは、おそらく当たり前のように起こっているだろうと思う。

 だが、そうした偶発的な要因が大きい事故と、彼女の自殺とでは、明らかに性質が異なっていた。


 彼女はおそらく自らの意思で時計塔に侵入し、自らの意思で身を投げた。

 なのだ。しかもそれが自殺ともなれば、当然ながら相当ハードルも高い。

 そこが問題だった。


 大学構内であれ、多少違う場所であれ、この近辺で派手な自殺騒ぎが発生しようものなら、嫌でも耳に届くはずなのだ。

 それほどに、あまりにも

 ほぼ決まりきった内容だからとニュースの類の確認がおろそかになっていたことは否めないが、それでも緊急車両の往来、大学の友人からの連絡など、俺が事態を関知しうる機会はいくらでもあったはずなのだ。

 にもかかわらず、これまでそのような情報が俺の耳に一切入ってきていなかった。

 おそらく、俺が認識しているには、彼女の自殺は起こっていない──ここに違和感がある。


 バタフライ・エフェクトという言葉があるように、蝶の羽ばたき程度の小さな変化要因が、時として思いもよらない大きな影響をもたらすことはある。

 とはいえ、多少の差異はあれど、一日に起こることの大まかなパターンは決まっているのだ。

 

 ましてや、偶発的な要因の大きいものならいざ知らず、本人の意思に基づく能動的な自殺は、基本的には必ず起こるか、絶対に起こらないか、そのいずれかであるはずなのだ。

 それこそ、繰り返しを認識している俺が恣意的にそうなる自殺するように干渉をしたということであれば話は別なのだろうが、生憎俺にはそのようなことをした心当たりは露ほどもない。

 にもかかわらず、彼女は今日自殺した。


 たとえば、六月二十五日いちにちの開始以前に、既に彼女が自殺の決意を固めていたとする。この場合、もっと高確率、高頻度で自殺しているはずなのではないか。

 たとえば、この一日に何かきっかけになるような決定的な出来事が起きて、その結果自殺に追い込まれたとする。この場合も、ひとりの人間を自殺という思い切った行動に駆り立てるほどの出来事が、(これまでは起きていなかったにもかかわらず)突如この一日の中でだけ起こるものだろうか。

 たとえば、彼女が元々そういった外的要因なしに突発的に自殺の踏み切るような人間であったとする。この場合も、やはりどこかおかしい。

 俺に思い浮かぶ可能性、そのいずれも、ことの説明がつかないのだ。……それとも、これまでは自宅での縊死や河川への身投げなど、目撃者不在、当日内の発見が困難であるような方法を選んでいただけで、実際には自殺していたのだろうか?


 ──見たこと、聞いたこと。変わったこと、変わらないこと。

 冴島さんの言葉が去来する。


 俺が取りこぼしてはならない情報もの

 おそらく、今日起こった彼女の自殺こそが、その最たるものだろう。

 彼女自身、あるいは彼女に関係する何かが、この繰り返しを解き明かす上で重要な意味を持つ。……根拠こそないが、確信に近い感覚があった。


 ──あと一分か。

 時刻を確認して、内心でそう呟いた。


 日付が変わるまで起きていれば六月二十六日明日に行けるのではないかと試したのは、それこそ一度や二度ではない。

 しかし、俺の試みはそのことごとくが失敗に終わっていた。

 この現象に巻き込まれる以前には、何回か徹夜をしたことはあるし、年齢や健康面を踏まえても、その程度の夜更かしが苦になるような問題は特に抱えていないはずなのだが。

 どんなに目が冴えていようと、どんなに抗おうと、どんなに自宅から離れた場所にいようと、六月二十六日午前零時になるその瞬間に、さながら機械の電源でも落とすかのようにと意識が──あるいは世界が暗転する。

 アラームが鳴ってやっと意識を取り戻して、懲りない俺はそれが六月二十五日午前八時であることを確認しては肩を落とす。それが毎日のパターンだった。


 ……明日もきっと、六月二十五日今日が来る。

 そうしたら手土産を買って、もっと早い時間に冴島さんのところへ行こう。

 今日時計塔から身を投げたについて話をして。可能なら、自殺する前の彼女本人を見つけ出して、話を聞こう。


 そんなことを思案しながら、俺はぼんやりと天井を見つめてを待った。


 ……三、二、一、──……


   ◆


「……嘘だ」

 起床後、いつものように日付を確認して、俺は愕然とした。


 、午前七時。


 六月二十五日に囚われた俺があれほど待ち望んでいた、次の日明日だった。


 真っ先に浮かんだ感想はそれだった。

 こうも呆気なく、六月二十五日を越えたのか。

(一体どうして……)

 心当たりといえば、それこそぐらいしか……。

 まさか。

 、なのか。

 本来六月二十五日に死ぬべきだったはずの彼女が何故か死ななかったために繰り返しが起こる──俺を悩ませてきたのはそういった類の怪奇現象で、彼女が死んだことでやっと終息した……そういうことだろうか?

 後味が悪い。素直には喜べなかった。


 それよりも。

 次の日が来てしまったということは、彼女が死んだ昨日……俺が重要参考人と目される立場になってしまった状況は据え置き、ということだろうか。

 これは少し困ったことになったな、と内心で呟く。

 繰り返しから抜け出したと思っていいのかはわからないが、混乱する頭を整理する意味でも、冴島さんに事の次第を報告することはしておきたい。

 冴島さんが朝からサークル室にいるとは限らない──可能性としては低いように思える──が、あまりもたもたしていると再度警察から呼び出されて機を逸してしまうのではないか。

 この時間帯に手土産を調達できるのは、二十四時間営業のコンビニエンスストアやスーパーマーケットぐらいのものだが、背に腹は代えられない。

 自由に動ける間に買い物を済ませて、大学に顔を出しておくべきだろう。

 混乱しながらもそう結論付けた俺は、支度もそこそこに家を飛び出し、コンビニエンスストアを経由して大学へと向かったのだが。


「え……?」

 思わず声が漏れる。

 時計塔のある広場。

 現場だったはずの場所には、規制線さえ張られていない。

 それどころか、昨日あれだけ派手に飛び散っていたおびただしい量の血の痕も、まるでかのように綺麗さっぱり消えていた。

 あまりにも、いつも通りの風景がそこにあった。

 急ぎ現場検証を済ませ清掃された後であったとしても、聞き込みをする警察官や事態を嗅ぎ付けた報道関係者らがひとりたりともいない、というのはやはり不自然だった。

 まして、当時の状況から彼女の死に関わったのではないかと警察から目された俺は、昨日みっちりと事情聴取まで受けていた。

 現場に居合わせた俺からしてみれば、当時彼女が自ら身を投げたことは疑いようもないのだが、警察からしてみれば俺の証言ひとつで事件性なしと判断するわけにはいかないだろう。実際、少なくとも昨日の様子では、交遊関係の洗い出しなどかなり慎重に調べが進められていた……はずだった。

(どういうことだ?)

 狼狽うろたえながら再度日付を確認したが、それでも結果は同じだった。


 


 今日もまた六月二十五日が繰り返しであったのなら、になるのは当たり前だ。……のだから。

 皮肉なことだが、俺は散々それを見てきたものだから、として納得できていた。


 しかし、今回は違う。

 巻き戻っているわけではないのに、時間は確かに進んでいるはずなのに、まるでそこからかのような──。


「……」

 重要参考人として呼び出される心配こそしなくて良さそうだったが、俺としてはそれどころではなかった。

 砂を噛むような違和感。

 手土産食べ物と情報は準備したのだ。とにかく冴島さんと話したい。


 一時限目の開始まではまだかなりの時間がある。

 それでも、と一縷の望みをかけて向かったサークル棟の一室──オカルト科学研究会に割り当てられた部屋は、やはりと言うべきか施錠されていた。……誰もいない。

 ならば、と正門近くで待機体勢に入ったまでは良かったが、院生である冴島さんのスケジュールなど昨日少し話しただけの俺が把握しているはずもない。せめて冴島さん以外の会員の顔を把握していれば良かったのだが、今それを後悔したところでどうにもならなかった。これは空振りかなと思いながら、行き交う学生たちをぼんやりと眺めていた。

 眺めていたのだが。


「……っ!?」

 姿が視界に入り、ヒュッと息を呑んだ。


 目が合ったような気がしたが、素知らぬ様子で眼前を素通りされる。

 相手の事情がどうであれ、俺としてはこのまま看過することはできなかった。


 その背を追いかけ、「待って」と呼び止める。

 幾許いくばくかの逡巡しゅんじゅんの後、観念したように振り返ったのは、やはり昨日はずの女だった。

 明らかな異常事態。

 巻き戻っているわけではないのに、時間は確かに進んでいるはずなのに。かのように、

「……」

 女は静かに、俺の言葉を待っていた。

「……きみは」

 言いかけて、俺は口ごもった。言うべき言葉を準備していなかった。

 やれ昨日死んだはずでは、だの、どうして生きている、だのという言葉を投げつけるのは、あまりにも直截的で無遠慮が過ぎるように思われた。

 それに、もしも相手の身に覚えがなかった場合、少々ややこしい事態へと発展するように思われた。

 ……何と言えばいい?

 思案していると、女は小さく嘆息し、口を開いた。

「……きみ、覚えてるんだ」

 それは、あまりに決定的な一言だった。


「昨日、ぼくが死んだこと」


「……」

 俺の反応──沈黙という名の肯定──に、『ぼく』という印象的な一人称を使う女は小さく「ふぅん」と言った。

「その様子だと、のかまでは、まだわかっていないのかな」

 嫌な予感がする。

 先程から、として、頭に浮かんでいたことがひとつあった。

 ──どうか杞憂であってほしい。

 俺のそんな想いもむなしく、彼女は唇の端を少し歪に吊り上げて言ってのけた。


明日次の日を迎えるための手段がそれしかないとしたら、きみならどうする?」


 ──あぁ。

 、と思うと同時に、絶望と哀切と憤怒が入りじったような、複雑な感情が溢れ出した。


 ──彼女が死なないと、俺に明日は来ない。彼女の気まぐれで決まる生死に俺の命運がかかっているなんて、そんな理不尽なことがあってたまるか。こんなものにこれからも付き合わされるなんて、たまったものではない。

 ──彼女が、彼女の思う最良の一日を手にするまで、あるいは飽きるまで一日を繰り返しているのなら。その最良の一日を確定させるためであるとか、同じ一日に飽きたとか、そういったことを理由に自死を繰り返してきたのだとしたら、こんな身勝手なことがあっていいのだろうか。気味が悪い。

 ──俺が繰り返しを知覚した六月二十五日よりも前から、彼女がずっと『死ななければ明日を迎えられない』日々を過ごして来たのだとしたら、一体彼女はどれだけの回数の死を経験してきたのだろう。それなりの苦痛を伴うはずの死を、誰にも知覚されず、誰からも悼まれないまま、どんな気持ちで。世界のことわりを外れているであろう彼女は、少し哀れだ。そんな彼女の無数の死の上にがあると思うと、俺は無性に居心地が悪かった。


「改めて、ぼくは網代木あじろぎ かなで。今後ともよろしく」


 そう名乗る彼女に、一体何とこたえるべきなのか、俺にはわからなかった。

 何も言えずに彼女を見遣ると、やはりほんの少しかなしげに──寂しげに、微笑ほほえんでいた。

 昨日自ら身を投げたときのそれと良く似たその表情が、一体何を意味しているのかも、この時の俺にはわからなかった。

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