悪だくみと因果と札束の取引の場所

 瓶のビー玉を突き落としてから、一息で半分ほどを飲み干す。そのまま長椅子の背にだらしなく寄り掛かって天井を眺めて、作業服に着替えたオトは長々と息をついた。


「ああさぱっとした……風呂上がりで炭酸決めてクーラー完備とかもう寝ちまいてえ……」


 所々に傷とシミが目立つ年季の入った長椅子。引っ掛かって途中までしか脚が伸びないスツールに、盛大に煙草の焦げ跡がついた丸椅子。事務所の面々はそれぞれ思い思いの椅子に掛けながら、大机の周りに集まっていた。

 椅子の焦げ跡を指で嬲りながらカガがじろりとオトを睨む。


「あんた何しに来たんですか。物乞いだってここまで図々しかねえでしょうに」

「一仕事済ませてきたんだよ俺は。朝から血みどろになって働くような人間を物乞い呼ばわりってのは行儀が悪かねえか、カガ」


 磨いた床舐めてえなら手伝ってやろうかと剣呑な目をしてオトが言う。カガは口の端に煙草を咥えたまま、


「自分で散らかしたら自分で片づけんのが筋でしょう……そんだけ回る舌なら、モップよか早く仕上がるんじゃねえすか、オトさん」


 そのままカガは派手に煙を吹き上げて、片目だけをぎゅうと細める。オトが長椅子を軋ませて身を起こし、ぎろりと白目を蛍光灯に光らせながらカガの方へと体ごと向く。カガは目の前の大机に置かれている灰皿――古めかしいガラス製――を手元に寄せて、視線だけはオトから外そうとはしないまま、平然と煙草をふかしている。


 張り詰める殺気を一蹴するように熱のない声が響いた。


「そこまでにして頂けますか」


 先程も同じことを申し上げましたねと黒手袋の手を組んだまま、カシラが赤い唇だけで笑ってみせた。


「わざわざ朝から血まみれになって、カガ相手にくだ巻きに来たわけでもないでしょう、オトさん」

「そうだけどよ、各務ちゃん。先に吹っ掛けてきたのはカガだぜ」

「先に床汚したのはオトさんですよ。掃除したのはカガです……それに、それくらいのことでムキになるほど暇な体でもないでしょう、


 仕事の話をお聞きしますと有無を言わせぬ強さで畳みかけて、カシラは真っ直ぐにオトの目を見る。互いに正面から視線を合わせて、二人は黙り込む。

 先に逸らしたのはオトの方だった。


「……新人さんもいるしな。分かったよ各務ちゃん、仕事の話をしようじゃねえか」

「ありがとうございます」


 カガもそれでいいねと何でもない調子で――しかし念を押すように投げ掛けられた言葉に、カガは黙って手にした煙草を灰皿に押し付けた。


***


 回収キリトリに行ってきたんだよと半乾きの髪をがりがりと掻き回しながらオトは言った。

 知らない単語とオトの血まみれの様を思い出したのだろう、軋むスツールの上でふらつきながら工藤が真っ白な顔を強ばらせた。それに気づいたのかひらひらと煙でも払うように手を振って、オトは言葉を続ける。


「そんなにやましい話じゃねえよ。実家が飯屋やっててな、払いの悪い客がツケ貯め込んだからまあそれなりにってだけの話で……穏便に済ませる気ではあったのよ。別に払うもん払ってくれるんならそれで万々歳だ」

「払ってもらえたんすか」

「素直に払うやつなら最初はなからツケになんざしねえやな」


 玄関開いたら五秒で血まみれだったねえとオトが笑った。


「お伺いすっから用意しとけよって連絡しといたのよ一応。親父が言うにはそこそこ馴染だったらしいしさ、逃げたら逃げたでやり口は別にあるからってんで……そしたら銭用意しねえで客にぶっかける用の血揃えてやんの」

「結構な量じゃないですか」


 黙って被ったんですかとカガが言う。オトは一瞬目を尖らせてから、口調を変えずに続けた。


「喰らったな一杯分だけだ。一撃やられたからもういいなと思ってそのまま引っ倒してそれなりにやったけどよ……相手よっちゃんがまた暴れるもんだからよ、ふざけたことに次弾用に置いてあったバケツもひっくり返してじたばたするもんだから玄関先血の海。俺も血染め。ずるずる滑るし腹立ったねあれは」


 言い切ってからオトは僅か考え込むような間を取って、


「刺されたり撃たれたりならまだ経験あったがな、純粋に嫌がらせをカマされんのは初めてだなそういや」


 結局虎の子巻き上げられてるんだから意味がねえのにと呟いて、オトは手元のサイダーを呷った。

 黙って話を聞いていた工藤が怪訝そうな顔をしているのを目ざとく見つけて、エンが覗き込みながら問うた。


「どこで引っ掛かってその顔してんだクドー」

「どこでっていうか大体に引っ掛かってはいるんですけど……大量の血って用意できるんですか」

「この辺なら大体の動物の血は売ってるよ」


 さらりとカシラが答えた。工藤は目を丸くしてから、行儀よくカシラの方に体ごと向けて問い返した。


「売ってるんですか」

「使い道があるからね。飲食店も場合によるし、道士系の連中なんかも手広くやってるから……」


 豚だと色々危ないけどねと呟いたカシラの言葉にオトが苦笑した。


「買う金があるならその分払やいいのによ、クズの考えることは分かんねえな」


 オトの言葉にカガが片眉を跳ね上げる。そのまま何も言わずに、数度ゆっくりと目を瞬いた。

 空になったサイダー瓶の周りに水の輪が滲む。短く息をついてから、オトは大儀そうに長椅子に座り直した。


「で、ここまでだったらただの愉快な掛け取り物語だ。そんなんで風呂代と着替え分を払おうなんて思っちゃないわけよ俺も」


 こういうもんをかっ剥いできたんだと傍らの包みを机に投げ置く。工藤とエンは見覚えのある血斑の跡に顔を見合わせてから、揃ってオトの方を見た。


「開けても?」

「勿論だ」


 カシラの手ががさがさと包みを解く。それなりに厳重に包装されていた甲斐もあって、内側には血や汚れは染みてはいないようだった。


 転がり出たのは艶々と赤い盆が一つ。傷一つない底に蛍光灯がぎらりと映った。


「酒盆だね。鑑定のあてが欲しいっていうなら紹介はしますよ、オトさん」

「いや品は分かってんだよ。ちゃんと殴りながら聞いたから間違いがねえ」


 とオトの言葉にカシラが目を瞠った。


「――ああ、そういうことを考えてるんですかオトさん。だから案山子を手配しろとか仰る……」

「各務ちゃんは話が早くて助かるなあ。まあそういうことよ」

「相手は」

「甘電酒栄界隈三番地の一壺酒家」

「ああアカハナさんとこの……あの人名有りでしょう。水鳥名が『干樽八蛇』とか、そんなのを聞いた覚えがありますよ」

「有名だよな。ここ十年負けなしのバケモンだよ」


 カシラとオトの間でするすると話が進んでいく。工藤は弾む会話にすっかり置いていかれていることにうろたえながら傾く椅子の上で小さくなる。カガは仏頂面のままのそりと脚を組み替えた。


「カシラ!」


 勢いよくエンが片手を挙げる。カシラとオトはそれぞれ苦笑してから、そのままエンの方へと向き直る。そうしてカシラが指すように黒手袋の手を差し出した。


「いいよ。どれが分からないんだ」

「飲み屋の住所と名前以外全部分かんねえっす」

「だろうね。工藤君も迷子みたいな顔になってるし……説明するよ」


 済みませんと工藤が頭を下げる。エンもつられたように頭を下げて、そのまま不自然にがくんと落ちた頸を庇うように擦った。


「そうだな……水鳥っていうのはね、すごく乱暴に言うと酒飲みのことだよ。力自慢や腕自慢と喧嘩自慢に並んで酒自慢。作る方じゃなくて飲む方だけどね」

「酒っつう字がさんずいにとりで水鳥だ。洒落だよ」

「さんずい」


 エンが真っ直ぐな目で工藤を見る。工藤が慌てて手のひらに酒の字を書きながら説明を始めた。


「漢字のここです。ちょんちょんってやるところ、水とかそういうやつにくっつくやつです」

「ああ――普通に飲んだくれでいいじゃねえすかそんなもん」

「普通の飲んだくれならそうだね。ただ水鳥はね、酒合戦をするから……勝負をするなら選手名リングネームとか二つ名とかはさ、大事だろう」

「酒合戦」


 飲み比べだよとオトが答えた。


「簡単な勝負だよ。注いで、飲んで、先に潰れた方が負け」

「飲み比べならその辺の屋台でもやってるでしょうよ」


 怠そうにカガが口を挟む。その一言を鼻で笑ってオトが答えた。


「普通のはな。水鳥戦は格が違えのよ、アホの不良が河原で喧嘩すんのとボクサーがリングで試合やんのを一緒にする馬鹿はいねえだろ。そういう話よ」

「水鳥でも何でもないチンピラでしょうあんた」

「だからこいつをガメてきたんだよ」


 オトはにたりと笑って酒盆を手にする。カガはひどく不愉快そうな顔をして、半眼のままじっとオトを睨んだ。


「水鳥戦はな、互いに水鳥盆を賭けんのよ。盆にも色々格式やら様式に規定があるらしいがその辺は俺は知らねえ。ただ持ち主ツケ貯め込んだクズは左手指三本分まで手放すの渋ったからな、そこそこのもんだろうし……仮に駄目なら売っ払やいいだけだろ」


 飯屋うちのツケ貯め込んでこんなもん作ってんだもんなと目を細めてオトが言う。その相貌の異様さに、今更のように工藤が息を詰めた。


「水鳥戦なら分捕り品も見込めるから最高だろ。酒飲んで勝てば飲み代どころかおつりがくる」

「つまりオトさんは水鳥戦で一発当てたいから、その辺りの手配を頼むと――そういう話だよ。説明としてはさ」


 カシラの補足にカガは僅かに目を伏せて、


「……事務所の金で賭け事やるってんなら論外でしょうよ」


 やっぱり外に放り出した方がいいんじゃないですかというカガの言葉にカシラが眉根を寄せる。


「違えよそんな真似を誰がするか」


 オトが間髪入れずに抗議の声を上げた。


「相手と俺の背景が釣り合わねえからってだけだ、各務ちゃんにはなんだ……保証人みてえなもんやってもらいてえってだけだよ」

「タネどうするんです」

「そりゃあ俺が出すよ。そのくらいの甲斐性はあるんだ俺にも」

「部品なら高く売れるでしょうね。目玉とか」

「言ってろ。案山子の手配ともしものときの何だ、暴力役が欲しいのよ俺」


 エンがもう一度手を挙げる。カシラが数度指先で頬を掻いてから、小さく咳払いをして口を開いた。


「案山子っていうのはね、アカマルここだとそういう生業の人だよ」

「田んぼにいるあれっすか」

「それよりかは凶暴だよ」


 エンの呑気な問いを一蹴してカシラは説明を続ける。


「賭博や勝負に決闘とか……そういう公平に白黒つけなきゃならないあれこれってあるでしょう。そういうのに第三者として立ち会ったり見届けたりする連中がいるんだ。それが案山子」

「審判みてえなもんすか。レフェリーとか」

「そうだね」


 エンはしばらく黙り込んでから、


「……じゃあオトの兄貴が暴れてチャラにもできなくなるじゃないすか!」


 いいんですか兄貴という真剣なエンの問いかけにカガが俯いて肩を震わせた。


「誰がんなことをするっつったエン」

「だって暴力役も欲しいんでしょう」

「そこ繋ぐなよ馬鹿。暴力はあれだ、身だしなみだよ」

「身だしなみ」

「丸腰で銭持って来られたらその気がなくても手ぇ出したくなるだろ。そういう魔が差さないためのたしなみよ」


 礼儀ってのは大事だろうとしかつめらしく嘯いて、オトはじろりとカガを睨んだ。

 カシラはしばらく考え込むように目を伏せてから、


「事務所としては水鳥戦は――ついでとしてもね。工藤君の新人歓迎会もしてないんだ。一壺酒家なら食事もまあ悪いってもんじゃない、値段も手頃だ」


 オトがのたうってるのを見ながら食事会でもしようかとカシラの言葉にエンが嬉し気な奇声を上げる。カガは派手な舌打ちを一つしてから天井を眺める。オトは一同をぐるりと見回してから、不安げに視線をさまよわせる工藤に向かって歯を剥いて笑ってみせた。

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