第20話 崩落、真実の愛の末路 ③
そういえば。
家庭教師のミセス・ウラリーが、言っていた。
上位貴族ともなれば、笑顔の時ほど恐ろしいものなのだ、と。
貴公子然とした風貌のアストリー・オールボート公爵令息が微笑む様は、実に見栄えのする美しい光景であるが、本能的に恐怖を感じさせる。
目が笑っていないとか、そういう話でもない。彼は、そこまで完璧な微笑みを浮かべている。
ただ、纏う気配が、異様な程に寒々しいのだ。ただ微笑んでいる様が、何故か空恐ろしく見えてしまうのだ。
たとえ、その矛先が自分に向いていないのだとしても。
そんな微笑みを浮かべたまま、アストリー・オールボートは悠然とした声で告げた。
「レリア・ウィルコール。君は不必要に学園内の秩序を乱した。よって、学園に関しては退学処分となる」
一方的に告げる口調は有無を言わせない声音で、しばらくの間をオールボート公爵邸で過ごしていたリィンも見たことのない傲慢さを感じさせる程の強者のそれで、自分に向けられた言葉でなくても思わず一歩後退りそうにもなる。
むしろ、背中に添えられたマティスの手のひらがなかったら、実際に後退っていたかもしれない。
そんなアストリーからの通達に、レリアは大きく両目を見開いていた。
驚きの余り、可憐な表情を取り繕うことも出来ないまま。
「……そんな……アストリー様、何でそんな酷いこと……」
ややあって、ふと我に返ったレリアが、ぱちりとヘーゼルの瞳を瞬かせる。
まるで粒のような涙の滴が、ぽろりと白い頬を伝った。
彼女に縋り付かれたポール・ヒギンズ伯爵令息は、困惑したようにレリアを見ながら、しかし慰めるような行動に移すことも出来ずにもう片方の手を
可憐に涙に濡れるレリアを慰めたいけれど、完全に自分より高位貴族であるオールボート公爵令息を前に、それを躊躇っているようだった。
彼も、どれだけ誑かされ惑わされようと、伯爵家に生まれ育った高位貴族。アストリーから発せられる、何とも言えない圧力を感じ取れないはずもない。
むしろ、感じ取れていないのは、レリアだけなのかもしれない。
「アストリー様、きっとリィンが何か言ったんでしょう? いつもそうなの……リィンはわたくしが邪魔だから、そうやってわたくしのことを悪く言うの。お父さまやお母さまにだって……」
堪えきれない、とばかりにレリアがポールの腕に顔を埋めて嗚咽に肩を震わせた。
その様子だけ見れば、彼女は完全な被害者に見えるだろう。妹に虐げられ、ありもしないことを吹き込まれた上で、公爵子息から断罪されそうになっているように。
現に、野次馬で集まっていた他の学生らが、何とも言えない視線を交わしている。
アストリーを前に表立ってレリアを庇うことは出来ないが、彼女に同情を寄せているような表情で。
やっぱり、そういう演技は上手いわよね……。
ちろりと周囲をそれとなく見渡して、リィンは嘆息が零れ落ちそうになるのを胸中にかろうじて押し止める。
いつも、と言うけれど、そもそもリィンは両親とまともに会話した記憶が、それこそここ数年程さっぱり思い出せないというのに。どうやって悪く言えるのやら。
集まる同情に、きっとレリアは顔を伏せながらも、その口角を満足そうに持ち上げているのだろうな……などとリィンは思ったのだが。
「あぁ、これは妹君は関係ないよ。スペンサー侯爵家、エヴァット侯爵家、サーラ伯爵家、ヒギンズ伯爵家、その他もろもろ複数の家からの嘆願を受けての対応だから」
事も無げに告げた、アストリーの言葉にレリアは驚愕に目を見開いてバッと顔を上げた。
「君は、著しく学園の秩序を乱した。本来なら貴族子女として守るべき節度も、持ち得ない。そして、この学園ではそのような当たり前のことを教える義理はない。それは、各家で既に身に付けているべき事柄でしかないからだね」
「……ッ」
アストリーは、にこやかな笑顔のままだった。
レリアが、ようやくその笑顔の本質に気付いたのか、息を呑む。
「ああ、ポール・ヒギンズ。君も、伯爵家の方から退学届が出されているようだよ。君については、家で詳細を聞きたまえ」
どうすべきか掴みかねて、うろうろと視線を
貴族子女、特に嫡男にとっては学園で人脈を築くことが必要最低限の要件とされる。たとえ長男であっても、学園を卒業していなければ家を継ぐことはない。
つまり彼は、ヒギンズ伯爵家を継ぐ権利を、退学届を出された時点で実家から剥奪された、ということだった。
「そんな……何で……? わたくし、何も悪いことなんて……」
「しているだろう? 婚約者のいる男性に擦り寄っている時点で、充分だ」
「だって……そんな、お母さまは……」
「ああ、そうだね。君の母君は、それを
「だったら! じゃあ、わたくしだって……!」
十八年前、シェリー・ウィルコール男爵令嬢は今のレリアと同じことをして許された。
全ての事態をなかったことにして、表向きは平穏にチャールズ・グラフトン侯爵令息と婚姻を結び、ウィルコール男爵夫妻となった。
それが最も平穏無事に終わる方法だと、周囲の大人たちは判断したのだ。
グラフトン侯爵家も、エイマーズ侯爵家も、そして王家も。
ただ一人、一方的に婚約破棄されたクラーラ・エイマーズ侯爵令嬢に、全てを押し付けて。
憤りも悲しみも屈辱も、彼女の中に押し込めて。
そして、クラーラ・エヴァット侯爵夫人となった彼女は、生来の素質も含めて大きく歪み、歪みは最終的に多くの平民の少女たちを犠牲にした。
「もう、そんなことを繰り返す訳にはいかないんだよ。元凶は、早めに断たなければ……ね?」
あの時、なかったことにしなければ良かった。
だから今回は、なかったことになんてしない。
アストリー・オールボートの微笑みはひどく柔らかく優美で、そしてひどく傲慢なそれにも見えた。
***
高いドーム状の天井と、モザイクタイルで鮮やかに装飾された床。
その間で、呆然として佇む、レリア・ウィルコール。
傍らに寄り添っていたポール・ヒギンズ伯爵令息は即座に彼女から距離を取り、馬車止めの方へ駆けて行った。自らの退学届について確認するために、伯爵家に戻ろうというのだろう。
ララから聞いた限りでは、スペンサー侯爵令息をはじめとする複数人の高位貴族令息を
女子学生の中で最も高位であるジョゼット・ル・ナン公爵令嬢が静かであったせいで、恐らくは調子に乗ったのだろう、という話だった。
周囲の女子学生らを見下し、無邪気に微笑みながら蔑んでは貶めるような発言を繰り返し、言い返されれば、令息らに泣き付いて令嬢らを糾弾させてもいたという。
それは、殆どウィルコール男爵内で行なわれていたことと変わらなかった。
貶める対象がリィンから令嬢たちに代わり、泣き付かれて糾弾する立場が両親から令息らに代わっただけで。
邸内で許されてきたから、レリアはそれが学園内でも許されることだと思っていた。
そして、母が婚約者のいる男性を、婚約者から奪っても殆どお咎め無しで済んだから、自分も同じことをして良いのだと思っていた。
「そんな……だって、お母さまが、そうすれば幸せになれるって……だから、わたくし……」
呆然と佇むレリアに、周囲から憐れみと侮蔑と、複雑に入り混じった視線が投げかけられる。
もし、彼女を誰かが真剣に止めることが出来ていたら、事態は変わったのだろうか。
ありもしない“真実の愛”に振り回され、傷付く令嬢たちもいなくて済んだのだろうか。
止めることを途中で放棄したリィンには、その疑問に対する答えは導き出せなかった。
「あぁ、それと」
付け加えるアストリーの声に、のろのろとレリアが顔を上げる。
その顔は、リィンが見慣れた、可憐でいつでも自信に満ちあふれていた姉の表情とはかけ離れた顔だった。
「ウィルコール男爵家は、爵位なくなるから」
「……何ですって……ッ!?」
アストリーの言葉に、レリアの眉と目が一気に吊り上がる。先ほどまでとも全く違う、怒りを顕にした表情だった。
「どうにも収支がおかしいと思って調べてみたら、領地経営が完全に破綻してるんだよね、ウィルコール男爵家って」
「そんなの……わたくしは知りませんわ……」
「そうだろうね、君のご両親も全く知らなかったみたいだから」
ウィルコール男爵家は、幾代か前に商才に優れた当主がおり、その手腕を評価され、僅かではあるが領地と共に男爵位を与えられた家である。
なので当然だが、ウィルコール男爵家は与えられた領地に対する権利と責任を持つ。
「当主が経営を把握していないのは、単なる責任の放棄だから。当然ながら権利も剥奪するのが、王家としての決定だそうだよ」
グラフトン侯爵家から婿入りした父は、領地経営などさっぱり理解していなかった。
金は黙っていても手に入るものという認識しかなかったが、そのような当主を支えられるだけの手腕に恵まれた使用人が、男爵家にはいなかったのだ。
もし、予定通りにエイマーズ侯爵家に婿入りしていれば、侯爵家の優秀な使用人が何とかしてくれたかもしれないが。
「そんな……じゃあ、わたくしは貴族じゃなくなるということ……?」
「そうだね、正式に裁可が下った時点で、君は貴族令嬢ではなくなる」
呆然としたレリアが、ハッと思い付いたかのようにリィンを振り向き、ぎらりと睨み付けた。
「リィン! 貴女なにを大人しく黙っているの? アストリー様と親しいのでしょう?」
「別に、特段親しい訳ではないです」
「嘘言わないで! 公爵家にお世話になってるんだから、
とんでもないことを口走る姉に、リィンは一瞬、頭がくらりと揺れた気がした。
そうか、そんなことを考えていたから、連絡も何もなかったのか。
やっぱり心配なんかしていなかったし、何だったらオールボート公爵家に伝手でも出来れば幸運、ぐらいに考えていたのだろう。
「何を言っているんですか。お兄さまも一緒ですし、どこの世界に兄同伴で囲われる女性がいるんですか。やむを得ない理由でお世話になっているだけです」
「リィンお嬢様は、ご婚約者のいる男性に近付くなんてしませんし、ご友人を裏切ることもありませんよ。貴女と違って」
これまでも自分たちの都合の良いように物事を解釈しているように思えていた両親であり姉だったが、もはやどうにもならないぐらい、その考え方が彼らの中には根付いているらしい。
もしリィンを妾にしようとするならばアルベルクが一緒に公爵邸に世話になる理由はないし、何よりも幾ら公爵家であっても堂々と妾を囲うことなど許されない。
有り得るとすれば、どこかの未亡人あたりを公妾とするか、もしくは邸外にひっそりと愛人を囲うか、ぐらいだ。
いずれにしても、あれだけララに甘くて、どう見ても溺愛してるだろ、としか言いようのないアストリーが、リィンを妾にすることなんて有り得ないのだが。
「貴族じゃなくなっちゃうのよ!?」
「構いませんよ。全く」
言い切ったリィンに、レリアは信じられないとばかりに固まり、これ以上はない、という程に両目を驚愕に染めて見開いた。
「わたしもお兄さまも、家を抜ける手続きを既に進めています。男爵家がどうなろうと、関係ないのですわ」
「あ、その手続き、終わりました。さっき、最後の承認が終わったそうです」
「あら、そうなのね。ありがとう、マティス」
「いえいえ、承認が下りたので、学園の自主退学手続きもしなければなりませんので。そのために、ここに来たんです」
どうやら全てが、ちょうど良く終わっていたらしい。
「わたしは貴族籍を抜けましたので、これから平民です。わたしもお兄さまも、それを望んでいましたので、特に問題はないですよ」
にこりと微笑んだリィンを、レリアは信じられないものを見るかのような目で凝視していた。
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