第3話  堕ちたプリンスとの出会い



今から八年前の遥子は、実績を上げることに必死な24歳の駆け出し編集者だった。

向上心の塊で、先輩編集者にくっ付いて回りながら、終業後もクラブやBarなどに顔を出し、面白そうなネタを拾い集めたりしていた。

そんな遮二無二走り回っていた中、一人の男と知り合った。

月に2回程顔を出すBarにその男はいた。

カウンターの奥の端に独り飲んだくれていた。

ある日、顔見知りの同業者が教えてくれた。


「なぁ、あの隅っこで飲んだくれてる奴、知ってる?」


「……知らない、と思う……」


遥子は言われた方向のカウンターを見ながら答えた。

肩幅の広さから結構な大男だろうことは見て取れた。言われてみれば、ここへ来る度、あそこに酔い潰れるように飲んでいる人が居たような居なかったような、そんなレベルの記憶である。


「“ 堕ちたプリンス ”って、聞いたことあるだろ?もう一年程前に世間を騒がせた事件だけどな」


「……あぁ、あのドーピング事件!もちろん知ってるけど…」


遥子はカウンター隅の広い背中を見つめながらその事件を思い出していた。


プロ野球にJリーグ、バレーボールのプレミアムリーグと、日本のスポーツ界も遅れ馳せながらプロ化が進む中、バスケットボール界もプロリーグが始まり日本人初のアメリカNBA選手誕生など注目を浴び、人気沸騰していた頃、その事件は起きた。

オリンピックを一年後に控え、全日本メンバーの選出合宿中にドーピングが発覚したのだ。


大学リーグの頃からその実力やルックスで注目を浴び、スポーツ雑誌ならず女性誌にも特集が組まれる程の人気アスリートが、そのドーピング事件の張本人だった。


バスケ一筋のストイックで硬派な印象が強かった彼は好感度も高く、特に女性からの人気が高かった。


海外と違って日本人アスリート界では、ドーピング事件を起こす人間は皆無に近い環境だったから、彼の世間に与えた衝撃は大きかった。


ましてやバスケットボール界が盛り上がりを見せ始めていたところでの事件は、連盟からの批判も処罰もかなり厳しかった。


チームからは当然、解雇を言い渡された。

個人的に非難する手紙が家には途絶えることなく届き、連日マスコミに追われ、彼はとうとう行き場を失った。

世間からは“ 堕ちたプリンス ”とワイドショー、ニュース、週刊誌までありとあらゆる処から大バッシングを受けて、結果、バスケット界を追放されたという事件だ。


「あれが、その元プリンスだよ。江上龍也こうがみたつや……とかいったかな?」


「ふぅん…そうなんだ…」


相変わらず大きな背中を丸めるようにして飲んでいる男を見ながら瑶子は興味津々に口をすぼめた。



次にBarを訪れた時、遥子は迷わずその元プリンスの隣に座った。


「こんばんは、隣に座ってもいいですか?」


男は遥子を僅かに横目でジロリと一瞥した。


そのあまりに生気のない寒々とした眼差しに遥子は思わずおののいた。

酔っているとはいえ、その淀んだ眼の色に驚きを隠せなかった。


頬は落ち込み、顔色も青白い。薄めの唇もほとんど色が無い。

とても自分と同世代には見えないほど、その男は老け込んでいた。


なのに、不自然なほど身なりはきちんとしていたし、身に着けている物も安っぽくはないのが見て取れる。裏路地でよく見かける酒に呑まれて倒れるように寝ているような酔っ払いとは明らかに違って見えた。


だが、その目付きも眼差しも色が全く無い。なんなら公園にブルーシートを張り生活している人達の方がもう少し目に生気があるというものだ。

遥子はこれが 人が“ 絶望する ” という感情なのだと無言で感じとった。



そこから遥子の興味はもっぱら江上龍也に向いた。

仕事が終わると毎晩のようにBarに通い詰めた。


何を話しかけても何も答えない、反応もしない、声すら発しない相手の横で、その日の時事ネタや自分の仕事の愚痴などを勝手に喋り、グラス二杯のウイスキーを飲み終えると「また明日ね」と言って帰った。


そんな不毛なことを続けてひと月程経った頃、相変わらずの脈絡のない話を一方的に喋っている最中、江上の肩が小刻みに震えた。


遥子は咄嗟に江上へ体ごと向き直ってパンと思わず両手を叩いた。


「 笑った!今、笑ったでしょ?笑ったわよね?」


だが、江上はすぐには答えずにグラスを煽る。

ややあってから、小さいため息のようなものを吐いた。


「………いつまで、続けるんだ?」


明らかに酒焼けしている低いしゃがれ声で初めて彼が口を開いた。


「 それは、私がこうして隣で飲むこと?それとも一人で喋り続けること?」


「 ……両方。」


遥子はクスッと笑い、思いの外彼が口を開いたことを喜んでいる自分がいることに気づく。


「う……ん、やめないかな。少なくとも貴方がちゃんと私を見てお喋りに付き合ってくれるまでは。」


「 なんで俺が……」


「 それはね……」


遥子は自分のグラスの氷をカラカラと揺らした。


「 貴方ほど絶望している人に初めて会ったから。」


「 ………同情されているのか… 」


江上の寒々とした声が返ってきた。


「 同情とは違うわ。だって、私は同情するほど貴方のこと知らないし、関わってるわけでもないしね。でも、拾っちゃったの、貴方のSOSを。初めて貴方に気付いた時、助けてくれ!ってその背中が言ってたのが聞こえたの。」


遥子はそう言って江上に向かって優しく微笑んだ。



その日を境に、二人の会話は始まった。


まず遥子は、自分の携わってる編集の仕事がゴシップ雑誌とは程遠い文芸であることを丁寧に慎重に伝えることから始めた。


恐らくは、当時の世間からのあらゆるバッシングや協会からの厳しい処分が、彼の極度の人間不信の最大の原因だと容易に想像出来たからだ。

その一方で、当時の真相を聞きたいという欲求も大きかった。

仮に真実だとして、何のために、どんな真意でその選択をしてしまったのか?


オリンピックの日本代表を手中にする目前で、敢えて薬の力を借りなければならなかった心の機微、葛藤。

その頃の遥子にとって江上の過去はとても興味深い“ ネタ ”だった。


だが、数ヶ月後に江上がポツリポツリと語った真実は、とんでもないものだった。


事実は小説より奇なり、とは言うが……今時の小説でも書かないようなそれはあまりにも残酷な真実だった。


全ては、江上の実力、活躍や人気を妬んでの陳腐な罠だった。

彼が所属する実業団のキャプテンが、当時自分の恋人であったマネージャーを使って江上を陥れたのだ。


高校ではウインターカップ準優勝を果たし、大学リーグでは得点王やMVPにもなり、鳴り物入りで実業団に入った江上は、ことバスケットに関しては自らにストイックな分、周りにも厳しさを求めるが故に孤立することが多かった。


それでも世間は彼をもてはやし、彼の本意ではないところで騒ぎたてた。

そういう彼を妬みやっかむメンバーも多く、ますます孤立しているところに寄り添ったのが女性マネージャーの由希子ゆきこだった。


チームメイトから理解されず、溶け込むどころか嫌がらせさえ受けていた江上を守るように寄り添った。

誰よりも彼のバスケットに対する理念を理解し、励まし、細々とサポートをし、それでいて控え目な由希子に江上が夢中になるのにさして時間は要しなかった。


そして、2人が付き合い始めて3ヶ月が過ぎた頃、江上に全日本代表選考の話が舞い込んだ。

アスリートとして、オリンピックに日本代表として出場する……誰もが憧れ目標とするチャンスがやってきたのだ。


由希子は言った。このチャンスは龍也の為にあるものよと。

今まで真摯に努力してきた結果なのよと。

だから貴方はバスケットに打ち込んでなにがなんでも代表になって欲しい。

その為の龍也の体のメンテナンスやサポートは私が引き受けるから。

二人三脚で勝ち取りましょう!と。



遥子は話を聞きながら、寒気がした。アスリートの恋人としての答えは100点だ。

但し、それが真実だったならば。

陰日向となって寄り添ってくれた女性、由希子……

実直な江上に、恋人でもあり、唯一の理解者であった彼女を疑うなどという考えは、微塵もなかったことは明白だった。


そして、簡単に、彼等が書いた筋書通りに罠に落ちた。

2日と空けず、合宿所に差し入れに訪れてくれた由希子から渡され、何の疑問も持たずに飲み続けた“ 特製栄養ドリンク ”こそが、ドーピングの答えそのものだったのだ。



「 ……残酷な事実ね。」


遥子の淡々とした感想に江上は声も無く笑った。


「 事実だと……本気で思うのか?俺の作り話だとは疑わないのか?」


「 何の為の作り話?一年以上経って自分の名誉挽回の為?それも私ごときに?」


遥子は吹き出した。


「 疑う余地もないわ。作り話だとしたらあまりにも陳腐すぎるから。小説のネタにもならないわよ 」


江上は苦笑いを浮かべ顔を歪めた。


「 その小説のネタにもならない陳腐な筋書きに簡単に乗せられ、全てを失い酒に溺れる男か……」


彼が胸の内で吐き捨てた言葉は、しゃがれた声になって漏れていたらしく、遥子はちょっと驚きながらも、ためらいがちに江上の冷たい手にそっと手を重ねた。


「 ……私と仕事してみない?」





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