第39話クナイ6

***



 窓の外が明るく感じるようになった頃、ハンナが目を覚ました。

 彼女が身支度を整えるために洗面所へ向かったのを確認したところで俺も身を起こす。


 顔を洗い、着替えを済ませたハンナは、明るい朝日に照らされているせいか、いつもより顔色が良いように思えた。


「準備ができたら食事に行く」


 声をかけると、ハンナは頷いてすぐに支度を済ませて外に出た。

 潮の香が鼻をくすぐる。祖国は海に面していなかったので、馴染みのない匂いだが、嫌な気分はしない。ハンナも潮の香りは嫌いではないようで、表情は明るい。

 海辺の町は活気にあふれていて、朝早い時間でもたくさんの店が開いて多くの人でにぎわっている。

 外にテーブルが置かれている店に入り、朝食と飲み物を適当に見繕って注文をした。こういう場合、ハンナに聞いても特に希望はないと言われることが続いたので、勝手に注文するようになった。


 恰幅の良い女将が皿を運んでくる。海で獲れた魚や貝を香辛料で炒めたものに薄焼きのパンが添えられている一皿料理で、この辺りでは定番の朝食だと女将が説明しながらテーブルに並べていた。

飲み物はコーヒーを注文していたのだが、黒い飲み物になじみがなかったのか、珍しくハンナが目を丸くしていた。


 香辛料がふんだんに使われた食事は馴染みが薄かったが、香りが良いから普段より職が進む。ハンナの様子を窺うが、顔がほころんでいたのでどうやら気に入ったようだ。


「……美味しい」


 ハンナから思わずといった風に言葉がこぼれた。

 ただそれだけだったが、これまで自分の感情を言葉にしなかったハンナが『美味しい』と感想を口にしたので不覚にも驚いてしまった。


「気に入ったか?」


 訊ねてみると、こくりと頷く。


「辛いけど、美味しい。初めて食べる味」


 声が上ずらないように気を付けながら、『そうか』と応えると、ハンナは少しだけ口角を上げて笑った。


ハンナが感情を表に出す姿を見たのはいつぶりだろう? 直接俺に向かって笑顔を見せてくれたのは初めてかもしれない。

 たったそれだけのことなのに、動揺してしまう自分に呆れてしまう。


それから黙って食事を続けた。ハンナはコーヒーの苦さには苦戦していたようだが、最後まで飲み干して満足そうな顔をしていた。


 金を払って店を出る時、女将が大声で笑いながらハンナに話しかけていた。ハンナの白い肌が綺麗だとか美人だとか、うるさいくらい話しかけていたので、俺が行くぞと声をかけたが、女将はターゲットを俺に変えて再び話しかけてくる。


「奥さん綺麗ねえ。北のほうの人かしら? あちらの人は雪みたいに肌が白いから、この辺の日差しはキツイでしょう。あっちに帽子屋があるから旦那さん買ってあげなさいよ。ねっ?」


 綺麗な肌が日差しで真っ赤になっちゃうわとハンナの背中をポンポンと叩く女将にこまったように頷いている。

 南のほうの人間は陽気な人種が多い。祖国ではこんな風に客や知らない相手に気さくに話しかけるなどあり得なかった。

 会話を交わすと印象に残ってしまう恐れがあるため、俺は話しかけられるのは避けたかったのだが、ハンナが嬉しそうにしているので、しばらく相槌だけをして会話につきあう。

 口数は少ないものの、女将の問いかけに丁寧に返事をして、時折笑顔を見せている姿に驚きを覚える。


 この地に来てから、感情が消えていたハンナが変化を見せていたのだから、今の彼女にはここでの気風が合うのかもしれない。


 潮風に髪をなぶられて驚くハンナの姿を横目で見ながら、これからのことを考えていた。



***




 ハンナだけ宿に戻らせ、俺は気配を消して町の裏路地を中心に巡る。人と物が多く行きかう港町であれば裏の部分の闇も深いはずだ。そしてこの町の実質的な支配者が誰なのかを知っておきたい。

 まず貧民街を廻ってみたが、思ったよりも荒れてはいなかった。年寄りの物乞いは居ても、子どもが物乞いをしている姿は見られない。孤児院があるのだろう。福祉が充実しているのは町全体が金銭的に潤っている証拠である。


ざっと見た限り、港町であるため余所者にも寛容で人の出入りが多いから見た目の違うハンナの容姿もさほど目立たないため、住みやすそうな町に思える。

人が多い土地であるから犯罪の件数は少なくないが、警察と自警団がまともに機能しているので、町全体の治安は保たれている。


とはいえ、犯罪組織がないわけではない。これだけの規模の大きな港町なのだから、外国からの犯罪者も流入してくる。それを取り締まっているのは軍警察よりも、この町のマフィアだ。自分たちの利権を守るためではあるが、組織に属さない犯罪者を粛清しているだけだが、軍警察もそれは必要悪として受け入れて共生しているようだ。

マフィアの市場に踏み込んだりしなければ、住民は安全に暮らせる土地だろう。



港から少し離れたところにある集落に赴き、そこで空き家を借りることにした。移民も多くいる土地なので、保証金を多く出せば俺の出身国など関係なく家を借りられるのが有難い。ここは移民向けの集落で、肌の色や衣服が異なる者が多く住んでいる。人の入れ替わりも多く、我々の存在もさほど注目されないだろう。


 宿に戻ると、ハンナは一人静かに刺繍をしていた。


「……家を借りた。そちらへ移動する」


「家を?」


「ああ」


 それだけ聞くとハンナは荷物をまとめ始めた。なぜなにも訊ねないのかと逆に問いたくなるが、彼女の自由意思を奪った張本人がそれを言うわけにもいかず、口を噤んだ。


 借りた家は小さく古びていて、ハンナがかつて住んでいた屋敷とは雲泥の差だ。


「しばらくここで暮らす」


「はい」


 使用人を数多く従え、食事作りや水仕事など無縁な生活をしてきたハンナにはここでの生活は苦痛だろう。だが彼女はいつもどおり短く返事を返すだけで何もいってはこなかった。

 そしてざっと部屋を見回ったところで、部屋に残されていた掃除用具を見つけると黙ったまま掃除を始めた。


「掃除……」

「はい?」

「できるのか」

「?……ええ、もちろん」


 髪を結い、綺麗なドレスを着て、使用人に傅かれる生活をしていたお前が掃除などやったことがあるのかと言いかけて、飲み込んだ。

そういえば別荘に独りで取り残されていた時、掃除から食事までハンナが自分でやっていたことを思い出す。

何故かあの日々のことが頭から抜けていた。ハンナが独りになって、生活に困っていつ音を上げるのかと思って見ていたではないか。

そして今と同じように、自分で食事を作り掃除をして、たった一人で全てこなして生活をしていたのに、何故か忘れていた。


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