夏、白昼夢、思考の隅で

神田椋梨

第1話 あなた自身を頼りに

 気が付くと、そこは過度にまばゆい光の世界だった。


 視覚と思しき感覚は揺らいでいて、かろうじて捉えることの出来る世界は真っ白だった。石灰岩で建設された地中海の家々のような、もしくはアルプスの雄大な雪渓に生える万年雪のような、そんな白さだった。

 その白んで輝くような明るさは、その唯一の感覚を針のような鋭さで刺激してきて、私はおよそ眼球が存在しているであろう組織の奥の方に、痛みにも似たざわめきを覚えた。


 ――この痛みには耐えられない。


 急に湧いたそんな気分に思考全体が支配されて、しばらく動かずに息をひそめることにした。光を遮断するように、まぶたらしきモノを閉じてじっとする。

 ただ、この場合における『息をひそめる』と言う表現は、どうやら適切では無さそうだった.

 今の私には身体の感覚をあやふやにしか感じられなかったのだ。いや、感覚が存在しているかどうかすらも怪しかった。聴覚、触覚、嗅覚、味覚、そのどれもが蜃気楼しんきろうのように掴みどころが無く、どうにも思考と接続しない。そして、唯一その切れ端に触れかけた視覚から得ることの出来た情報は、白い明るさだけだった。

 ただ、何故だろうか、思考と自意識の存在だけは、疑いようもなく私自身が所有していると思えた。『我思う、故に我在り』そんな言葉がふっと浮かんできた。しかし、誰の言葉であったかを思い出すことは出来ない。 


 詳しい時間の存在を認識していなかったけれど、意識を得てから10分は優に経過しただろう。そこに至って、私はようやく自分が人間であるという事を、理解できるだけの感覚を獲得しつつあった。

 その証拠に、私は頬に触れる穏やかな風を感じる事が出来た。左手の指先が右手に触れ、親指にあるペンダコのような凹凸を撫でることが出来た。硬くて少しひんやりした平面に、私の背中が触れているということを理解出来た。初夏の瑞々しい緑の草原のような香りを嗅ぎ取ることが出来た。何処からともなく流れてくる、弱弱しいピアノのような音を聴き取ることが出来た。

 恐る恐る重たい瞼を上げると、先ほどの眩しい光は収まっており、読書をするのであればちょうど良い程の明るさになっていた。その明るい視界に映っていたのは、白や灰色、または黒のゴチャゴチャした配線と配管、コンクリートか木か判別しかねる素材の梁と屋根のような広がりだった。


「ふうむ」

 私は鼻から声を漏らした。


 ここまでに収拾し得た情報から推測するに、私は明るい草原の中の硬い建造物の上に仰向けで寝転んでいるらしいのだ。建造物には屋根があるけれど、壁がある確率は低いとみた。なにせ柔らかな風が絶えず私の体表面に触れているし、遠くから聞こえるピアノの音の広がり方は、室内のモノとは思えなかったからだ。

 そして嬉しい誤算、さしずめ瓢箪から駒と言ったところか。この知らない空間に存在しているのが『私』という意識だけでは無いということが分かった。そう、『私』という肉体もしっかり顕在していることも、おおかた確かな事実となったのだ。


 私は四肢に意識を集中させて力が入るか確かめることにした。自分の置かれた状況を理解するためには、起き上がって周囲を見渡す必要があると考えたのだ。百聞は一見にしかず。

 幸いなことに、思った通りに身体は動くようであった。胸の前で組んでいた腕を横に下ろすと、ずっと背中と接していた地面に触れることが出来て、冷たいザラザラとしたモノを撫でているような感覚を覚えた。太腿を軸にして両足を回すように揺さぶると、ふくらはぎの筋肉が遠心力でブルブルと左右に動いた。

 コンクリート製らしい地面に手をつけ、足をわずかに引き、腰に力を入れると、私は一息に立ち上がった。ズズズ……靴とコンクリートが擦れる。

 ぐわんぐわんと頭が震えてしまったことを抜きにすれば、私の立ち上がるという試みは成功だった。私はにわかに嬉しくなった。ほんの先ほどまで全身の感覚を所持していなかったらしい自分が、意識の思う通りに立ち上がることが出来たのだから。

 なんて感動的な事だろう、まさに成長か。

 視点は違うはずなのに、雛鳥が初めて飛び立つ瞬間を見守る親鳥の気分を味わった。


 立ち眩みにも似た揺れと、脳の中心辺りを襲う痛みが収まるのを待って、私は周囲を見やることにした。明るさに色を定める。


 そこは、駅だった。


 正確には、日本の片田舎にある駅のような場所だった。

 私が立っていた硬いコンクリートの地面は、駅のホームのように細長かった。それに対応するように屋根が伸びている。ホームが伸びる先には影の落ちた昇り階段が見えた。入口は黒々としている。階段から建物をなぞるように目線を移動させると、四角くて少し汚れた白い渡り廊下があり、続いて似たような見た目で斜めに下る階段、そして反対側のホームへと繋がっていた。視界の終端、対岸のホームには艶黒いグランドピアノが置いてあり、大屋根がこちら向きに開いていた。傍らに置いてある椅子には誰も座っていない。

 先ほどから微かに響いてくるピアノの音は、未だに方向を特定できずにいた。

 この音はきっとあの立派なグランドピアノから聞こえてきているのだろう、でなければ駅のスピーカーだ。私は妙に痛む肩と首をさすりながら思った。ただ、奏者の居ないピアノから音がするなんて、おかしな話だ。雑に観察した限りだけれど、ピアノ以外で音を出力する機器はどこにも見えない。というかスピーカーなんて影も形も無い。


 ホームとホームの間、ここが駅であれば本来レールが敷いてあるはずの場所を見下ろすと、レールの類は見られなかった。人工物は全く落ちておらず、砂利または礫が、陽光に照らされているだけであった。カラカラに乾いていて、鈍そうな印象を受ける。


 再び対岸に目を戻すと、駅の屋根で少し暗くなったピアノの奥に、緑の草原が明るく見えた。きわめて緑、ベタ塗のキャンバスに透明なニスをこれでもかと厚塗りしたような不自然さがある。


 ふと私は恐怖にも似た感情が心の中に湧き上がるのを感じて、ぶらんと垂らしていた両腕を体に寄せるように組んだ。半袖で露出した素肌の微かな温もりを感じる。


 不自然なのは、風景だけでは無かったのだ。

 鳥のさえずり、虫の声、獣の気配、人の存在、そのどれもが全く感じられないのだ。理由は知る由もないけれど、私だけがこの世界に閉じ込められてしまっているのかもしれない。そう思うと酷く不安になる。胸の下あたりが重くなる。

 一方で、私は恐怖の中に別の感覚が紛れていることに気が付くことになった。今になって、つまり周囲を見渡してみて初めて、私は『なぜ自分がここに居るのか』ということを不思議に思ったのだ。今まで不思議に思わなかったこと自体が、不思議なくらいだった。

 そもそも、私には「私がなぜこのような場所に居るのか」という疑問の答えを出せるだけの記憶、すなわち自身の存在に関する記憶を持ち合わせていなかった。思考の流れを遡って探ってみたけれど、ここと似たような風景はおろか、自分自身が誰であるかなんて、当然分からない。物の固有名詞や一般的な概念に関する記憶はそれなりに持っているのに……。

 自分に関係する記憶の引き出しを引こうとすると、もやのような煙がたちどころに手元を隠してしまい、眼球をチクチクと刺激しては瞼を閉じさせてしまうのだった。


「なるほど」何もわからない状況で私は再び小さく呟いた。


 自らが誰で、自身の居場所が分からない人は、発狂して取り乱してしまうモノかと思ったけれど、意外とそうではないらしい。そもそもこのイメージはどこから来たのだろう。

 私の頭は気持ち悪いくらいに冷静だった、冴え切っていた。そして、その冷静さの影には、今にも燃え上がって全てを焼き尽くしてしまいかねない程の、熱い好奇心がとぐろを巻いていた。


 あのグランドピアノはなぜここにあるのだろうか。

 あのピアノの音は何?

 ここはどこなんだ。


 私は誰?


 疑問の答えを得るべく、反対側のホームに行きたいと私は強く願った。

 パッと見ただけだけど、目の前の暗い階段は向こうのホームへ繋がっているはずだ。

 私の二本足は階段に向けて重い歯車を回し始めていた。不安を断ち切るようにゆっくりと力強く。


 長い階段を昇っていく。ホームにいた時は気付かなかったけれど、この階段はどうも傾斜が急だ。一段一段が大きいし、率直に言えば私の歩幅には合わない。にわかに日本の古い城の天守閣にある階段の様だな、と根拠もなく思い、妙に納得した。

 息をつきながら登っていく。無機質な空間には埃一つ落ちていないどころか、床や壁には傷一つ無い。セラミックか大理石のようにツルツルしているようにも見える。まるで新築だ。外から見た階段や渡り廊下は明らかに黒ずんでいたから、素材が違うのだろうか。それとも誰かが掃除しているのだろうか。意を決して触れてみると、思ったよりもザラザラしていた。レコード盤の録音面のよう。もちろん材質は分からない。


 30段ほど登ると階段は終わった。肩が上下してしまうのは不可抗力だ。

 大きな窓から筋のような陽の光が入る渡り廊下をゆっくりと歩いてゆく。階段部分とは打って変わって明るい。渡り廊下にはすのこが敷いてあり、これも例外なく新品のように見えた。


 この渡り廊下の高さからなら、遠くの方まで眺めることが出来るだろうか……。

 小さな思い付きを実行するべく、私は何気なく窓際に近寄った。


「え……」


 網膜に映った景色に、私は息をのんだ。

 見渡すばかりの新緑の草原。おそらく季節は夏だ。それにホームに居た時に見えた緑とはまるきり印象が違っている。風が吹き抜けるたびに細長い草が柔らかく倒れて、通り道がキラキラと光って見えた。人工物はこの駅以外に観測することが出来ない。遠くには真一文字と称して違わない地平線がどこまでも続いていた。濃く透き通って純粋な空の蒼と、夏の若草の瑞々しい碧は、決して交じることが無く、抽象画のようにきっちりと別れていた。その二色の境界が、延々と続いているようにも思える地平線を形成していたのだ。また、ホームとホームの間の礫で出来た道は、その地平線の方まで続いているようであった。

 雲の無い空。駅のほかに人工物は無くて、それどころか木も無い世界は、一見無機質に見えたものの、先程まで感じていた不自然さは薄れてきていた。


 淋しさはあるだろうか。多分ない。自分という存在が曖昧だから。

 怖さはあるだろうか。きっとある。知らない状況に身を置くのは不安だ。

 楽しさは、喜びは、希望は、執着は……。


 感慨に浸っている間も、ピアノの音は聞こえ続けていた。一見、不規則ではあったけれど、メロディーのようなまとまりがあることも確かだ。これは何かの曲かもしれない。直感でそう思った。


 私は足早に渡り廊下を抜けると、対岸のホームに降りる階段を慎重に下った。私の足音だけが四角い空間に、トントンと反響する。まるで何人もいるかのようだ。


 何度か足を踏み外しそうになりながらも、30段ほどの階段を下り終える。呼吸を整えるのも束の間、ふと視線を上げると、ちょうど20メートルほど先にグランドピアノが目に入った。私は一歩一歩、そのピアノに近づいて行った。

 近づくにつれて、ずっと響いているピアノの音が大きくなるように感じられた。反対側のホームにいた時は、このピアノから音が出ているか疑わしく思っていた。けれど、どうやら音源はここらしい。私の聴覚がまだ完全ではないのか、それとも音響空間が特別なのか。どちらの疑問も大した問題では無かった。単に、ピアノに対する私の好奇心がどんどん増すばかりであった。


 あと数十センチでピアノに触れることが出来る、という距離に至った時、私は椅子に座ってピアノを弾く少女を発見した。

 私は驚きのあまり、大声を出しそうになってしまった。幸運だったのは、開きかけた口を咄嗟に両手でふさぐことが出来たことだ。彼女を邪魔してしまっては申し訳ない。

 少女は小さく、ピアノ正面からでは譜面台に隠れて姿が見えなかったのだ。私が対岸に居た時は、そもそも少女の存在も姿も認識できなかったのに……不思議だ。少女は最初からここに居て、ピアノを弾いていたのだろうか。

 私は驚きつつも、ゆっくりと少女の横まで歩いて行った。

 少女は長い黒髪を肩の下くらいまで伸ばしており、真っ白なワンピースを着ている。また肌は色白く、細長くて今にも折れてしまいそうな四肢をしていた。真っ黒なピアノに真っ白な少女。自分がモノクロームな世界に来てしまったのかと錯覚してしまう。

 私はふと少女の手元を見た。その動きの一つ一つを嘗め回すように。

 記憶の中にそれと該当するモノは見つからなかった。まして私はピアノに関連する知識など、砂の粒ほども持っていないはずだった。

 だけども、どこかで絶対に見たことがある、そうと確信させる運指をしていたのだ。全く不思議な感覚だった。何と形容しようか、しいて言えば懐かしさにも似た感覚。

 それはまさしくデジャヴのような、いや電撃のようなひらめきだった。


 エリック・サティ作曲のピアノ独奏曲、グノシエンヌ第一番。


 そう認識した途端、不規則で弱かったピアノの音が、川の流れのように一本に集約され、一つの曲として体を為し始めたのだった。重く悲しげな響きがこだまする。

 私はこのひらめきに酷く驚いてしまった。名前も概念も知らなかったはずの事物の情報が、急に思考に現れては、さも当然のごとく居座っているのだ。元のホームに居た時の冷静さはとうに失われて、ただ口を開けたまま呆然とするのみであった。


 ピアノを弾いていた少女は手を止めて、私の方を見つめて来た。長いまつげとぱっちりした目、仄かに紅潮した頬が印象的に映る。


 私が少女の全貌をまじまじと見ながら動かないでいると、少女はやおらに口を開いた。


「こんにちはお姉さん。いいえ真季さん」


 思いのほか高かった少女の声と、私に向けて放たれた名前らしきモノを上手く咀嚼することが出来なくて、私は石像のように固まってしまった。痙攣に似た瞬きだけをする。

 すると少女はペダルから足を下ろし、ゆっくりと身体を私の方に向けた。

「もしかして自分が誰か分からないんですか?」

 私は小さく頷く。

「じゃあ私に見覚えはありますか?」

 私は頭を横に振った。

 少女は表情を変えることなく、淡々と言う。

「だったらごめんなさい、さっき言ったことは忘れてください」

 少女は尚も私を見つめている。黒い瞳に私らしき人影が映っている。

「あ、あの」私は喉を震わした。「あなたはいつからここに居たの?」

「それを知って何になりますか?私はただ、ここでピアノを弾いているだけですよ」

 少女は表情を変えない。何を考えているのかを伺うことが出来なくて、少し怖い。

 私は逃げるようにピアノの話題に移ることにした。黒光りするグランドピアノは対岸で見た時よりも、一層立派なモノに思えた。


「あのさ、さっき弾いていたのってサティだよね?」

「ええ、サティのグノシエンヌです、きっとお姉さんも弾けると思います」

「いやいや、弾けるわけがないじゃない!ピアノを習った経験なんて多分ないだろうし。それに、どうしてこの曲が『グノシエンヌ』だって理解出来たのかも分からないんだから」

 私は大げさに手を振る。

「ううん、大丈夫ですよ」

 少女はニコリと笑うと、困惑する私の手を取って椅子に案内してくれた。少女の白く柔らかい手は、思いの外ひんやりとしていた。

 されるがままに椅子に座ると、少女は私の手を鍵盤の上に優しく置いた。

「最初はこことここ。押してみてください」

 言われた通りに鍵盤を押さえると、ポーンという小気味良い音が響いた。

「次はここ」

 少女に操られるようにして鍵盤を押していくと、なるほど、曲になっていくようだ。グランドピアノの少々重い鍵盤も、その押し込みの深さが却って心地よく感じられた。


「お姉さんはこの曲にどんな印象を持ちますか?簡単なイメージでも良いんですけど」

 しばらく引いていると、少女は不意に上機嫌で質問してきた。

「い、印象?うーん……」

 私は少し考えて、

「曇り空の下、いつの間にか路地裏に迷い込んでしまっていて、出口が見つからないという恐怖の影に一人の冒険を楽しむような興奮を覚える、みたいな感じかな。それとも、ちょっぴり憂鬱な雨の日の喫茶店で、温くなったコーヒーをチビチビ飲みながら小難しい専門書に目を通しているみたいな?」と返した。

 ただ、頭の中に浮かんできたイメージを言葉にしただけだった。類似する光景は記憶の中には無い。

 少女はフフフと声に出して笑った。その笑顔は純粋そのものに見えた。

「何だかわかる気がします。やっぱりポジティブな感じはしませんよね」

「だね。あと、落ち着くような不安になるような、どっちつかずな感じもする」

「でもここには合っている気がしませんか?」

「ここって、この駅みたいな所のこと?」

「ええ」

 私は答えなかった。

 うん、と首を振ってしまったら、この空間の何か深い所に触れてしまう気がしたから。


「あ、あのさ、サティだったら……あの、なんだったかな……ジム……」

 さっきのひらめきでヒビの入った記憶の箱を揺する。そして零れ落ちた中身を拾い上げる。だけど完全ではない。小さな破片。

「ジムノペディですか?」

 そうそれだ!と声を出して反応する。頭の中に新しい何かが爆発するように生まれ、軽い衝撃をもたらす。

 少女は横に垂れた長い髪を耳に掛けると、別の曲を演奏し始めた。

 ゆったりとしていて、展開に大きな変化は無い。穏やかで干渉してこない。

「ジムノペディも良いですよね。私は二番が好きですけど」

「でもこれは……一番なのかな?根拠は無いんだけど」

「おお、よくわかりましたね。これは一番です」

 答えを得て、さっきの衝撃に呼び名が付く。

「私はこの曲の方が、この場所にあっていると思うな。真夏の昼間に木陰で本を読んでいるような、それか光の眩しい白い部屋でゆったりと横たわっているみたいな。そんな感じがしない?」

「分からないことも無いですけど、お姉さんは面白い感性をしていますね」少女はクククと声を抑えて笑みをこぼす。一瞬だけ口元の白い歯が見えて、きらりと光る。「私は透明で無関心な水みたいな音楽だと感じます」

「なるほど一理あるかも」

「なんというか落ち着きますよね。あと若干の恐怖も混ざっている気がします。終わることの無い白昼夢みたいな」

「確かに落ち着くけど……恐怖って本当?私にはわからないかも」

「まぁ感性は人それぞれですから。でもわたしはお姉さんの感性、好きですよ。根底では私と似ている気がしますし」


 無我夢中でピアノを弾いていると、だんだん次にどの鍵盤を押さえるかが分かって来た。いつの間にか少女の指示が無くとも自然に弾くことが出来た。まるで、自分はここでピアノを弾くために存在しているのではないか、そう思うところまで至って、少し怖くなる。

 そもそも私は何なのだ。

 ただ、その怖さも、他の違和感と共にピアノの音に溶けて薄まっていくようだった。とげとげしい感受性を薄い膜が覆っていくようだった。


「ねっ弾けるでしょう?」

 少女は弾んだ声で言った。彼女の指は跳ねるように鍵盤上を舞い、まるでワルツを踊るように優雅だ。悲しいかな、私の指先は対照的で、油をさし忘れたロボットだった。

「うん、でも不思議だね。ピアノを弾けるなんて記憶も、サティについての記憶も、グノシエンヌやジムノペディについての記憶も無いのに」

「今はそうかもしれませんね」少女は落ち着いた声で言った。「もしかしたら、いつかは分かるかもしれません。でも分からないかもしれません」

 矛盾していて中身の無い言葉だ。何かを含んでいるのだろうか。

 それはどういうこと?そう訊こうとすると、少女の声に被せられてしまった。

「記憶が無いってことは、他のクラシックも分からないんですよね」

「うん、曲名も、まして作曲者なんて全くだよ」

「じゃあ、ここがどこかも分からないんですよね?」

「う、うん」

「ふーん。それなら、幾分か幸運かもしれませんね」

 少女はまた、何かを含蓄したようなことを言った。

 この少女は何を言おうとしているのか、この少女はいったい何を知っているのだろうか。ここに至って、隣にいる少女が私よりも年下とは思えなくなっていた。確かに見た目は幼い。おそらく10歳、幅を考えても14歳くらいだろう。それにしては落ち着き過ぎている。話し方や振る舞いなどでは無い。いや、漠然とだけど、年齢の問題ではない気もする。もっと大きな何か。人という枠に収まるものではなくて、例えば……。

 そんなことを考えていると、指の動きが悪くなってきて、曲がぎこちなくなっていく。テンポが乱れ、ミスタッチも増える。かろうじてグノシエンヌの体裁を保ってはいるけれど、それはもはや不自然でバラバラな音たちと称しても間違いは無さそうだった。。次第に少女の横顔から笑みが徐々に引いていく。

 けれど、私と少女はピアノを弾くのを辞めなかった。どちらかが言い出すまでは辞めそうにない雰囲気だった。辞めてはならない、という所以の無い強迫観念が思考を支配していたのかもしれない。


 永遠にも思えたその演奏会の終幕は、あまりに突然だった。


 少女は冷えた語調で、

「お姉さん、そろそろ変わった方がいいかもしれないです」

 と言い、白く細い腕で私を押してきた。

 私は流されるがまま、ところてんが箱から抵抗なく押し出されるように、椅子を離れてその横に立つことになった。開いた大屋根の隙間から金色の金具や硬そうな弦が沢山見えた。

 私が退くと、少女は椅子の真ん中に座り、再び鍵盤を叩き始めた。やはり私なんかと比べモノにならない程、優雅な旋律だった。けれど、最初に聴いた時よりも無機質な感じがした。生まれた響きは淡々と流れて消えていく、冷たい旋律が繰り返され……。

 それらが却って妙なノスタルジックを感じさせたのだけど。


 キリの良い所、ちょうど一曲が終わりに近づくと、少女はおもむろに私の方を向いた。不思議な魔力を放つような少女の力強い目は、私を石膏像のように固くした。

「ど、そうしたの?」

 私はかろうじて口元の石化を解いた。


 すると、少女は指を動かしたまま、神妙な面持ちでゆっくりと応えた。それはまるで、私に呪いをかけようとしているのではないかと疑ったしまうほど語気が強く、はたまた一種の優しさを感じる言葉だった。


「二度と会うことは無いでしょうね。あと詮索はしちゃだめです。さようなら真季」


 少女の呟きを発端とするように、急にぐにゃりと世界が歪み始めた。

 視界に映る全てがダリの絵のように溶けて回りだす。

 眩しいホーム、暗い階段、蒼い空、碧の草原、黒いピアノ、白い少女。

 混ざり合ったそれは、油絵を描き終えた後のパレット、汚れた虹。

 鳴り続けるピアノの音はいつの間にか曲でなくなり、独立した音の粒に全てが飲み込まれていく。身体も精神も、そして記憶も、何もかもが。

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