第9話  リハビリ


次の週、早々に作家、白岡 類の元を訪れるべく準備を進めた。

その前日、遥子のデスク前に立った土門に尋ねる。

「いちいち言うことではないと思ったから言わなかったけど……白岡先生の作品、読んだわよね?」

土門は、肩をすくめて笑った。

「僕の趣味、言ったことありましたっけ?読書ですよ。白岡先生の作品は全て読んでます。念のために最新作はもう一度目を通しましたけど……嫌いな作家ではないです。」

ちょっと生意気な答え方に異議を唱えるように、遥子も肩をすくめて無言で答えた。

土門はわかってますよ、と言わんばかりに口を歪めて笑う。

「あと、前もって揃えておく資料とか何かありますか?」

「いいえ。まだご挨拶も出来てないから、何をお望みなのかもわからないしね。プロットの細かい変更もあるかもしれないし、とにかく御会いしないとわからないわ。」

「では、交通手段はどうします?」

土門はタブレットを操作しながら尋ねた。

「白岡先生の作業場所のマンションまでのルートは全部出してあります。電車、バスなどの公共交通機関でのルート、タクシーや車でのルート、あと、バイクでのルートや時間も出してありますよ!」

「バイク?」

遥子が眉を上げると、彼はニンマリと笑った。

「僕のバイクです。僕はバイク通勤なので、急ぎの時にはバイクルートが一番の近道ですよ。」

彼の運転するバイクの後ろに彼の腰に手を回して自分が乗っている姿を想像して、遥子は苦笑いしながら首を振った。

「……それは何かあった時の最終手段に取っておきましょ。」

「残念!遥子さんを後に乗せたかったのになぁ~」

冗談交じりに悔しがる土門に、遥子は眉をひそめた。

「……ねぇ、一度注意しようと思っていたんだけど、私を名前で呼ぶのやめてくれない?」

最近なぜか突然、自分を下の名前で呼び出した土門に言おうと思っていたことだった。

「なぜですか?嫌ですか?」

悪びれもせずにこちらを真っ直ぐに見つめる土門から視線を外す。

彼のこういう視線は相変わらず苦手だった。

「……時田DRって呼ぶと岩橋女史が決めたはずよ、従って。」

土門は大袈裟に腕組みをする。

「なんか、ピンと来ないんですよねぇ。健さんが有りなら、遥子さんも有りにしませんか?」

「健さんと私では立場が違うわ。ケジメはつけてちょうだい。」

手元にあった白岡のプロット資料を見ながら突き放すようにそう言った時、突然土門に手首を掴まれた。

びっくりして顔を上げると

「今は、僕と話をしてるんですよ?僕を見ないのはマナー違反では?」

見たくない顔がすぐ間近にあった。

否応なしに鼓動が早くなる。

土門は手首を離し、ウィンクした。

「こういうのも、亡霊退治ですよ」

遥子は、掴まれた手首を擦りながら部屋からしれっと退室する土門を睨み付ける。

彼の生意気な話し方や、態度が無性に癇に障る。

仕事の部下として距離をあけているのに遠慮なく簡単に詰めてくるところがイライラする。

江上は、こういう図々しい処は持ち合わせていなかった。

仕事では周りにも自身にもとんでもなく厳しいところはあったが、いつでも適度な距離感を持つ紳士的な人だった。

そう、もうわかっている。

どんなに顔が似ていても、土門は江上とは違うのだ。

なんなら違いすぎてイライラする。

仕事の上では、予想以上に優秀なのに、彼が近くにいると苛立つ。

遥子は、そんなことをぼんやりと思いながら、ため息をつく。

白岡の担当をするにあたって、この先土門と行動することが増えるのは目に見えている。

この理解不能な苛立ちは無視してでも上手くやらなければ、今後の事務所の信頼に関わってくるのだから。


「白岡先生、はじめまして、今回新作の編集全てを請け負わさせて頂きます、エディットTの時田遥子と申します。こちらはアシスタントの土門です。宜しくお願い致します。」

「土門です。宜しくお願いします!」

翌日、約束の10時前に白岡の作業場マンションに2人はいた。

「これはこれは!伝説の凄腕女性編集者にようやく御会いできましたね!」

中に招き入れ、朗らかな笑顔で迎えてくれた白岡は、細身の穏やかそうな人物だった。

プロフィールによると42歳のはずだが、ダメージジーンズにサマーニットを着こなす彼は、30代でも通るくらい若く見えた。

「まぁ、先生!伝説だなんて……」

遥子が困ったように笑うと、白岡は人差し指を立てて首を振る。

「長谷部君からこれでもかと云うくらい時田さんの実績は聞いていますよ。冬影社の元エースだとか。」

遥子は控え目に微笑み、頭を下げた。

「恐縮です。御期待に添えるように精一杯努めさせて頂きます。」

土門も空気を読みながら軽く頭を下げた。


生活感のほぼ無い、マンションの間取りは2LDKで、デスクが二つと簡易のソファセット、無数の資料が乱雑に並んでる本棚が二棹あるだけだった。もう一部屋は泊まり込みに使う仮の寝室になっているらしい。

だが、十階から眺める景色はなかなかのものだった。

夜になれば、都会特有の宝石を散りばめたような夜景が拝めるだろう。


遥子は、白岡の雑談に付き合いながら、徐々に自身の中のスイッチを入れていった。

かつて、編集チームのリーダーを務めていた頃、そういう編集者モードのスイッチを持っていた。

一年半振りの現場に立ち、これも編集者としてのリハビリになると考えていたので、まずはスイッチを入れることから始める。


「先生、そろそろ打ち合わせ始めましょう!プロットに沿った予定と必要な資料を決めることからで宜しいですか?」

遥子の提案に、白岡は困惑気味な笑みを見せた。

「今日は、顔合わせですよ?それは次からでいいでしょう」

「いいえ!」

遥子はキッパリと否定した。

「先生、他社でも連載持たれていますよね?ということは、そちらは締め切りが毎月ありますよね。うちの方は連載ではありませんけど、締め切りは来ます。なので、少しでも早く始めた方が宜しいかと。」

「……それはそうですがね…」

いまいち乗り気でない白岡に遥子は畳み掛ける。

「万が一、先生がスランプや停滞期に入られたらどうします?そうならないことを願っておりますが、余裕を持って損は無いかと。」

テキパキとした言葉で押し通す遥子と、戸惑う白岡を面白そうに土門は見比べる。

「わ、わかりました。とりあえず、始めましょうかね……」

渋々立ち上がった白岡に遥子は満足そうに微笑み、書類袋を手に立ち上がった。


「いやぁ!遥子さんの編集者モード、初めて見ましたけど……鳥肌ものですねぇ!」

すでに白岡の中で決まっている作品の流れを把握して、とりあえず要望のあった資料、内容上必要になりそうな資料を揃えて届ける期日の調整までを決めると、2人はマンションを後にした。

「私のことより、貴方は資料の段取りを考えなさい。今日の打ち合わせの中で予測出来たり思い付いた資料はあった?」

土門は、人差し指でこめかみ辺りを指差しながら、ニンマリ笑う。

「すでに、何点かは思い付いてます。なんなら、イメージが沸くような写真なんかも揃えてみようかと。」

得意気な顔にちょっとイラつきながらも、その頭の回転の早さに内心感心もした。

「貴方にとってもアシスタントデビューなんだから抜かりのないようにね。」

「遥子さんを失望させたりしませんよ!」

「だから!その呼び方!」

遥子がすかさず噛みつくと、土門は敬礼の真似をして脚も大袈裟にピシッと揃えた。

「事務所及び白岡先生や同業者関係者の前では、時田DRとお呼びします!なので、2人きりの時は遥子さんと呼ばせて下さいーー!」

そのまるで警察官か、もしくは自衛官のような大袈裟な口調と態度に、睨みつけていた遥子も不覚にも吹き出してしまった。

「ありがとうございました!」

相変わらず斜め上の方を見ながら敬礼する土門に遥子は笑いを噛み殺しながら逆らう。

「許可はしてないわよ!」

「ダメですよ。笑ったから遥子さんの負けです!」

敬礼をほどいて土門は意味ありげにウィンクをした。

思いかけず、頬が熱くなった気がして、遥子は踵を返した。

「一度でも誰かの前で私を名前で呼んだら貴方の負けよ!」

「僕は負けませんよ、……誰にもね」

ついさっきまでと違って真剣実を帯びた声が背中から聞こえたが、遥子は敢えて振り返らなかった。


それからのエディトTは一気に仕事が舞い込み多忙になった。

そもそも昔馴染みのコネで頼み込んでいた出版社の下請け校閲や、新規企業からのパンフレット依頼。

もちろん目玉は白岡の新作編集で、周りの全ての目が、遥子の事務所の実力を推し量ったかのような様子見注文が多かった。

白岡の所に連れていく予定だった土門も、パンフレットなどの写真構成や、桂木の校閲、校正の補助が多く、殆ど遥子が単独で白岡の元を訪れていた。

その上、遥子の土門への仕事上での当たりやダメ出しがかなり厳しかったから、土門の機嫌は悪くなる一方だった。

その日も昼から白岡の元へ向かう遥子に土門が抗議の為に部屋に入ってきた。

「時田DR、今日も僕は置いてきぼりですか?」

持っていく予定の資料を確認していた遥子は手を止めて土門をちらっと見た。

「貴方が用意してくれた資料はちゃんと渡すわ。他に何か?」

「僕は、アシスタントなんですよねぇ?」

「そうよ。だから先生の要求する資料を用意してもらったりしてるのよ。別に現場に出向くだけがアシスタントの仕事ということではないしね。」

ぐっと口を結び不満げに立っている土門に追い打ちをかけるように遥子は退室を命令した。

「この時間が無駄だと思わないの?今手掛けてる校正、今週末締め切りでしょ?」

冷たい口調に、土門は何かを言いかけたが、ぐっと呑み込むように背を向けた。

不満に肩を怒らせながら出ていく淡いブルーの半袖シャツの背中を見つめ、遥子は小さな溜め息を洩らした。

彼の仕事に不満があるわけじゃない。むしろ、飲み込みの早さに驚いている。

校正に到っては、なかなか厳しい桂木が評価しているくらいだ。

だが、今のこの距離感が楽だった。顔が昔愛していた人に似ているとかということではなく、もはや土門という人物そのものが苦手だった。

長年、編集者としてあらゆるタイプの人と接してきたが、こういう感覚は初めてだと思う。

癖の強い人、偏屈な人、変わり者と言われるタイプまで、其れなりに扱ってきた。

この容姿や女性編集者ということだけでつけこもうとする人も居たが、それすらどうってことはなかった。

なのに、彼だけは扱い方を迷ってしまう。いや、扱いきれずについつい厳しく当たってしまう。

そして、その厳しさが土門を少し浮いた存在にしてしまい、チームワークを乱してしまっているのも、自分のせいなのだろう。

苦手意識を持ってしまったことが最大の原因だとはわかっていた。

もう少し彼の能力を素直に認め、皆と同じように接すれば解決するのもわかっていた。

だが……まだ彼の目を真っ直ぐ見ることも彼に微笑みかけることも、なかなか難しい。

経営者としては失格、子供じみた虐めでもしているようで自己嫌悪が止まらないのも本音だった。


「岩橋女史、私今日は直帰予定にしておいて。」

「かしこまりました。白岡先生との打ち合わせのあと他のお仕事のご予定ですか?」

「仕事、といえば仕事かなぁ。白岡先生の接待だから。」

遥子が苦笑いで答えると、桂木が珍しく口を挟む。

「喰われるなよ。」

「健さん!?」

桂木のまさかの冗談に遥子は吹き出した。

「喰われませんし、喰いもしません!」

「喰うことも…あるんか」

遥子の返しに桂木が笑った。

つられて岩橋もクスクス笑う。

皆が和やかな笑いに包まれている中で、唯一、土門だけが燃えるような目で遥子を睨み付けていた。

言いたいことは大体わかる。

自分を置いて行くくせに貴女は優雅に接待ですか!? だろう。

せめてもの気遣いとして、遥子は土門に声をかけた。

「次の機会には是非土門も一緒に、って白岡先生には進言しておくわね」

「行きませんよ!僕は接待の類いが大嫌いなので!」

喰い気味に即答した土門に、桂木がまた笑った。

「小僧、そう拗ねるな」

再び岩橋がクスクス笑った。実は彼女、笑い上戸らしい。

「こういう時間が無駄なんじゃないんですか?」

ついさっき遥子に言われた言葉を逆手に土門は意地悪そうに睨む。

岩橋は笑いを収め、え?という顔で土門を見た。

遥子はまともには取り合わず、バックと書類袋を抱えて桂木と岩橋に手を振った。

「健さん、小僧の子守り宜しくねー!」

背中に再び燃えるような視線が突き刺さった。


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