幸田瑠美

待ち伏せ

 記憶を失くして二か月が過ぎ、八月に入っている。あと少しで盆休みが始まる平日火曜日の午後、織田さんからお誘いのラインが入っていた。仕事で私の会社の近くに来ているらしい。都合が合えばお食事でもとの事で、私はお誘いを快く受けた。


 織田さんと食事に行くのは、勉強になるし、楽しいしで正直嬉しい。もちろんお互い既婚者であるから、他人から見ればよろしくないかも知れない。でも、織田さんは全く性的なアプローチを仕掛けてこない。だから信頼できる先輩のように、安心してお誘いを受けられるのだ。


 午後六時半に会社を出て、織田さんに連絡する。もう織田さんは到着しているとの事で、私は待ち合わせ場所である駅前のスタバに向かった。


 スタバ前に到着したので、織田さんにラインで連絡を入れていると「瑠美」と声を掛けられた。


「義人! どうしたのこんな所で」

「いや、偶然用事があってここに来たら、瑠美が居たんだよ」


 少しばつが悪そうに視線を外す仕草で、義人が嘘を吐いているのが分かった。


「偶然って、ここに来る用事なんて無いでしょ。もしかして待ち伏せしてたの?」

「そんな待ち伏せって、ストーカーみたいに言うなよ。俺達夫婦だろ」

「だから、記憶が戻るまで待ってって言ったじゃない。義人も納得してくれたでしょ?」

「もう十分に待っただろ。とにかく、一度帰ってきてくれよ。愛佳も瑠美が帰ってくれば出て行くだろうから」


 と、その時「幸田さん」と男性の声が掛かる。スタバから出てきた織田さんだった。


「織田さん……」

「どうしたの? 絡まれているのか?」


 織田さんは私をかばうように、義人の前に立つ。


「あんたは……」

「お前は確か、幸田義人……」


 二人は驚いた表情で対峙する。


「すみません、織田さん、義人が私を待っていたみたいで……」

「大丈夫か? 危ない目に遭いそうなら、ここに居るけど」

「それは大丈夫です。でも今日は……」


 織田さんと約束をしていたが、このままじゃ行けそうにない。


「分かった。今日は帰るよ」

「すみません」


 織田さんが事情を察してくれたので、私は頭を下げた。


「ちょっと待てよ」


 義人が帰ろうとする織田さんの肩を掴む。


「やめてよ、義人」

「お前結婚してるんだろ? 人の嫁さんと二人で食事なんてどういうつもりなんだ?」

「別にやましい事は無い。仕事の関係で意見交換しているだけだ」

「仕事の関係?」

「そうよ。記憶を失った私は、織田さんにいろいろ教えてもらっているの」


 私は織田さんを背中でかばうようにして、二人の間に入り込んだ。


「そんなの信じられるかよ。こいつ浩司の知り合いなんだろ? そんな偶然あるかよ」

「私はあなたが浮気していないって言葉を信じたわ。あなたは私を信じられないって言うの?」

「それは……」


 私の迫力に押され、義人は怯む。


「分かった。信じるよ」

「失礼な目に遭わせて本当にすみません」


 義人が折れたので、私は織田さんに向かって頭を下げた。


「いや、謝らなくて良いよ。記憶を失くして、夫婦間で気持ちのすれ違いになる事は分かるから、よく話し合うと良い。仕事で分からない事は、またラインででも聞いてくれれば良いよ」

「ありがとうございます。本当にお世話になりっ放しですみません」


 織田さんは怒った様子も無く、最後は笑顔で帰って行った。


「あいつもああ言ってくれたんだし、飯でも食いながら話をしようぜ」


 織田さんが帰って、気を良くした義人がおどけた調子で誘ってくる。


「分かったわ。でもお酒は無しよ。ちゃんと話がしたいから」

「了解」


 私達は駅近くにあるファミレスに入った。義人の勤めているチェーン店ではなく、別の系列店だ。


「どうして記憶が戻るのを待ってくれないのよ」

「もう十分待っただろ。二か月過ぎたんだぞ」

「待たせて悪いと思うけど、記憶が戻っていないんだから仕方ないよ」

「なぜお前は戻って来るのが嫌なのか、分かっているぞ」

「えっ?」


 私は義人の言葉に虚をつかれた。


「ど、どうして……別に理由なんか無いわよ。あなたと結婚したのが腑に落ちないだけ」

「どうだかな……」

「じゃあ、言ってみなさいよ。どうして……」

「料理をお持ちしました」


 私が尚も問い詰めようとした時、ウエイトレスが料理を運んできた。その間に話が止まる。


 料理がテーブルの上に並べられると、義人は「いただきまーす」と言って何事も無かったように料理を食べ始めた。


「この程度か。うちのハンバーグの方が断然美味しいな」

「ちょっと、はぐらかさないでよ」

「お前が帰って来るなら教えてやるよ」


 義人は料理を食べながら、私に視線を移さずそう言った。


「そんな事言っても、今は戻らないわよ」

「逆に愛佳を追いだしたら戻って来るのか?」

「愛佳ちゃんがすんなり出て行く訳ないでしょ」

「出て行くよ。事実前も出て行ったんだから」


 そう言えば、前に同棲していた時は、酷い振り方をして追い出したと聞いていた。


「やめてよ、また酷い事するんでしょ」

「俺だってやりたくねえよ。前も仕方なかったんだ。な、お前が帰ってくれば、みんなハッピーになれるんだから戻って来いよ」

「いや、今は帰らない。それに、もし愛佳ちゃんに酷い事したら、記憶が戻っても絶対に帰らない」

「おい、そんな……酷いよ!」


 私は怒る義人を無視して目の前の料理を食べ始めた。


「お前まさか……さっきの男が好きになったんじゃないだろうな。お義母さんに聞いたぞ。飲んで帰って来ることが多いって」


 お母さんは義人の味方だ。きっといろいろ情報を流しているんだろう。


「そんなんじゃ無いわよ。織田さんは尊敬できる会社の先輩みたいな人よ」


 義人が嘘かどうか確かめるように、私の目をじっと見つめる。


 確かに私は織田さんに好意を持っている。でもそれは恋愛感情とは違う。それは確かな事だ。でも、こうして見つめられると、勘違いされそうな気がして心配になる。


「もうあいつと会うのはやめろよ」

「そんな……別にやましい事をしている訳じゃないんだからいいでしょ。仕事でも勉強になるのよ」

「もう二か月経ったんだから仕事はなんとかなるだろ。あいつと会うのはやめろよ」

「私は織田さんに恋愛感情を持ってないわ」

「お前はそうでも、あいつは分からないだろ。絶対に下心持ってるぞ」

「みんなが自分と同じだと考えないで!」


 私は腹が立ったので、食事の途中ではあったが鞄をつかんだ。財布から二千円取り出してテーブルの上に置き、引き留めようとする義人を振り切ってファミレスを飛び出した。

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