二節

 十月十四日の朝は生憎の雨だった。最初、ピアスから雨音でも流れているのかと思ったけれど、起きてみてそうでないと分かった。窓に張り付く幾つもの水滴が、空気を曇らせている。支度を終えると、玄関のチャイムが鳴ったので、秋乃は家を飛び出した。

 通学中には、雨脚が酷くなっていた。天高くから降り注ぐ雨たちが、小さな鉄色の傘に向かって体当たりする。まるで嫌がらせだ。音だけならば癒されるのに、その場に歩いていると、裾が濡れるのも相まって嫌になる。

「凄い雨だね」夏莉が言った。「転校初日から凄い幕開けだ」

「劇的とも言えるかな。雨宮って名字のせいか、僕は雨男なんだ」

「それってジンクス?」

「どちらかと言うとそうかも」

「どちらかと言うと? もうひとつは何?」

「何も考えてない」秋乃は笑った。

 校門をくぐり、下駄箱の前で先生を見つけると、秋乃は自分が転校生であることを告げた。職員室へ来るよう指示されて、そこで夏莉と別れる。渡り廊下を歩きながら、酷い雨だとか、どこから来たのかと言った会話の後、彼女は自分が担任であることを明かした。順序が違うのではと思ったが、秋乃は黙っていた。

 職員室へ着くと、担任の先生は秋乃にクラスを教えた。秋乃はクラスメイトに、四季クラブのメンバーが居るのか尋ねてみれば、夏莉と同じクラスだと教えて貰った。

「聞いたぜ」ピアスから春臣の声がした。「残念だな……。だがこれでフェアになった」

「何それ」とは冬人。

「よろしく秋乃。って、職員室じゃ返事出来ないか」

 夏莉のくすくすと微笑む声が耳をくすぐり、秋乃は担任を前に笑顔になりかけた。先生はそれを不思議そうに見つめながらも、ホームルームの時間になり、席から立ち上がる。

「じゃ、行きましょう」

 鞄を手に、秋乃は先生の後ろを着いて行く。誰も居ない廊下。大勢の人間が教室で先生を待っている。そんな注目の中、自分は前でひとり、自己紹介するのか……。秋乃は緊張して、軽く腹痛を覚えた。

 教室に辿り着くと、先生はがらりと扉を開けて、中へと入って行く。

「今日は新しく転校生が来てくれました」

「聞いてるぜ」春臣の声が割って入った。

 秋乃は苦笑して、通信を遮断する。それから黒板の前に立ち、自分の名前を書き、名乗った。都会の方から来たと言うと、クラスが騒めき、秋乃の心臓も爆裂しそうに感じられた。よろしくお願いしますと締めると、まばらな拍手が沸き起こり、緊張の瞬間はぬるりと終わる。

「じゃああそこに座ってね」と先生が指定した席に着くと、速やかに出席を取り、連絡事項を言い終え、担任は教室を出て行った。振り返れば、夏莉が親指を立てている。秋乃は通信を再開した。

「おーい、秋乃、あ、やっと戻った。通信切りやがって、夏莉のピアスから聞いてたから、声が遠かったじゃないか──」

 長くなりそうだったので、秋乃はまた通信を切る。軽い溜め息。と、机の周りにクラスメイトが囲った。皆口々に都会はどうなのかとか、この町はどうだ、とか質問をまくしたてる。目を白黒とさせながらも、秋乃は通信を再開してやり、これを皆に聞かせた。適当な返事でこれらを乗り越える途中、あまりの質問の数に冬人が「ワオ」と呟いたのが印象的だった。

 質問攻めの疲労を抱えたまま授業に移行し、気付けば昼休みになっていた。眠っていた訳でもないのに、意識が飛んでいる。秋乃は恐ろしくなった。ノートを見返してみれば、一応メモ程度には板書されていたので、心配はなかった。が、こんな経験はしたことがなかったので、酷くびっくりした。

 昼食を終えると、「お疲れ様」と夏莉が声を掛けてきて、

「屋上に集まろうぜ」ピアスから春臣の声がした。

 窓の外を見れば、雨はいつの間にか止んでいた。通り雨だったのか。いつ止んだのかさえ、秋乃は知らない。

 四人は階段前で集まると、『出入り禁止』の紙が貼られた扉をくぐり抜けて、屋上へと出る。先ほどまでは我が物顔で空に健在していた雲も、今では見る影もない。代わりに陽光の白い輝きが、地面に残された露を輝かせていた。

 秋乃たちが一歩足を踏み入れてから、奥に先人の居たことに思い至った。近づいてみれば、彼女が司書の晴村だと分かり、秋乃は空を見上げる。名字のジンクスを思い出した。晴村は屋上の中央に大きなクッションを持ち運んで、手摺りにもたれかかっていた。濡れてしまうのでは、と秋乃は思う。見れば、手には缶コーヒー。胸元に名札は無かった。

「晴村さん、どうしてここに?」冬人がおずおずと訊ねた。

「ん……」晴村は今になって漸く気がついた様子で振り返り、「ああ、こんにちは。外は寒いね」と言った。

「ここで何をしているんです?」冬人が質問を変えた。

「特に何にも。ただぼうっとしてたの」

「ここに入るのは禁止されてますよ」春臣が言う。

「あら、じゃあそれは」晴村は口元で人差し指を立てると、片目を瞑った。

「私たちも規則を破ってるから」夏莉は秋乃に微笑んだ。「晴村さんも、共犯だね」

「そうね──それ、良い表現だわ」

 突然、真上から奇妙な音がした。

 バッ、という短いものだった。次いで、風を切るような音が、上空から近づいてくる。五人が見上げると、程なくして影がクッションに落下した。緩やかな着地と共に、『それ』は動かなくなった。秋乃と春臣は顔を合わせた。二人は何とは無しに様子を窺うと、そこに少年の姿を見つけた。

 それからひょっこりと彼は起き上がると、「いててて……」と口から声を漏らし、腰をさする。秋乃は再度、空を眺めた。

「空から少年が……」

 自分たちよりも年下に見える。恐らく、小学校高学年くらいだろう。隣では、春臣が目を見開いて驚きに震えている。無理もない。突然ファンタジーなことが起きたのだ、腰も抜かすだろう。

「あ、兄貴……?」

 春臣の独り言に、秋乃はえっ、と見返した。


 彼の名を、雪丘了ゆきおかりょうと言った。春臣の四つ歳上の兄だと言う。彼は現在、十二歳の小学六年生だった。春臣の二つ歳下である。

「四年前に喧嘩したんだ。もう内容は覚えてない。多分、凄くくだらないことだった」春臣は興奮したように、早口で捲し立てた。「兄貴は怒って家を飛び出したんだ。俺は兄貴を追いかけて家を出た。そして──兄貴は目の前で車に轢かれた」

 秋乃は驚いた。だが、冬人も夏莉も既にそのことを知っているようだった。目を伏せて、静かに肯く。秋乃はちらと晴村の様子を窺った。彼女は特に目立った表情を見せなかった。落下してきた少年のことを、ただ眩しそうに目を細め、見つめている。了はと言えば、不思議そうな顔をして春臣の話を聞いていた。

 春臣は続けて、

「問題はその後だった。不審な二人組が、了を連れ去ったんだ。それきり、兄貴は行方知れずに──」

「へえ……」と、了が相槌を打った。

「へえって、兄貴。覚えてないの? いやそれよりどうして──」春臣は息を呑んだ。「事故の時のままの姿なんだよ?」

 秋乃は春臣から了に視線を移した。

「それに、兄が弟の二歳歳下ってのもおかしい」

「何があったの?」晴村が冷静な表情で聞いた。

「僕は、空から落ちてきたんだ。空の上には人が住んでいる」

 秋乃は困惑して、晴村を見た。晴村は思案気に俯く。そこに好奇心の色は見えない。晴村はまた口を開いた。

「上で何があったか教えてくれる?」

「うん」了は一度空へと首を曲げたが、晴村へと顔を落とし、「僕は交通事故に遭った。春臣と喧嘩してね。この人は──春臣なの?」

「ああ、そうだよ兄貴。あんたは本当に了なのか?」

「さっき僕を見て了だと言ったじゃないか」

「記憶の中の兄貴とまったく同じだからな──気持ち悪い……」

「それで、交通事故に遭って、それから?」晴村が話題を戻した。

「男の人に庇って貰ったんだ。僕は怪我をしなかった。轢かれたはずなのに、その人も無傷だった。でも、僕はそこで一瞬だけ落ちたみたいなんだ」

「落ちた?」

「うん。気絶しちゃった。気付いたら、僕は湖に居た。二人のうち、庇ってくれた方が『湖の下に未来がある』って言った。その時にはまだ、身体に力が入らなかった。二人は揉めてた。僕はそれから、湖に落とされて、ここへ来た」

 四季クラブの皆が晴村のことを見やった。彼女は鼻息を漏らすと、「湖に未来があるとは思わなかった」と言った。そりゃそうだ、と秋乃たちは頷いた。

「それで、その二人組はどんな顔をしていたか覚えてる?」

「いや、顔は見えなかった」

「そうか。じゃあ、それはいつのことだった?」

 了はそれが、四年前の今日であると言った。

「十月十四日は交通事故と行方不明の日さ」春臣が呟く。「まさか、四年越しに帰ってくるとは思わなかったな……」

 そう言って、静かに涙を流した。了は反対に、自分よりも大きくなった弟に対し、当惑と好奇心とを混ぜ合わせた、不気味なものを見るような表情でいた。

「タイムパラドックスね……」

 晴村は苦虫を噛み潰したように唸り、それじゃあと言って屋上から出て行った。タイムパラドックスとは何のことか、聞いてみたかったが、その前にもう見えなくなってしまった。後には思い出から生まれたような、奇妙な光景が残り、秋乃は目を瞬かせる。昼休み終了のチャイムが鳴り響き、四季クラブは一度解散した。

 放課後には、帰ってきた兄の昔のままの姿に戸惑いと喜びを隠せない春臣と、対照的に冷静な了を前にして、彼らの両親は号泣と共に兄弟を迎え入れていた。確かに、了が何故四年前のままの姿なのか、今になって帰ってきたのか、彼の話した空の上での出来事についてなど、幾つかの奇妙なことはあった。けれども、そんなことより了が無事であったことに喜びの声をあげているのだった。

 秋乃は心温まるように感じるのと同時に、何か言いようのない気持ち悪さに混乱した。果たして、了は本物なのだろうか──なんて考えてしまう。夏莉も冬人も不審そうではあったが、それ以上に、春臣の兄の帰還を祝っていた。自分もそれに乗じたいのだが、どうしても乗り切れない。

 隣では、叔父が喜びと居心地の悪さを同居させたような態度を見せていた。表情は柔らかく、にこやかなのだが、ふと見せる緊張や何かを恐れるような仕草が目についた。

「ねえ、叔父さん。行方不明だった春臣のお兄さんが帰ってきたみたいなんですけど、どうしてか見た目がその時のままだって言うんです。四年も経っているのに、不思議だと思いませんか」

「ああ、そうなんだ。そりゃ……不思議だなあ」

 雷田の顔は引き攣り、ぎこちない笑みを浮かべた。何か知っている。秋乃は直感した。

「叔父さんは、何か知っているんじゃないですか?」

「え?」予期しない質問だったのか、雷田は口を開けて呆けた。「いや──何も」

「そうですか──すみません、突然変な質問して」

 それ以上秋乃は聞かず、引き下がった。雷田は逃げるように家へと戻って行く。その後ろ姿を見ながら、秋乃はため息を付いた。移住して早々、奇妙な出来事に遭遇した。灰色な日々が始まるものとばかり思っていたが、これは──何かしらの幕開けではないか。何かしらが何なのかは分からないが、秋乃はそんな予感に襲われた。

「皆、聞こえるか?」ピアスから春臣の声がした。「四季クラブに兄貴を加えようと思う。良いか?」

「異存はないよ」と夏莉。

「同じく」冬人が言う。

「ああ。良いね」秋乃が言うと、

「お前が来てからと言うものの、何かが進んでいくような気がする。クラブ名は変わったし、兄貴は帰ってきた」

「それは僕の台詞だ。何なんだこの街は……?」

「何だろうね。それは私も聞いてみたいな」と、夏莉は苦笑した。


 極めて不穏な夕食の後に、秋乃は部屋へと引き上げた。難しそうな表情を浮かべる雷田に、どうしたのかと聞けば、彼は決まって、「いや、何でもない」と仏頂面を見せる。見ているだけでも、その仏頂面は秋乃にも感染した。叔父は確かに何かを知っている。知っていて尚、何も言おうとしないのだ。

 ベッドに横たわりながら、先程の会話を思い出す。

「叔父さん、僕に何か隠していることはありませんか?」

「隠してるって?」雷田の箸が止まり、目を丸くさせた。「人は大なり小なり秘密を持つものだと思うよ」

「そうじゃなくて、その、了が落ちてきたこと、叔父さんは何か知っているんじゃないですか?」

「どうしてそう思う?」

「さあ、分からないですけど……」秋乃は顔を背けた。「直感です」

「直感か……。直感ってさ、不思議な機能だよね。言葉には出来ないのに、何かしら感じ取っている。無意識的なものなのかな。多分、人間の思考って言葉には依らないんだよ。もっと身体的というか、感性的なものなんだろうね。だから、言葉にしようとして、何も分からなくなる」

「えっと、つまり?」秋乃は聞いた。

「晴村さん──だったよね、あの司書の人──に聞いてごらん。彼女なら、教えてくれるかも」

 どうして彼女の名が? 秋乃は身を乗り出した。それから、屋上にて残したあの台詞──

「そういえば、了君が落ちてきたとき、晴村さんも屋上に居たんですよ」

「ふうん」雷田は驚くでもなく、頷いた。「それで?」

「タイムパラドックスだって言ってました。これ、どういう意味ですか」

「タイムパラドックスか……」雷田は複雑な顔をさせて、首を振った。「それはね、とても拙いことをしたってことだよ。詳しいことは、ほら。僕なんかよりもネットの方が、説明されているはずだからさ……」

 後は自分で調べろということか、と秋乃は身を引いた。

「ご馳走様でした」

 そう言うなり、調べ物のために部屋に向かったのだ。秋乃はピアスに向けて、「タイムパラドックス」と呟いた。すると、ピアスとリンクされた壁面スクリーンに、検索画面が表示される。そう言う名前の競走馬が出た。多分それは違うので、情報を切り替える。

 "タイムパラドックスとは、過去を改変することによって未来が変化されたことで、現実にはあり得ない矛盾が生まれてしまうことを指す"という。秋乃はふうん、と独りごちながら、更に読み進めていった。

 例えば、祖父殺しのパラドックスというものがある。過去へ遡り、祖父を殺してしまった場合、果たして自分は生まれるのか、というものである。この時に示される仮説として、自分自身が消滅してしまうもの、自分自身が消滅しない並行世界が生まれる、という二つが良く言われる考えであるらしい。

 つまり、タイムパラドックスは過去改変によって現実に影響があるのか、あるとすればそれはどのように作用するのか、を思考実験したものらしい。今回の場合、過去から了がタイムスリップしてきたのだ。それは単純に、有名人がよくやる"コールドスリープ"みたいなものと同じ事だろう。タイムパラドックスではない、と秋乃は思う。

 と、冬人から連絡が入った。

「まだ起きてる?」

 秋乃は時計を確認する。まだ午後九時だった。

「うん。どうしたの?」

「今日は、色々と凄かったね。秋乃君、転校してきたばかりだって言うのに」

 そう言われて思い出した。もう今日のことを忘れかけてしまっている。それだけ、了の出現は衝撃的だった。秋乃は返事と共に、晴村の言っていたタイムパラドックスについて、意見を聞いてみた。

「了君は、誰か二人組に落とされたって言っていたよね。つまり、その人たちが過去改変したんでしょう」冬人が答える。

「ああ、そうか。それならパラドックスになるね」

「次いでに言えば、了君が落ちてきたことで、家族の人たちは彼が居なくなった生活を強制されることになった訳だ」

 成る程と思い、言葉を咀嚼してから、秋乃は不思議なことに思い至る。

「だとしたら、その立派な過去改変に春臣も巻き込まれた訳だよね」

「うん」冬人の相槌。「そうだね。ずっと、お兄さんが行方不明だって探していた」

「そうか。だとすると、その二人組の過去改変によって未来が変わるのは分かるけど、どうして春臣や夏莉たちはそのことに気が付けなかったんだろう?」

 ピアスから息を飲む音がした。息が震えている。それは彼ではなく、秋乃自身のものだったかもしれない。

「過去改変の影響を受けている──」冬人は言った。「だとすれば、了君が落ちてきたことから分かるように、秋乃君。僕らは改変された未来を過ごしているってことだね。タイムパラドックスの脅威は、誰も知らないうちに牙を剥いていた……」

「どうしよう?」

「了君は、空の上に過去があると言っていたよね。反対に、湖の下には未来があるとも話していた。実際、彼は湖に落とされてここまで来たらしいからね。僕は、その道を探してみようと思う」

「過去への道?」

「そう。その前に、本当に湖の底に未来があるのか、それを確かめてみても良いかな」

「何故?」

 考え込むように、二秒ほどの静寂があった。それから冬人は、

「未来の自分たちなら、何か知っているかもしれないでしょう? それとも、未来を参照するのも、タイムパラドックスかな」

 秋乃は返答に困り、笑った。

「それは分からないな……」

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