第16話 訪問②

 ……待ってくれ。今、「キスしよう」と言ったのか?

 突然の出来事に、俺の頭は混乱する。


「……良いでしょ?」

「よ、良くはないだろ」


 なんとか声帯を震わせて、反論した。

 すると目黒の顔がさらに近づいてきて、思考が止まりそうになる。


「なんで?」

「そりゃ、付き合ってるわけじゃないんだし……」

「……ねぇ。神戸ってもしかして、キスしたことないの?」

「……っ! どうしてそう思うんだ?」

「だって、反応が初心うぶだから」


 目黒が俺の耳にそっと触れて、頬を愛おしそうに撫でてきた。

 ただただ俺は固まることしかできず、ごくりと唾を飲む。


 ……しかし意外にも、目黒は少し視線をずらして顔を赤らめた。


「私もさ、初めてなの」


 照れ隠しのためか、目黒は口元を綻ばせて「ふふっ」と笑う。


「イメージなかったでしょ。私、外見からして軽そうだし」

「……いや、別に──」

「噓つき」


 耳に吐息がかかる。

 鼓膜へ振動がダイレクトに伝わってきて、ゾクッとした。


「確かに、彼氏がいたことはあったよ。……でもキスとか、その先までするのはちょっと違うなって思っちゃってさ」


 「だから」と続けつつ、目黒は首に手を回してきた。

 そして、真っ直ぐに俺の目を見据える。


「ここまで本気好きになれた人、初めてなの」


 キスをしたいということは、それ即ち好意を持っているということ。

 しかも、目黒にとってのそれは一段と大きい意味を持つものらしい。


 その覚悟は、言葉だけでなく、彼女の目からも伝わってきた。


 ……だが。


「すまん。俺には……」


 目黒に魅力がないわけではないと思う。きっと多くの男子から人気があるだろうし、傍から見たら断るのは勿体ないのかも知れない。


 ただ、俺には暮葉しか見えない。


 だから、できない。


「……だよね」


 目黒は少し落胆したような声で言って、俯いた。


「どうせ、西條のことが好きなんでしょ?」

「……」

「言わなくてもわかるし」


 どこか自嘲気味な口調の目黒。最初からこうなるのは分かっていたかのようだ。


「でも西條、神戸とは付き合ってないって言ってた」

「……そうだな。付き合ってない」

「──だからさ、私にしときなよ」


 再び目黒が目線を合わせてきた。今度は、少し寂し気なように見えた。


「……」

「私さ、神戸のためだったらなんでもする」

「……」

「キスはもちろんだけど、神戸が望むならその先だって」

「……」

「い、一応さ。用意はしてきたからっ……」


 そう言って目黒がポーチから取り出したのは、正方形の形をした何か。

 手のひらサイズで、平べったい。考えるまでもなく、コンドームだろう。


「別に今すぐ好きになれとか言わないし、最初は試しに付き合うみたいな感じでも良いよ。それでも……だめ?」


 ──だめ。

 たった二文字で解決するはずなのに、俺の喉は音を発してくれない。


 別に目黒の誘惑に負けそうだとかそういうことではなく。


 俺は、


「……カーテン、閉めるね」


 目黒は俺のベッドに乗って、宣言通りカーテンを閉めた。


「ほら、これで誰かに見られる心配は無いよ。隣の家、西條なんでしょ?」


 今度は背中から抱きついてくる。

 背中に大きな双丘が押し付けられているのを感じた。ブラジャーをしているからか無機質な感触だが、その下には確かに柔らかなものがあると分かった。


「……何か言ってよ」

「……」

「何も言わないってことは……良いの?」


 背面から、ゆっくりと横に移動してくる目黒。


 そして、こちらを覗き込むような形で顔を近づけてきて──


「……ッ! ごめんッ」


 互いの唇が触れそうになった時、俺は目黒の肩を掴んで、強引に引き剝がした。


 驚き、小さく悲鳴をあげる目黒。

 彼女はしばらく放心状態でこちらを見つめてきた。


「…………だめ、か」


 目黒はポツリと言葉をこぼした。伏せた顔はこちらから見えず、どんな表情なのか分からない。


 ただ、俺はその光景を見て、心に重い鉛を詰められたような感覚に陥った。

 ──初めてできた彼女を振ってしまった、のように。


 もうこんな思いはしたくないのに。こんな思いは誰にもさせたくないのに。


「……私、もう帰るね」


 目黒は立ち上がってポーチを拾い上げると、そのまま俺の部屋の扉に手をかけた。


 ──この時の俺は、どうかしていたんだと思う。

 目黒の後ろ姿が、の彼女の後ろ姿をフラッシュバックさせたのだ。


 その映像が浮かび上がった時、俺の身体は動き出し、目黒の腕を掴んでいて。


「えっ……?」


 急な展開に、彼女は目を丸くした。


 行動したものの、声が出ない。

 なぜ目黒を引き留めたのか、俺にもよく分からないからだ。


「神戸……」


 目黒はこちらに向き直って、声を掛ける。

 当然俺は、返事ができない。


 するとその瞬間、シャツの胸ぐらをグイっと掴まれて。


 ──俺は目黒に、唇を奪われた。


「んっ……」


 彼女の喉から、くぐもった声がれる。

 たどたどしくも、目黒は自分の唇を俺の唇に押し当ててきた。時おりその瑞々みずみずしい唇を擦りつけて、溢れんばかりの情愛を伝えようとしてくる。


 その度に俺は全身の血が沸騰するような気がして、次第に意識が朦朧もうろうとしたものに──



「えっ、噓……?」



 その声に、意識を引き戻されると。



 そこに現れたのは、暮葉だった。

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