29. 焦燥

「……なぁ? 何焦ってんだ?」


 藤代環の家を出てからしばらく無言だった颯空が、美琴の方に顔を向けずに話しかける。先ほどの一件をまだ引きずっている美琴はグッと唇を噛み締めた。


「……焦りたくもなるわよ。本当に時間がないんだから」

「時間がないって環の事か?」


 ちらりと美琴の顔を見ながら颯空が尋ねる。すぐには答えなかった美琴であったが、観念したようにため息を吐いた。


「えぇ、そうよ。藤代環が四月中に一度でも学校に来なければ、他の通信制の学校に転校する手はずになっているわ」

「なっ!! 四月中ってお前……!?」

「そうね。あと二日しかないわね」


 美琴が乾いた笑みを浮かべる。颯空は顔をしかめながらガシガシと自分の頭を掻いた。


「どうりでぼけっとしてたわけだ。わけの分からん理由で環を学校に来させようとしてたし」

「わけが分からないって事はないでしょ? 楽しい楽しい課外授業に一緒に参加しようっていい誘い文句じゃない」

「あのなぁ……今の今まで引きこってた奴がいきなり課外授業で仲良しこよしを出来ると思うのか? ダチもろくにいない状況で? どう考えてもハードル高ぇだろ」

「うっ……!!」


 颯空の言う事は尤もだ。学校に順応していない生徒にとって学校行事など苦痛でしかない。学校に行かないで部屋に閉じこもっている者なら尚更だ。そんな事は少し考えれば分かるはずの事だったというのに、どうやら制限時間が設けられ自分で思っている以上に追い詰められていたらしい。


「大体、そんな大事な事なんで今まで黙ってたんだよ?」

「仕方がないでしょ。私だって今日会長から聞いたんだから」

「あぁ? って事は、あの野郎がずっと隠してたって事か?」


 スッと目が細まった颯空を見て、美琴が慌てて左右に首を振った。


「ち、違うわよ。会長も今日先生から聞いたっておっしゃってたわ。その事を知って、すぐに私を探して教えてくれたんだから、感謝はすれど恨むのは筋違いよ」

「はっ! どうだか」


 不貞腐れたように颯空がそっぽを向く。


「とにかく、今日がダメでもまだ明日があるわ。私は諦めないんだから! 絶対に藤代環を登校させてみせるわ!!」


 それまでの暗い気持ちを払拭するような声でそう言うと、美琴は力強く歩き始めた。そんな彼女の後姿を見て、颯空がぼそりと呟く。


「……それは環のためって事でいいんだよな?」


 その声は前しか見ていない美琴の耳には届かなかった。


 翌日。

 授業を一切聞かず、美琴はどうすれば藤代環が学校に来るのか一日中頭を捻らせていた。だが、一つ案が浮かべば消えていき、また違う案が浮かべば消えていくの繰り返し。昨日の様子を見る限り、環の心は学校に対して全くというほどポジティブな感情を抱いていない。そんな彼女を明日までに学校に連れ出すなど、どう考えても時間が足りる気がしなかった。

 だが、泣き言ばかりも言っていられない。放課後になるや否や、当たって砕けろの精神で颯空を連れて環の家へと向かう。空は生憎の雨模様であったが、これでもかと気合の入った美琴には関係なかった。家の前で一つ深呼吸を挟み、覚悟を決めてインターホンを押す。だが……。


『……ごめんなさいね、二人共。環が今日は誰とも会いたくないって』


 出鼻をくじかれるとはまさにこの事だった。一瞬思考が停止した美琴であったが、このまま素直に引き下がるわけにもいかないので、必死に食らいつく。


「よ、佳江さん! お願いします! もう時間がないんです!」

『…………』

「明日を逃したらあの子は清新学園にいられなくなるんです! それはあなたも分かっているでしょう!?」

『…………』


 僅かな光に縋るように、美琴がインターホンに向かって話しかける。その様子を颯空は黙って見つめていた。


『……通信制の学校に通わせるのも、悪くないかもしれないって最近思っているの』

「え…………?」


 思いもよらない佳江の発言に、美琴が呆気にとられた声を上げる。


『学校に行って、同世代の友達を作って、笑って泣いて……短い学生生活を楽しく送ってもらいたい、そんな風に願っていたわ。でも、それがあの子にとって苦痛になるのであれば、それはただの私のエゴになってしまうわね』

「エ、エゴだなんて……!!」

『それに、このまま無理やり学校に行かせて転校を先延ばしにしたとしても、あの子にとって何の意味もない事だと思うの。心の底から学校に行きたくない、とあの子が思っているのなら、私はそれを強制したくない』

「…………」


 もはや、美琴の口からは言葉が出てこなかった。泣きそうとも思える顔でただただインターホンを見つめている。


『あなた達二人には本当に感謝しているわ。あの子が楽しそうに話しているところなんて久しく見ていなかったから。……もしよければ、学校が変わってしまっても、時々あの子に会いに来てあげてください』

「…………」

「あぁ、まかせろ」


 何も言えなくなってしまった美琴の代わりに颯空が答えた。インターホンにつけられたカメラから二人を見ていた佳江は、何かを噛み締めるようにゆっくりと目を閉じる。


『……本当にありがとうね』


 ガチャ……。


 どうやらインターホンの接続は切れたようだ。今は容赦なく地面に打ちつける雨の音しか聞こえてこない。


「……行くぞ」


 颯空が環の家に背を向けて歩き出そうとした。だが、美琴は門の前に突っ立ったまま動こうとしない。面倒くさそうにため息を吐いた颯空は、もう一度美琴に声をかける。


「おい、聞こえなかったのか。さっさと帰るぞ」

「…………嫌よ」


 雨音にかき消されながらも、辛うじて聞こえてきたのは拒絶の言葉だった。思わず颯空が顔をしかめる。


「帰るんだったらあなた一人で帰って。私は帰らないわ。まだ何か打つ手があるはず」

「何言ってんだよ。おばちゃんに拒否きょひられた以上、俺達に出来る事なんてねぇだろ」

「……だからと言っておめおめと帰るわけにはいかないでしょ。私には生徒会役員としての責任があるの」

「責任、ね……」


 颯空が美琴の方に目をやった。薄黄色の可愛らしい傘に隠れて、その表情を見る事が出来ない。


「お前は誰のためにそんな必死になってんだよ?」


 傘を持っている美琴の腕がビクッと震えた。だが、それ以上の動きを見せないあたり、答えるつもりはないらしい。


「正直、俺はおばちゃんの意見に賛成だ。学校に行きたくない奴を無理やり行かせて、なんかメリットがあんのか? ねぇだろ?」

「…………」

「学校は楽しい、なんてのはダチがたくさんいて、リアルが充実している連中がうそぶいてるだけだ。世の中、そういう幸せな奴らばっかじゃねぇ。本気で学校に行きたくない奴だってごまんといる」

「…………」

「もし、環がそのごまんといる中の一人なら、あいつを学校に行かせることが正しい事だとは俺には思えねぇよ」

「…………」

「だから、お前が環のためなんかじゃなく、あの会長に頼まれたからって理由であいつを外に連れ出そうとしてんなら……悪いが俺は手を引かせてもらうぜ」


 冷静な口調で颯空が告げる。話の途中から美琴の体がプルプルと震え始めていたのは知っていたが、颯空はあえて気づかないふりを貫いた。


「……別にいいわよ。手を引きたいなら勝手に引けば。あんたがいようがいまいが、状況は何も変わらないだろうしね」


 颯空とは対照的に何かを抑え込む様な声で美琴が答えた。。


「そもそもあんたみたいなヤンキー男を不登校の女の子の家に連れてきたのが間違いよね。普通の子だって怖がるのに、学校にいけない子があんたに会ったら、そりゃ部屋から出たくなくなるわよね」

「……別に環は怖がってねぇだろうが」

「それはどうかしらね? あんたが怖いから平気なふりをしているだけなんじゃない? あーやだやだ、これだから不良は……怖がられてるのに全然気づいてないんだから」

「おい……弱み握ってるからってあんま調子乗んじゃねぇぞ?」


 颯空の声のトーンが一段下がる。だが、以前として美琴は颯空の顔を見ようともしない。


「ほら、そうやって脅せば誰だっていう事きくと思ってるんでしょ? だから不良って嫌いなのよ。嫌なことがあっても、適当に暴れて終わりなんでしょうね。好き勝手生きても、不良だからで許される。誰からも期待なんてされないから、プレッシャーなんてまるで感じないで……本当、羨ましい限りだわ」

「っ!! てめぇ!!」


 あまりの口ぶりに颯空の堪忍袋の緒が切れた。怒りのまま、美琴の肩を掴み、無理やりこちらへ向かせる。だが、その怒りは大粒の涙をボロボロとこぼしている彼女を見て、一瞬で霧散していった。


「私も……不良になればよかったわ……!!」


 掠れた声でそう言うと、美琴は颯空の手を振り払い、雨の中を猛然と一人で歩いていく。その背中からあふれ出す拒絶のオーラを前に、颯空は後を追うことができない。


「……泣き虫が」


 顔を歪め、吐き捨てるように言うと、颯空は舌打ち交じりに背を向け、自分の家に向かって歩き始めた。

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