2 それは春の終わりに始まりました

 入学式からまだ日が浅い私には、新しい高校の校舎はどこを見ても目新しい。

 今私が歩いている芸術棟から本棟へとつながる渡り廊下に人気はなく、片側を沢山の紫陽花あじさいに埋めくされた細い通路は、なにか秘密めいていてワクワクしてしまう。

 緑のカリフラワーのような形のつぼみを沢山つけた紫陽花は、薄くし込む太陽に輝いて、まるでその開花の時を今か今かと待ちのぞんでいるようだった。


「あーあ、もう直ぐ梅雨なのねぇ。やだわぁ」


 わざと少し大きな声でそう言いながら、周りをキョロキョロと見まわしてみる。人目のないことを確認した私は、ウキウキと紫陽花に歩み寄って一輪の蕾に手をえた。

 手に収まった紫陽花の蕾は小ぶりで、まだギュッと固く閉じられている。そこに気持ちを集中して、ほんの少しだけ、手に『虹』を染み出させると、ゆっくりとその紫陽花あじさいつぼみが外側からほころび始める……

 それを見る私の頬もついうっとりとゆるんでしまった。


 これがあの「最後の夢」と共に私に現れた、もう一つの変化。

 夢の中のフレイヤの力だった祝福しゅくふくの『虹』。

 それは全ての生き物に祝福を送ることができる、彼女の力だった。


 夢で見てすぐ『虹』の使い方はなんとなく分かったのだけど、残念ながら実践じっせんはすぐにはできなかったの。

 多分、肉体からだが違うからかな。


 人目をしのんでは試行錯誤をり返し、やっと少しコントロールが出来るようになったのがほんの数日前。

 だから今、私はこのささやかな『虹』を少しでも実践したくてしたくてしょうがないのだ。


 だけど手の中の紫陽花が一段、二段と外側から徐々にほころび、美しく花開いたその時。


「君、そこで何してるの?」


 突然後ろからかけられた低い声に私はび上がり、あわてて花を背で隠すようにしてギクシャクと振り返った。


「今、君なにをしてた?」


 刺すような厳しい目と能面のうめんのような無表情でこちらをにらんでるのは、入学したばかりの私でも知ってる有名人。泣く子も黙る生活指導委員長の館山たてやま朝火あさひ先輩。


 背中に竹でも一本入れてるんじゃないかと思うほどスッと真っ直ぐに伸びた背筋、180センチ越えてまだ成長中だというその高身長。

 日本人形のようにスッキリとした顔に耳の辺りで切りそろえられたサラサラの黒髮。そこだけ見れば、もうモテモテ間違いなしのイケメン要素タップリなのだが。


 その口煩くちうるささと硬すぎるほど硬い石頭が全てを台無しにしてる、全校公認の残念イケメンだ。

 生徒手帳を握って生まれてきたんじゃないかと噂されるくらい、ほんの少しの校則違反も見逃さない。

 その融通ゆうずうの利かない性格のせいで、誰独りとして彼に近づく者はいないという、我が校切っての嫌われ者だ。


 よりにもよって面倒めんどうくさい人に見つかった。


「は、花を愛でていただけです」

「……紫陽花あじさいはまだ季節じゃないだろう。今、なにを後ろに隠したんだ?」


 私の誤魔化しを完全に無視した先輩は、そのまま真っ直ぐツカツカとこちらに向かって歩いてくる。


 ひゃぁあ、やっちゃった!


 余計なこと口走らなければ、一本くらい他よりほころんでても誤魔化せたのに。


 今ここでこの紫陽花を見られたら絶対不審に思われる!


 そうは思うけど、逃げ場もなければ隠しようもない。

 なにか逃げ道はないかとキョロキョロと周りを見回したが、すぐ目前に迫った先輩の迫力に押され、結局そのまま金縛かなしばりのように立ちくした。


「どきたまえ」


 冷たい視線で私を一瞥いちべつした先輩は、そのガッシリとした体格に似合わぬ素早い仕草でスッと私の腕を引き、難なく私の身体を横に退しりぞける。

 だが私の後ろに隠れていた紫陽花あじさいを目にした途端、彼は私の腕を掴んだまま、ピキリと音が立ちそうな勢いでその場でこおりついた。


「そ、その花だけ咲き始めていたので珍しいなっと思い、立ち止まっていただけなんです」


 ピリピリした緊張感が先輩から流れ出し、えきれなくなった私は思わずスラスラとウソ八百を並べた。

 だが私の腕をガッチリと掴んだ先輩は、真っ直ぐに紫陽花を見据えたまま硬い声で呟く。


「僕はほんの十分前にここを通りかかったが、咲き始めている紫陽花など一つもなかった」


 失敗した! まさか先に先輩がここを通っていたなんて。


「しかも僕が君に声をかけた時、君は僕が不審に思うほど極度におびえていた」


 こちらに背を向けて、紫陽花の花をジッと見つめる先輩の後ろ姿に、いっそこのまま腕を振り払って逃亡したい衝動しょうどうにかられ始めたその時。

 クルッと先輩がこちらを振り向いた。

 突然、先輩の無駄に整った顔が目前に現れて、一瞬、ドキリとさせられる。


 だけどすぐに驚いて、その顔をマジマジと見返してしまった。


 私に向けられたその顔からは、さっきまでのような能面のような冷さが消え、代わりになぜかこちらまで苦しくなるほどの切望と焦燥しょうそうたたえていた。


「君は……この花を開かせたのか?」


 はやる気持ちをおさえ込むように、先輩が少しふるえる声で私にたずねる。

 その声音こわねは緊張を含みながらも迷いがなく、私が咲かせたのだという事実を一片いっぺんも疑っていないようだった。


 なんでそんなに確信持って聞いてくるの?

 しかもこんな切羽せっぱ詰まった顔で……。

 ここで私が認めたらどうなるんだろう?


 学校の花を咲かせたからって校則に違反はしないハズだ。ついでにどんな罪にもならないはず。

 だけど、もっと違う次元で問題が起きるのは間違いない気がする。


 私がいつまでも答えを出しかねていると、先輩が勝手に先を続け始めた。


「なんでだ。なんで今まで現れなかったんだ……いや、なぜ今現れた? なぜ今更いまさら

「え?」

「今まで全く姿を現さないでなぜ今更……」

「わ、私のことですか?」


 私の問いかけに先輩はハッとしたように私の顔を覗き込み、直ぐに深い失望を顔ににじませた。


「君は……君は覚えてないのか?」

「覚えていないって、なにを?」


 あまりにも真剣な先輩の眼差しに、私はつい、そのまま聞き返してしまった。


 そんな私を悲しげに見つめていた先輩は、ふと視線をあげて顔を引き締め、すぐにさっきまでの能面顔に戻ってしまった。


「引き止めてすまない。移動時間が終わってしまう。君の教室まで送ろう」


 無機質な声でそう言うと、私を避けるように背を向ける。

 私を引き連れてその場を離れる先輩の背中には、すでに迷いはなかった。

 目の前を歩く先輩に今更嫌ですとも言えず、私はおずおずとその後ろをついて歩き始めた。たった一輪、咲きかけの紫陽花が静かに私たちを見送っていた。

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