第二章 その一 エミリ

ベトナム料理店の入口傍に地下に降りる階段がある。その階段を昇って黒髪の女性と彼女に手を引かれた男の子が出てくる。ツユちゃんとコマルくんだ。


(やっぱりね、ツユちゃんが居てくれたらこうなると思ってた。)


と私は思う。

二人は通りを渡りすぐ向かいの雑居ビルのエレベーターに乗り込んだ。このビルの4階にあるのが『彫露文身堂(ほりつゆぶんしんどう)』。ツユちゃん事、初代彫露のタトゥースタジオ兼自宅だ。


実はツユちゃんは厳密には日本人では無い。台湾人とロシア人のハーフだ。しかし本人は生まれも育ちも日本なので、日本語しか話せない。彫露の『露』はお母さんの故郷ロシアの意味もある。


今から30年前、ツユちゃんのお母さん、エミリは『ダンサー』の名目で来日した。しかしその実態はダンサーとは名ばかりの性的なサービスも伴うストリップダンサーだった。

1日4ステージ。その合間に別部屋で自分を指名してきた客に大人向けのサービスを提供する。一日が終わると外国人ダンサー仲間と共同生活するアパートに帰らされる。自分に入ってくる報酬の貨幣価値は分からなかったが、帰宅途中車窓から見える街の賑やかさから日本の景気の高さは伺えた。


「この国は皆お金持ちだ。」


エミリはそう思った。そのお金の一部でも切り取り帰国する事が出来ればどれだけ両親に楽な生活をさせてあげられるだろう。その希望だけでエミリは笑顔になれた。


しかしそれは全て虚像だった。


徐々に、それでいて急ピッチで劇場の客は減っていった。劇場側は自分達にこれまで以上に過度なサービスを強要するようになり、ある日ダンスのステージも省略されるようになった。


日本のバブル景気が終わったのだ。


1日4ステージ。踊る事無くただサンプルのようにステージ上に並び、数分で別部屋に戻される。

その直後数人の客にただ弄ばれ、またステージ上に並ばせられる。しかし以前より明らかに報酬は減っていた。

深夜、アパートに戻るハイエースから見える風景も明らかに活気が失われている。


「この国も皆お金持ちじゃなくなった。」


もうこの国にいる理由が無くなってきている事に気付いていた。しかしエミリは帰る方法が分からなかった。預けたパスポートは返して貰えない、帰るのに必要なお金がいくらかかるのかも分からない。笑顔は消え、思考も鈍くなっていた。


共同生活を送るアパートに戻り、シャワーの順番を待っていると一人の男が訪ねてきた。


「エミリ、来て。」


劇場のスタッフ、ヂーミンだった。ヂーミンはエミリの1歳年上の台湾人男性だ。

「どうしたの?」と言うエミリの手を強引に廊下まで引っ張り、アパートの階段下まで連れて来た。


「痛いよ!何?」


するとヂーミンは「しっ」と口に指を当て、エミリの肩を掴み真剣な眼差しで話し始めた。


「来週、劇場に警察来る。それ分かってるから皆連れて行かれるよ。多分だけど、エミリ達倉庫に入れられる。俺、それやれ言われたんだ。」


「警察?」エミリには事の重大さは分からなかったが、警察と言う単語だけで筋肉が強張った。


「エミリ、逃げよう。俺と、逃げよう。」

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