第4話 独りにしないよ

ぼくが理解できるかどうかなんて問題ではなくて、多分さとしさんは、自分自身の心の整理をしていた様に思えた。


ぼくはさとしさんが話している間、ひとつも質問をせずにずっと話しを聞いていた。


さとしさんは、もう一度深い溜息をついてからぼくの方を向いた。


さとしさんは、苦笑いをしながらぼくに話した。


「どうしようもない大人だろう。話しながら情けないと思ったよ。」


ぼくは大きく首を左右に振ってきっぱりと言った。


「さとしさんは悪くないよ。そして、誰も悪くない。皆が一生懸命生きてきた結果なんだ。だから、さとしさんが死ぬ必要は絶対にないんだ。」


それでも、さとしさんは寂しそうに笑ってぼくを見て言った。


「ありがとう。でも、この世界で生きていくのに疲れてしまったんだ。」


ぼくは、同感であることを伝えるために大きくうなずいた。


「そんなことがあったら、生きるのが辛くなると思う。だって、名前をからかわれただけでも、心がズキズキ痛かったんだから。見えない血が、ぼくの心から流れ出ていく様な感覚なんだ。」


ぼくは続けた。


「さとしさん。


さとしさんの一番の親友は誰か分かる?


さとしさんのことを一番に思ってくれて、いつもそばにいてくれて、一緒に悲しんだり喜んだりしてくれる親友がいるんだ。」


さとしさんは、力なく首を横に二回ほど振って、分からないことを伝えてくれた。


「さとしさん自身なんだよ。


さとしさんは自分自身の大事な操縦士なんだ。


どんなに苦しくても辛くても自分を傷つけたり、まして殺したりしてはだめなんだ。


よく頑張ったって労いこそすれ、絶対に責めたりしないで。


そして、とりあえず美味しいものを食べさせて、ゆっくり休ませてあげて欲しい。


こうなるまで、いっぱい悩んで苦しんで限界に来ているんだよ。


人間の体は、食事と睡眠が一番大切なんだけど、心が苦しんでいる時はなかなか眠れなかったり、食事もちゃんととれていない時が多いから、体も限界に来るんだ。


ぼくに三日間だけさとしさんの時間をください。


ぼくを助けるつもりで、その時間をさとしさんの体の回復に使ってあげてください。


無理かもしれないけど、できる限り何も考えずに、トイレや食事、お風呂など、最低限のことしかせずに、眠れなくてもいいから、ただひたすら横になって過ごしてください。


そして三日後のお昼にまたここで待ち合わせてもらってもいい?」


ぼくは、瀕死状態であるさとしさんの第一段階である応急処置をさとしさん自身にお願いした。


まずは、十分な休息と栄養をとれば、人は少しずつまともな考えができるようになるのである。


風邪などを引いた時に、自己免疫作用が働くけど、精神的なものにも自己免疫の様な自己回復能力があるのだ。


そこにまずは集中させる。


とにかく次の段階に行くには思考を少しでも正常にしないといけなかった。


「もう一つお願いがあるんだけど、トイレやお風呂の時に、鏡に向かって無理やりでもいいから笑って自分を励ましてあげて欲しいんだ。


例えば、”ぼくは君の味方だよ”とか、”ぼくが助けるからね”とか、”ぼくを信じて”とか鏡の自分に向かって話しかけてあげて欲しいんだ。


今の大変な状態の時にでも自分自身を愛して安心させて信じてあげる簡単で効果的な方法なんだ。


これを必ず実行してくれるって、ぼくと約束して!」


ぼくは、今まで生きてきて一番の真剣な目をしてさとしさんに懇願した。


さとしさんは、かろうじてだけど、ぼくの目を真っ直ぐに見て約束してくれた。


「分かったよ。君のために三日間君の教えてくれた通りにやってみるよ。」


ぼくたちは、約束をして別れた。


さとしさんは、別れ際に、体をかがめてぼくを抱きしめてくれた。


ぼくの耳元でさとしさんは、本当に優しい声でぼくに言ったんだ。


「八郎君、本当にありがとう。心が救われたよ。」


ぼくは、さとしさんの大きな体に包まれて、なんだかほっとして気持ちが溶けていくようだった。




ぼくは、さとしさんと別れても、ずっとさとしさんのことを思って祈っていたんだ。


念力と言うものが、科学的に証明されてないかもしれないけど、ぼくはそれがあると信じて、さとしさんにぼくの念力を最大級にして送った。


後は、さとしさんを信じて待つしかなかった。


三日間が、とても長く感じた。




ぼくの日常はというと、毎日ぶらぶらしていた。


家にはお母さんがいるのだけど、お母さんは心の病気だった。


ぼくは、お母さんには何もしてあげれないんだ。


辛そうにしているお母さんを、ただ見守るしかなかった。


昼夜問わずお母さんは布団を敷いて眠るんだ。


眠っていると思ったら、布団の中で大声で叫んで泣いている時もある。


布団で叫び声がくぐもっているけど、相当大きな声で叫ぶから、近所に聞こえないか心配になる。


でも、お母さんはそうやってなんとか生きているんだ。


本当に、よく頑張っていると思う。


心が疲れている時は、お母さんは、12時間以上布団から出ない時もある。


かと思ったら、ふらっと買い物に出かけて、なかなか帰ってこない時もある。


髪もぼさぼさで、Tシャツと短パンにつっかけを履いて、ポケットに小銭入れだけを入れて出かけるんだ。


1時間くらいすると、両手に重そうな買い物袋を提げて帰ってくる。


そういえば、料理は滅多にしなくなったな。


それでも、お母さんは頑張って生きようとしていた。


お母さんの心は、ボロボロだったんだ。


息も絶え絶え生きているのが、ぼくには痛いほど分かった。


そんなお母さんと毎日過ごしながらさとしさんと会う約束の三日間が過ぎるのを待った。






さとしさんとの約束の日になった。


ぼくは、朝からそわそわして落ち着きをなくしていた。


約束のお昼まではまだたっぷり時間があったけど、ぼくはもう堤防の方に駆けださずにはいられなかった。


さとしさんに会いたい!


その気持ちだけで堤防まで走った。


堤防に着くと犬の散歩をしている女性がいるだけだった。


ぼくは、草の上に寝転んで待つことにした。


今日はいい天気だなぁ、と思いながら吸い込まれそうな青い青い空を見ていた。


そよ風が、ぼくの頬や体を撫でてどこかへ行ってしまう。


次々とぼくに挨拶しては、去って行くそよ風。


ぼくは、すっかりこの世の任務を忘れて幸せに浸っていた。


ああ、あの時と同じ感覚だと思った。


知らないうちに、ぼくは眠っていたようだった。


隣に誰か座っている気配がして目が覚めた。


「おはよう。起こしちゃったね。」


そう言って、さとしさんが、爽やかな笑顔でぼくを覗き込んでいた。


白いTシャツにジーンズのズボンを履いて、この前とは大分違った印象だった。


きっと服だけのせいじゃない。


明るくさっぱりとした表情になっていた。


「待っててくれたんだね。ありがとう。お昼また一緒に食べようと思って適当に買ってきたよ。」


さとしさんは、手に持っていた袋を持ち上げて、ぼくに見せた。


ぼくは嬉し過ぎて、さとしさんに抱きつきたかった。


「さとしさん、来てくれたんだ!」


ぼくは抱きつきたい気持ちを抑えて、さとしさんの手を握って、さとしさんの顔を満面の笑顔で見上げた。


この前交わした握手の時と同じ、さとしさんの手の温もりがした。


「君のおかげで、何とか生き延びれたよ。君のアドバイス通り、ほとんど家から出ずに、最低限のことだけしてずっと家で寝て過ごしたよ。


嫌なことが消そう消そうと思っても何度も頭を過ぎったけど、知らないうちに眠って、体は随分と休まったみたいだよ。


君の言うように、ぼくにも自己回復力があったみたいだね。


日に日に元気になっていったよ。」


さとしさんはさっぱりした笑顔でぼくに言った。


「ううん、さとしさんが頑張ったんだよ。」


ぼくは本当にそう思った。


伝えるのは簡単だけど実行するのはなかなか出来ない。


皆そうだ。


良いと分かっていてもなかなか出来ないんだ。


現代の人は、ネットで自分をごまかして時間をつぶす人が多いけど、心身を休めるためには、五感からの情報を極力少なくして負担を減らしてあげることが大事なんだ。


つい嫌なことが思い浮かぶ人は、できるだけ考えないような努力をする方がいい。


心で数字を数えるのでもいいし、良い思い出や楽しい計画を想像するのでもいい、呼吸に集中するっていう瞑想の様なものをするのもいい。


どちらにしても、さとしさんが山を越えてくれたのが本当に嬉しかった。


でも、大切なのはこれからだった。


「少し早めの昼飯にしない?この前のパンと牛乳も買ってきたよ。」


さとしさんは、屈託のない笑顔でぼくにパンと牛乳を見せてくれた。


とっても素敵な笑顔だなと思った。


「うん、すごい嬉しい!」


ぼくはそう言って、さとしさんから菓子パンと牛乳を受け取った。


さとしさんもおにぎりとお茶を取り出して食べ始めた。


今日も晴天で、爽やかな風が流れていた。


小鳥のさえずる鳴き声や、川が穏やかに流れている様を目の前にしながら、二人でお昼を食べた。


ぼくたちは、とってもリラックスした空気に包まれていた。


これなら次の段階に進めると、八郎は思った。


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