41 愛しいマルテス

 フレイヤの言葉が光に飲まれて消え去ったあと、私は先輩と二人、生活指導室に向かい合わせに立っていた。


「戻って来れちゃいましたね」


 しばらくの沈黙のあと、私から視線を外し続ける先輩に苛立って、ついそう言ってしまった。


「ああ」


 私が口を開いて言葉を続けようとすると先輩が少し苦しそうにボツボツと話し始めた。


「これで転移は終わりにしよう。フレイヤきみマルテスぼくも生き残り、あの世界はこのあともつつがなく続いていくのだろう。その結果がどうなったのかは僕にも分からない。今日の記憶を最後に僕にもあちらの記憶は生まれていない」


 本当だ。確かにあの先はまるっきり記憶にない。


「きっと君も僕もあの世界の生から切り離されたのだろう。もしかしたら僕たちの魂の一部はあちらであのままあの世界を生き続けているのかもしれない。でもそれはもう僕たちとは別の人生だ。残念ながら、やはりあちらに転生しなおすことは出来なかったが、これ以上は僕たちではどうしようもない。君もこれで夢を見ることもないだろうし、いい加減あきらめがついただろう」


 私から視線を外したまま、いつものように机の向こう側に座った先輩は、まるで二人の間にはなにもなかったかのように能面顔を貼りつけて私にそう告げた。


「さて。君はそろそろ帰りたまえ。明日は大切なお見合いがあるのだろ?」


 先輩は無感情にそれだけ言うと、私の返事も待たずに椅子をくるりと回して背を向けた。


「……失礼します」


 突然素っ気なく突き放された気がしてしばらくの間呆然とそこに立ち尽くしていた私は、向けられた椅子の背に冷たい厚い壁を感じながら、ただ一言そう言い残して部屋をあとにした。


 どうしても釈然としない。

 フレイヤとマルテスの人生が私の物とは別なのは分かってる。運命は書き換えられて先輩が言っていた通り彼らは彼らの新しい人生の糸を紡いでいくのだろう。

 私たちを置き去りにして。


 それにしたってあの場には先輩だっていたのに。

 私がフレイヤの心に強く共感してその思いを共有していたのと同じように、先輩もまたマルテスの想いを共有してくれているんだと思ってた。

 なのに。

 なんだか今始まったばかりの恋愛小説が突然目の前でぱたりと閉じらえてしまったような、どうしようもない喪失感に、その夜私は泣くことも出来ずそのまま朝を迎えた。




 どんよりとした私の気持ちを代弁するかのように、どんよりと曇った日曜日。

 晴れない気持ちを胸に仕舞いこんだまま、やはり冴えない顔のお父様に連れられ車に乗っていた。

 ぼんやりと窓の外を見れば、ここ数日の温かな日差しのおかげで所々で桜が咲き始めている。私の気持ちなどお構いなしに春は訪れているらしい。


「ほら着いたよ。足もとに気を付けて」


 車を降りお父様に従って砂利道を歩いて向かったのは、平屋づくりの古い日本家屋を改装した料亭だった。板張りの廊下を進んで襖の閉められたいくつもの和室を通り過ぎ、小さな渡り廊下を抜けて案内されたのは離れの一室だった。

 引き戸を開けると、途端、かぐわしい花の匂いがこじんまりとした玄関から漂ってきた。見れば上りかまちの奥に置かれた背の低いテーブルに、季節外れの大きな紫陽花あじさいの花が一輪飾られている。

 それを目にした瞬間、それまで溜め込んでいた胸の中のモヤモヤがいち時に爆発して、一気に涙があふれ出た。


「お父様。……やっぱり嫌です」

「え?」


 引き戸を引いて先に中に入った目前の父に、私ははっきりとそう言った。


「お見合いなんて無理。無理なの」

「なにを突然、どうしたんだゴールデン」


 とどまることなくボロボロと涙がこぼれ落ちた。押し殺し続けた気持ちがせきを切ってあふれ出て、自分でも、もうどうにもならなくなっていた。


「ごめんなさいお父様、本当に駄目なの。だって私、好きな人がいるんですもの」

「そ、そんな。パパはどうしたらいいの? パパだってゴールデンのお見合いなんて最初っから嫌なんだから──」


 ポロポロと涙をし続ける私を見てお父様がおろおろし始めると、目の前でスッとふすまが開いた。


「そんなところで言い合いをしていないで入りなさい。黄金こがねも文句は中に入ってから言うといい」


 つむぎの着物をきっちりと着た叔父様がふすまの前で腕を組み、私たちを厳しいお顔で見下ろしながら、いつも通り厳しい声音でそう告げた。

 一瞬ひるみそうになり、でも開かれたふすまの向こうに見えた人影に、私は思わず素で叫んでた。


「先輩!?」


 部屋の真ん中に置かれたの和机の向こう側、しかめっ面でお茶をすすってた先輩が、私の素っ頓狂な叫び声を聞いて迷惑そうに片眉を上げた。

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