第30話 side:レイモンド20




 この時、俺はようやく、本当にようやく、自分がなんてことをしてしまったのかと、今更ながらとてつもない後悔に襲われた。


 俺の呪いを引き受けてくれたのに、俺は醜くなったハンナの姿が恐ろしくて厭わしくて直視できなかった。手を伸ばすハンナに、『触れられたくない』と思ってしまったことを、彼女は気付いていただろうか。


いや、敏い彼女はきっとそんな俺の気持ちを全て悟っていたに違いない。逸らした目の端に映る彼女の顔はいつも寂しそうに笑っていた。



 あれだけ尽くしてくれた妻に対し、俺はなんてことをしてしまったのか。


 机の上に広がる書類と棚に整然と並べられた資料に視線を投げて、重いため息をついた。


失って初めて気付く、とはよく言ったものだ。失くしてからどれだけ俺は彼女に支えられてきたのかを嫌というほど思い知らされた。



 いくら罪悪感を覚えても、謝るべき相手のハンナはもういない。芽生えた罪の意識に押しつぶされそうになるが、それでも俺は目の前の雑務に追われ、機械的にそれらを片づけるだけの日々を送っていた。


 イザベラともあの日以来あまり会話もなく、それまでうんざりするほど言っていた愚痴も言わなくなり、どちらかというと俺を避けているような様子だった。





休んでいた仕事も、軍の本部内だけならばむしろ安全だろうということで復帰がきまった。

しばらく顔を合わせていなかった上官に挨拶をしていると、遠くから『妻が病気療養中で不在の家に愛人を連れ込むクソ野郎が!』と周囲に響き渡るような大声で叫ばれた。


驚いて振り返ると、別部隊の男が俺を指さしていた。何故その話を顔見知り程度の奴が知っているのかと驚くしかできなかったが、ふと周囲を見ると、皆冷ややかな目で俺を見ている。


 まさか、皆そのことを知っているのか……?


 血の気が引く感覚がして、助けを求めるように近くにいる上司を振り返るが、気まずそうにして目を逸らされた。



結局その場では誰も何も教えてはくれず、罵ってきた男は孤立する俺を見て鼻で笑ってその場を後にした。

波が引くように俺の周囲からは人がいなくなり、見かねた同じ部隊の仲間が、休んでいる間にあった出来事をこっそりと教えてくれた。


 我が家を辞めた家令が、自分はハンナの遺体を見つけた時に立ち会っていた者だと言って軍を訪れ、愛人のことも全部話していったらしい。


 病気療養と称してろくに使用人もつけずに僻地の別荘に追いやり、その間に愛人を家に連れ込んでいたと涙ながらに俺の非道を訴え、直接手を下したわけではないが、間接的に俺がハンナを殺したようなものだと言って罵った。

 取り調べをしていた上役、書記官、護衛の数人がこの話を全て聞いてしまい、家令が話した内容はあっという間に軍部全体に噂が回ってしまったそうだ。


 やられた、と唇をかみしめたが、考えてみればあれだけ俺を恨んでいた家令ならばこれくらいの報復は当然考えられることだった。

 

それでも呪いの譲渡の件だけは明かさなかったらしい。それだけでも有難いと思わなくてはならないのかもしれないが、取り調べで随分と悪し様に言ってくれたようで、軍での俺の信用は地に落ちていた。



 愛人契約はままあることだし、妻が病気なら尚更後継ぎの問題が……ととりなしてくれる者もいたが、妻が異常な死を遂げたせいで、愛人と共謀して俺がハンナを殺したのではないかとまことしやかに噂されるようになっていた。


 あからさまに避けられたり嫌がらせをされるわけではないが、職場のどこにいても嫌悪のまなざしを向けられて、俺は日々憔悴していった。



 あれだけ復帰を望んでいた職務だというのに、今では日々この場から逃げ出したい衝動にかられる。


 だが、文字通り妻の献身によって取り戻せた職務なのだから、逃げ出すなど許されるはずがない。職務に復帰できる俺をハンナは我がことのように喜んでくれていた。どれだけ辛かろうとも職務を全うすることが、俺なりの償いなのだ。



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