愛佳、記憶を失う

 僕は、昨日の晩に「スキンクリア」の副作用のニュースを見て驚いた。愛佳もこれを使っているのだ。正直、胡散臭いと思っていたのだが、愛佳にせがまれて買ってあげていた。


「三年間の記憶が無くなるそうだけど、大丈夫?」

「うん、何とも無いよ。確率は低いみたいだし、大丈夫じゃないの」


 僕の心配をよそに、愛佳は呑気に笑う。


 愛佳自身は三年間の記憶を失ったとしても、実質的に生活には影響ないだろう。その間、特に必要な知識を覚えたと言う事も無さそうだし、知り合いと話が合わなくなるぐらいだと思う。だが、僕には大きな意味がある。二年半前に義人に振られた事と、その後、僕と付き合い出した事を忘れるのだ。今は仕方なくでも僕と落ち着いた生活を続けているが、記憶が無くなれば、また義人の元に行ってしまうかも知れない。


「もう、あれは使っちゃ駄目だよ」

「えー、凄く効果があって良かったのに」

「でも、記憶を失ってしまったら、困るよね。だから絶対駄目だよ」

「はあい」


 愛佳は不貞腐れた顔で返事をした。


 僕は友里さんとの件でイラついていた事もあり、怒鳴り散らしたくなったが、我慢した。そんな事をすれば愛佳が出て行ってしまうかも知れないからだ。


 でも、愛佳が記憶を失って居ないのは幸いだ。友里さんの件でも胃が痛いのにこれ以上の問題は勘弁して欲しい。


 その時点の僕の願いは、今朝になって儚く散った。


「ここはどこ? なぜ、浩司君が横で寝てるの?」


 翌朝、僕は愛佳の驚きの声で目を覚ました。


 俺達はセックスレスだが、一応ダブルの布団で一緒に寝ている。愛佳は布団の上で上半身を起こした状態で僕を見ていた。


「ここはどこって僕達のアパートじゃないか。いつも一緒に寝ているのになんで驚いているの?」


 僕は寝惚けていて、良く回っていない頭でそう応えた。


「私がいつも一緒に寝ているのは義人君だよ。どうして、浩司君がいるの?」

「ええっ!」


 義人と聞いて、僕はいっぺんに目が覚めて飛び起きた。昨日のニュースを思い出したのだ。まさか愛佳は記憶を失ってしまったのか。


「どうして、義人君のアパートじゃないの? もしかして私を攫って来たの? ああ、頭が重い! 早く帰して! 義人君に会わせて!」


 愛佳はパニックを起こして叫んだ。


 この様子では間違いないだろう。愛佳は三年間の記憶を失ってしまったのだ。


「いや、ちょっと待って。ちゃんと説明するから」


 僕は慌てて新聞を取って来て、「スキンクリア」の記事を見せて説明した。合わせて結婚式の写真やデートの写真も見せて、何とか納得させた。


 だが、起こっている現象が理解出来ても、気持ちまではどうしようも出来ない。記憶を失ってからの愛佳は、オレとの距離感が明らかにそれ以前と変わった。


 いろいろ問題があったにせよ夫婦である事に間違いは無く、それなりの距離感と言うか、馴れ馴れしさと言うか、話し方一つを取っても普通の男女とは違うものがあった筈だ。なのに、今、愛佳の俺を見る目は完全に他人のそれで、警戒心があるからなのか三年前の関係以上に距離を感じる。言葉では言わないが、義人への想いも復活しているのだろう。別れた事も忘れているみたいだから。


 もし、こんな状況で僕の浮気がバレたらどうなるのか? 考えるだけで恐ろしかった。


 記憶障害の被害者認定には診断を受ける必要があると言う事で、受け付けている近くの病院まで愛佳を連れて行ってきた。病院に行っている間も友里さんからの連絡を待っていたが、幸か不幸かスマホが鳴る事は無かった。


 記憶障害の認定を済ませ、自宅に帰って来て、今、僕は愛佳に急かされて晩御飯を作っているという訳だ。


 もう精神的には限界に近い。自業自得と言われるかも知れないが、そんなに僕が悪かったのか? 


 食事が終わっても愛佳は片付けもしてくれない。記憶を失ってもそんなところは変わらないのか。


 夕飯の片付けも終わり、リビングで洗濯物を畳んでいると、不意にスマホが鳴る。電話の着信音だ。


 その音を聞いただけで、心臓が止まるかと思うくらい驚いた。登録の無い番号だ。幸い愛佳は今お風呂に入っていて、まだ時間が掛かりそうだ。僕は覚悟を決めて電話に出た。


(津川さんですか?)


 声の主は男だった。怒鳴るような感じではなく、落ち着いた低い声だ。だが、怒りを嚙み殺しているようにも聞こえた。まだ友里さんの旦那かどうか分からない状況なのにそう思うのは、罪悪感からくる錯覚なのだろうか。


「は、はい……」


 自分の声が少し震えているのが分かる。


(私は織田裕樹と言います。あなたの同僚である織田友里の夫です)

「あっ! ああ、はい……」


 十分に予想していたのに、自分の意思とは関係なく驚いたような声が出た。


(私がどうしてあなたに電話を掛けたか分かりますか?)


 織田の声は低く抑えられていて感情が伝わってこない。


「あ、はい……なんとなくは……」

(なら話は早い。あなたの会社近くにある『ドリーム』と言う喫茶店は御存じですか?)

「あ、はい……」

(明日の午後三時にそこで会いましょう。いろいろ話を伺いたいんで)

「えっ、そんな急に……」

(あなたがそんな事を言える立場ですか? 来ないのならこちらにも考えあります)


 変わらず抑えた低い声だが、有無を言わせない迫力がある。


「分かりました。必ず伺います……」


 僕は仕方なく了解した。


 その後、お互いの服装を確認して電話は終了した。


 旦那にバレたと言う話は本当だった。何を要求されるのだろうか? 慰謝料だろうか。友里さんのラインでは払ってくれると言っていたが、どうなんだろうか。ネットで調べたら、慰謝料の額は相手が離婚するかどうかで違ってくると言う。


「離婚するのかなあ……」

「えっ? 誰が離婚するの?」


 僕が呟いた独り言を聞いていたのか、風呂から上がってパジャマに着替えた愛佳がリビングの入り口に立って見ていた。


「あっ……あ、いや友達の事なんだ……その友達から明日相談したい事があるって言われたんだ。昼過ぎから行かないといけなくなったんだよ」


 僕は誤魔化しついでに明日の話し合いの予定も伝えた。


「えっ、そうなんだ……」

「ごめんね、日曜日なのに。晩御飯までには必ず帰るから、どこかにご飯を食べに行こうか」


 僕は愛佳のご機嫌を窺うようにそう言った。


「ううん、大丈夫。友達の相談に乗ってあげて」


 僕に心配掛けないように思ったのか、愛佳は笑顔でそう言ってくれた。取り敢えずこちらは誤魔化せたが、後は旦那との話し合いだ。考えれば考えるほど、気持ちが重くなった。

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