第17話 疑心暗鬼
俊一たちは駅近くのホテルへと入った。自動ドアを二つ抜けたところに広々としたロビーがあり、左手の奥に胸の高さくらいのカウンターが置かれている。人気はまばらで、浴衣姿の若い男二人がバスタオルと着替えを手にしてカウンター前を通り過ぎているのが目に飛び込んでくる。手前には、磨き上げられたガラステーブルを取り囲む形でロビーチェアが六脚並べられており、壮年期くらいの頭の薄い男が一人、チェアに腰掛けて新聞を広げていた。それらを確かめると、ここなら大丈夫だろうかと考えてから、俊一はカウンターにまで寄っていき、カウンターの内側にいる若い従業員の男に話しかけた。
「二人いけますか?」
「予約のお客様でしょうか」
「いえ。空いていたら二名お願いしたいんですけど」
「かしこまりました」
長身の男が微笑を浮かべ答える。隣にいるもう一人の男も会釈で応じた。
「ここにお名前、ご住所よろしいでしょうか」
俊一の目の前に一枚の記入用紙が差し出される。俊一は少し考えてからペンを走らせていく。
「ご兄妹ですか?」
目の前の男が尋ねてきた。
「親戚なんです。姉の子供で」
俊一は冷や冷やしながら記入用紙に氏名と住所を書いていく。男のなにげない問いかけがまるで尋問のように感じられた。
「そうなんですね。お住まいは静岡ですか」
「はい。ちょっと東京に用がありまして」
「私の出身も静岡なんですよ」
あまり自らのことに対する話題は避けたかった。詮索されているような気がして自然と頬が強ばる。書き込んだ氏名は偽名で、住所もあらかじめネットで調べてあった無関係な人の自宅の住所だ。普通に振る舞っていれば嘘だとは気付かれないだろうと、俊一は考えていた。おそるおそる、記入済みの用紙をカウンターの男に手渡す。
「松本様ですね。ご本人様証明できるものありますか」
いたって事務的な問いかけだった。しかし俊一にはそれがもっとも難しい要求であった。昨晩泊まったホテルでは身分証明は不要であったのに。
「今ちょっと持ち合わせがないんです」
財布を取り出して、確かめる素振りをみせる。せめて氏名だけは本名であればよかった、と思った。そうすれば、名前を確認するものくらいは示せたはずだ。
「ないと泊まれないんですよね。やっぱり」
「そうですね。当ホテルでは、ご本人様の証明書がないと」
従業員の男が申し訳なさそうに返事をよこす。
俊一はうなずき応じた。
「分かりました。じゃあ、他をあたるので、すみません」
俊一はその場を離れようとした。もはやここには居たくなかった。雛子の手を引き、カウンターを後にしようとした、そのとき、従業員の男に呼び留められた。
「お客様、あの」
長身の男が隣にいたもう一人の従業員と二言三言会話を交わし、再び俊一たちの方に向き直る。
「今ちょうどキャンセルが出ておりまして、泊められるか確認致します」
「いけるんですか?」
「確認致しますので、あちらの待合いでお待ち頂いてよろしいですか」
従業員の男が入り口横のソファを手で示して答える。
「はい」
なにか腑に落ちなかったが、俊一は言われたとおりそこに腰掛けてしばらく待つことにした。
雛子がガラス製のテーブルの上に置いてある絵本の表紙をみて、興味を示した。犬と男の子が描かれている絵本だった。雛子は中腰の姿勢になって、表紙を一枚一枚めくっていく。
「絵本好きなの?」
「子犬が好き」
「そうなんだ。猫より犬が好きなの?」
「猫ちゃんも好き」
雛子がまた一枚絵本のページをめくった。
「疲れてない?」
「うーん」
俊一の問いかけに雛子が曖昧にうなった。俊一の中で悪いことをしている気持ちがまた膨らんできた。丸一日、東京をうろうろしていた。行く当てもなくさまよい続けていたのだ。行く先々でママを探そうと言って嘘を付いていた。雛子は幼いとは言えもう六歳である。母親がこの街にいないことくらい気づいているのではないか。俊一は雛子がいつ帰りたいと言い出すのか、内心びくびくしていた。
ソファにもたれ掛かったとたんに、途方のない疲労感に襲われる。そのまま上を向いて眠ってしまいそうになる。俊一も疲れていた。とりあえず泊めてくれるホテルが見つかってよかったと思った。夜を明かす場所は子連れだと限られている。夜歩きは目立つし、マンガ喫茶に雛子を連れていくわけにも行かない。俊一だけならまだしも雛子を野宿させるわけにも行かなかった。
ガラス窓の外からけたたましいバイクの音が聞こえてくる。数台のあるいは数十台のエンジンを無意味にふかす音。呼応するようにパトカーのサイレンの音がウウーンと響いてきた。俊一は怖くなって後ろを確かめる。正面の道路を白いパトカーが走り去っていくのが見えた。
昼間、警官に呼び止められたことを思い出していた。本当に誰も気づいていないのか。二人を見てなんらの疑問も持たないのか。俊一たちの実家では今頃たいへんな騒ぎになっているのではないか。そんなことが頭の中をぐるぐるとかけ巡る。疲労で不安はさらに膨張していく。誰かから監視されているような気がしてくる。フロント前を行く人たちの視線が刺さる。入り口から制服を着た警官が入ってくるのではないか。明日の朝までここに泊まっても大丈夫なのか。
おかしい。俊一はふと気づいた。雛子を連れ去ったのは今日ではない。昨日でもない。二日前だ。それなのに新聞記事のどこにも載っていないというのは、不自然ではないのか。俊一はテーブルの上にある新聞に目を通し考えた。夕方に図書館で利用したインターネットでも二人の行方不明者に関する記事は、存在していなかった。化かされているのではないか。
俊一の中で漠然とした不安と猜疑心が無尽蔵に膨れ上がっていく。ホテルの従業員に引き留められたことさえも嘘くさく感じた。個人証明が出せなかったのに、泊めてもらえるのか。ハメられているのではないか。
神経質なほどに様々な事柄が頭をかすめ、俊一は心臓の鼓動が次第にばくばくと耳で聞き取れるほど大きくなっていることに、さらなる恐怖を覚えた。
カウンターに目を向ける。対応してくれた長身の男は裏に引っ込んでしまった。もう一人の男が別の客の対応に当たっている。
俊一は立ち上がる。今しかないと、自分の中にいる悪魔が囁きかけてきた。
「雛子ちゃん行こう」
雛子の右腕を乱暴に掴んで、俊一は歩き出した。犬の絵本が絨毯の上に落ちる。名残惜しそうにそれを戻そうとする雛子を連れて、俊一は自動ドアを足早にくぐった。
「どこいくの?」
雛子が尋ねてくる。俊一は首を横に振った。
「分からないよ。どこに行くかなんて」
二人はタクシーを捕まえるとそれに乗り込み、都会の闇の中へと消え去ってしまった。
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