草原のある部屋


 懐かしい草の匂いに目を開けた。ずっと昔、家族で行ったピクニックの匂いに似ている。心温まる懐かしさに、ほわほわとした気持ちで私は上半身を起こした。ここはどこなのだろう。周囲を見渡してみる。目の前には、青々とした草原が広がっていた。無限とも思えた草原の奥には、簡素なドアが見えた。天井を見てみると、電球が小さな太陽のように光っている。外だと思っていたがここは部屋の中のようだ。

 草原には、黄色い蝶が二頭遊ぶように飛んでいる。その様子をまじまじと見つめるのは一匹の茶色い猫だった。季節は春だろうか。優しい暖かさが私を包み込んでくれているよう。こんな穏やかな気持ちで過ごせるのはいつぶりだろうか。……はて、いつぶりだろう。まあ、そんなことはどうでもいいだろう。思考を放棄して永遠にこの場所で過ごしていたい。私は自然とそう思っていた。

 猫は蝶を追いかけては逃げられている。しかし悔しがる様子はなく、遊んでいるかのように楽しそうだ。しばらく猫を眺めていると、猫がこちらを見た。


「にゃおん」


 猫は一鳴きして、身体を擦り寄せてきた。その愛らしさに笑みを浮かべて、ふわふわの毛並みを撫でた。すると、全身が粟立つ。今まで幸せで楽しかったはずなのに、この場所が酷く恐ろしい場所のように思えてきた。青々とした草原が徐々に色を失っていく。私は恐怖に駆り立てられるようにドアを開けた。

 中に入って、私は血の気が引く。そこはモノクロの草原だった。二頭のグレーの蝶と、黒い猫がいる。猫はニタニタと笑っていた。滑稽だ、とでも言いたいのだろうか。猫は不可思議な鳴き声と共にどんどん大きくなる。私の背丈の二倍以上まで大きくなった猫は、私を追いかけてきた。私はあわててドアを再び開けて中に入った。目の前に大きな猫の背中が見える。どうやら同じ部屋だがドアの位置が違うようだ。猫は振り返ってニタリと笑う。そうか。私はあの黄色い蝶と同じなのか。恐怖に支配された頭で私は絶望的なことを思った。

 どうしよう。どうしたらいいのだろう。私は幾度となくドアの開閉を続けた。私の精神はドアを開ける度にすり減っていく。猫は愉悦を孕んだ目で私を見つめる。私はとうとうその場にへたり込んでしまった。もうだめだ。そう思った時、右手に痛みが走った。信じられないが、右手が光っていたのだ。あまりの痛みに叫びだしそうになったが、叫んだのは私ではなく猫の方だった。耳を塞ぎたくなるような声を上げて、猫は苦しみ悶えている。猫の叫び声に比例するように痛みも強くなっていく。気を失ってしまいそうな痛みの中で、声が聞こえた。低く優しい、聞き慣れた声。その声はドアの向こうから聞こえているようだ。私は最後の力を振り絞ってドアを開けた。ドアの向こうは光ってよく見えない。背後から断末魔のような声が聞こえ、私は光に包まれ気を失った。






「……こ、……うこ、……裕子!」


 鼓膜を揺さぶる声に瞼を開けた。ゆっくりと声の方を向くと、ぼろぼろと涙を流して私の右手を握る涼介の姿があった。規則的に聞こえているのはモニターの音で、私は病院のベッドに寝かされていた。


「あ……あれ?猫は……?」

「裕子お前、事故にあって死ぬところだったんだぞ!本当に、本当によかった……!」


 上半身を起こした私に涼介が泣きながら抱きしめてきた。どうやら私は事故にあって生死を彷徨っていたようだ。涼介は泣きながらナースコールで看護師を呼ぶ。まだ上半身を起こすのは身体に負担がかかると、やって来た看護師に注意されしょんぼりとする涼介。涼介は私の右手から何かを取り上げ、再び手を握った。


「涼介、それなに?」

「これか?前に京都に旅行行っただろ?その時に買ったお守りだよ」


 旅行のことは覚えている。観光スポットを一通りまわった私と涼介。旅館の指定した夕食の時間までまだ少し余裕があったので私たちは近くに建っていた小さな神社に寄ったのだ。そこでお揃いのお守りを買って、私は鞄にしまって大切にしていたのだ。もしかするとこのお守りが私を守ってくれたのだろうか。なんにせよ生きていてよかった。私は壊れてしまったお守りに心の中で感謝した。


Fin.

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